日本に学者はいなかった

丸谷才一「文学のレッスン」のp152に「日本に学者はいなかった」という章がある。非常に困惑する章題なのだが、本文を読んでみると、「近代日本文学では学問が軽蔑されていた」、とか、「小林秀雄は明治憲法で中村光夫は現行憲法だ」などと書いている。

小林秀雄は気持ちの良い歯切れの良い文体だがしかし何を言っているのかさっぱりわからない。

中村光夫の文章にはそういう爽快さがないけれど内容を伝達する能力は高い。

で、世の中の人は小林秀雄みたいな人を優れた批評家だと思い込んでしまったので、批評は訳がわからなくてよい、みたいな話になっている。訳がわかる評論とは論文であって評論ではない、そういうものは学者が書けば済む話だ、というわけだ。

いやまあ言いたいことはわかる。小林秀雄は朦朧体みたいなもので、至る所かすんでいる。でもときどきすごく論理的でほかのどの論文よりも明晰で説得力があるところがある。そういう意味ではフロイトに似ている。でも論文じゃないんだな。そこが天才的なところだわな、他人にはまねできない、学者にはそういう仕事はできない、という意味で。小室直樹もそれに近いかもしれんね。小室直樹は(一応)学者だけどね。

「日本に学者がいなかった」なんてどこにも書いてない。困った表題だ。

一緡の青蚨

一緡(いちびん、もしくは、ひとさし)の青蚨(せいふ)、と読む。穴の開いた銅銭に通して百銭、または千文単位で結ぶひもが緡。青蚨とは銭のこと。一緡の青蚨とはつまり、ひとまとめにした銅貨のことを言う、らしい。銭緡(ぜにさし)、銅貨一緡、青蚨半緡などとも。

青蚨は青鳧とも書く。蚨は水棲の虫で蝉に似るという。鳧はケリという鳥。

青蚨がなぜ銅銭なのか。よくわからない。

南方有虫名敦禺、一名則蜀、又名青蚨,形似蝉而稍大,味辛美,可食。

南方に敦禺(とんぐう)、あるいは則蜀(そくしょく)、または青蚨(せいふ)という名の虫がいる。形は蝉に似ているがやや大きい。辛いが美味で、食べられる。

生子必依草叶,大如蚕子。

卵は必ず草の葉に付き、育つと蚕のようになる。

取其子,母即飛来,不以遠近。

その幼虫を取ると、母は遠近にかかわらずすぐに飛んでくる。

雖潜取其子,母必知処。

こっそりその子を取っても、母は必ずどこかわかる。

以母血塗銭八十一文,以子血塗銭八十一文,毎市物,或先用母銭,或先用子銭,皆復飛帰,輪転無已,名曰「青蚨還銭」。

母の血で八十一文の銭に塗り、子の血で八十一文の銭に塗る。市場で売り買いするとき、母の銭から先に使っても、子の銭から先に使っても、皆まだ再び返ってきて、繰り返し終わることがない。そこで「青蚨還銭」という名がついた。

由此,古之銅銭常以「青蚨」或「蚨钱」代指。

そこで「淮南子・万華術」では、昔の銅銭を代わりに「青蚨」或いは「蚨銭」という。

らしいですよ。なぜ81文で束にするのだろう。9×9=81というつもりだろうか。

子母銭ともいうらしい。「青蚨術」。ま、要するに、ただの銅銭ではなくて、一つづりになった銅銭の束、ということであろう。

捜神記というものに書かれているらしい。

原勝郎

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。司馬遼太郎やドナルド・キーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。ちゃんと統計を取れば、昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。

国枝史郎

いろんな意味でいろいろひどい。

天草四郎の妖術。天草四郎の臨終の言葉がイエスと同じく 「われ渇く」「事畢りぬ」 だったというのだが、作り話にもほどがある。

ヒトラーの健全性。 たわいないとしか言いようがない。 戦中の日本人がみなこんな馬鹿だったとは思えないが、 こういう人はたくさんいたのだろう。

ローマ法王と外交。これも戦中、日独伊三国同盟絡みの話と思われるが、 いろいろつっこみどころがある。

法王ヨハネ十二世は外交手段を揮い、盛儀を執行とりおこない、 「汝を神聖ローマ皇帝となす」 と宣言し、その冠を頭上に置き、 「イタリイ王をも兼ねよ」と追加して云った。これで地球及び歴史の上に忽然と神聖ローマ帝国なるものが出来上がったのであった。しかもその物々しい名称の神聖ローマ帝国なるものの内容はといえば、ドイツとイタリヤとを合わせたものに過ぎないのであり、そうしてそのドイツとイタリヤとは既にオットー一世が平定乃至ないしは攻略したものであったので、何も羅馬法王から今更頂戴する必要はないのであるが、それを呉れてやるような形式にして、法王の位置を皇帝よりも上のように認識させたところに、この法王の偉さがあるのである。

ローマ皇帝がローマ教皇に戴冠されるというのはカール大帝に始まる権威付けであり、 オットー一世はそれをなぞったのにすぎない。皇帝と教皇は持ちつ持たれつ。つづくグレゴリウス七世とヘンリー四世の破門がどうのこうのと言うのも同じ話。誰が皇帝となり誰が教皇となるか、誰を担ぎだれを蹴落とすか。皇帝を戴冠するのも破門するのも教皇の自由だが、皇帝はその教皇をローマから武力によって追い、或いは枢機卿を味方につけて、自分に都合の良い教皇を立てることができる。複数の皇帝と複数の教皇が権威と武力を駆使して駆け引きをしているというのが実態なのであり、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝より偉いというのは全然間違った見方である。

ペーターという狂信家を利用してウルバヌス二世が第一次十字軍を招集した。まあそこまでは良いとして、

私が何故法王ウルバン二世を大外交家であるというかというに、当時の封建武士がこの時代に流行した騎士道に心酔し、兎ともすると法権を侵す態の行動をし英気を他に洩らす術なき脾肉の嘆をかこっていたのを認め、この十字軍の挙によってその英気を宗教戦に洩らさせ、キリスト教興隆に役立てようとしたその点からである。

その観察は明らかに間違っている。確かにウルバヌス二世は第一次十字軍の重要なロールプレイヤーの一人だが、それ以上ではない。十字軍は、少なくとも第一次十字軍は、東ローマが衰退し、相対的にトュルク人とノルマン人の勢力が東欧に伸張したことによって起きた。ただそれだけだ。キリスト教とはほとんど関係ない。その後の十字軍はヨーロッパのキリスト教国の勝手な暴走であったかもしれないが。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

中島敦の日記と書簡

中島敦の旧宅は今の世田谷区世田谷の世田谷中央病院の辺りだが、 私はこの界隈に二度ほど住んだことがある。 最寄り駅は世田谷線世田谷駅。 松陰神社や代官屋敷も近い。 ボロ市も何度も見たし、豪徳寺を散歩したりもした。 彼の昭和十七年七月十三日の書簡に

これからは役人をやめて、原稿を書いて生活していくことになるでしょう。今も盛んに書いています。 但し、僕の書く物は、女の子の雑誌には向かないから、君たちの目にはなかなか触れないでしょう。 時々清書してくれる人が欲しくなりますよ。

八月六日には

南洋庁へは辞表を出しました。作品を書きたいからではなく、身体が(また南洋へ行くのでは)もたないからです。

十月二十八日には

小生、まだ南洋庁からお暇が出ません。 今度またあちらへやらせられれば身体のもたないことは判りきっていますので、これだけはどうあっても頑張ってやめさせて貰おうと思っております。

などとも書いている。 ざっと読んだだけだが、小説を書こうなどと言い出したのは、南洋から帰ったあとであり、 南洋から帰るということは役人を辞めて小説を書こうと考えたからだろうと思われる。 彼は役人という仕事が嫌いだった。 病気のためもあるかもしれないが、中島敦は役人を辞めて物書きになろうとしているのであり、 「山月記」の李徴の境遇に近いのではないか。

「山月記」の主題とは何かということを改めて考えさせられたのだが (「山月記」はなぜ国民教材となったのか、および人虎伝)、 「大して裕福でもなく、病気で死にかけているのに、役人を辞めて物書きになろうとしている、妻子持ちの自分」というものをどうしても書きたかった、 というより、 どうしてもそちらのほうへ話が引きずられてしまった、というあたりが真実ではなかろうか。 彼はおそらくパラオで役人をやっていたら世田谷で死なずに済んだはずだ。 パラオから帰ろうと思ったのは著作活動には東京の方が何かと便利だと思ったからだろう。 しかし、病状が進んで南洋に帰ることもできず、東京では養生もできずに死んでしまった。 「山月記」に主題があるかどうか知らんが、もし主題というのならそのあたりではなかろうか。

人生の無常とか世の中の不条理とかが現代小説の主題ですとか言う必要はないと思うんだ。 いやていうかね。 高校国語で「現代小説の特徴」とかいう雑駁なことを教えようとするからいけないと思うんだ。 (コモンセンスとしての)「現代小説の特徴」などというものは存在しないのだから。

ちなみに私も昔役人だったが辞めた。 辞めた年齢も、ちょうど中島敦と同じくらいだった。 独身だから気楽に辞められたが、妻子がいたら思いとどまったかもしれない。 中島敦は役人(仕事)が嫌いだった。 私と同じ理由かどうかはわからんが、 辞めたときの私の気分は「巨鐘を撞く者」の中で大塩平八郎に代弁させてある。 今度当該箇所を読んだらにやりとしてほしい。

世田谷にいた頃に書いた日記を探してみたがろくなのがない。

酒のほそ道

風邪引いてだるいので気を紛らすため、例によって駄文を書くことにする。私はこの、『酒のほそ道』の主人公の岩間宗達のキャラ設定が不思議で仕方なかった。居酒屋や寿司屋を食べ歩き、飲み歩くばかりではなく、一人で家で晩酌したり、山登りして景色を眺めながら飲んだりする。年は29歳、独身。恋人未満の女友達がいる。

自分もそうだったが、普通に仕事していて独身の男で飲み歩きが好きならば、自宅で一人で晩酌するなどもったいない、一軒でも多くの店を開拓したいと思うのではなかろうか。 またたった一人で旅行して酒を飲んだりするというのが解せない。

でまあ今回この第三巻を読んでみて思ったのだが、作者のラズウェル細木という人は、すでに嫁がいて子供がいる人なのである。妻子持ちならば、一人で酒を飲みたくなることは十分ある。つまみは缶詰でたった一人の晩酌でもいいから飲みたいというのは人間関係から逃れたいから。とにかく家庭や仕事、妻子から逃げ出して一人きりになりたいのだ。その自分を独身男性に投影するからキャラがなんか不思議なことになっているんじゃないか。

ラズウェル細木自身はメタボでもなくハンサムな男だそうで (追記。つか、youtubeに露出してるじゃんか。ハンサムかどうかはともかく、痩せてるな)、だからこそ彼は、メタボで独身でどちらかと言えば三枚目で、独り飲みが好きな架空の男を作り出したのだろう、という結論に達した。彼はアシスタントの女性と結婚して離婚している。育児マンガも描いている。離婚した妻は今もアシスタントとして働いているという。独りで飲み歩きたい気持ちが伝わってくるよなあ。

というかもともと自分とはまったく別のキャラを描こうとしたのだが、キャラというのは自然と自分に似てきてしまうので、連載しているうちにあんなふうになってしまったのかもしれん。

元妻のブログというものもある。

ディエンビエンフー

タイトルが『ディエンビエンフー』でなければこの漫画を読むことはなかったと思う。作中にも書いてあるが、ディエンビエンフーは厳密にいえばベトナム戦争ではない。しかし普通の人は(私も含めて)ディエンビエンフーと言えばベトナム戦争を連想するだろう。あるいは、ベトナム戦争の前史であるインドシナ戦争の話を期待するのではなかろうか。

ベトナム戦争を表層的ではなく扱っているという意味では悪くないアプローチだと思う。これよりも浅い戦争漫画ならいくらでもありそうだ。

美少女のヒロインが出てくるところが若干漫画だ。そこは既定路線だと納得できれば抵抗なく(いや、あるが)読めるのかもしれん。

ふと思ったのだが、戦記ものというのは、戦略的には比較的忠実に歴史をなぞり王道を行きつつも、戦術的部分、つまりディテイルはかなり脚色してラノベ化するのはアリなのかもしれん。cat shit oneもある意味そうだ。その逆はたぶん読むに堪えないのではないか。

鬱ごはん

面白い。それはさておき、ここに出てくる食事というのは、すべて、ファミレスだったり、コンビニ弁当だったり、回転寿司だったり、ハンバーガーだったり、牛丼屋だったりピザだったりインスタント食品だったりする。そして酒は出てこない。タバコは一瞬出てくるのに酒がでない。私の小説とはどっこもかぶってないところが逆に面白いといえば面白い。

そして、ファストフードは一通り出てきて、かつ、そばの話は二度も出てくるくせに、富士そばなどの立ち食いソバの話が一切でない。これもある意味象徴的だ。

まあ、たぶん、酒を飲むやつと飲まないやつの違いだろうな。ラズウェル細木だと絶対こうはならんもんな。

食い物の話は好きなくせに、なぜ今までこういうのを書こうという気が一度もおこらなかったのかというのを自問自答している。たぶん自分が20代なら必然的にこうなったのかもしれない。じゃあ50近くのおっさんがファミレスやチェーンの居酒屋や牛丼屋の話を書けばどうなるんだろうか。謎だ。矢口高雄が渋谷や原宿の話を描くくらい何かが違う。

なんて素敵にジャパネスク

氷室冴子はマンガやアニメの原作者としてはすでに知っててまあ好きなほうだから、小説も割といけるかと思ってためしに『なんて素敵にジャパネスク』を読み始めたのだが、いろんな意味で驚いている。

まず、こんな昔からラノベって1センテンスごとに改行してたのな。

第一印象としては人間関係がわかりにくい。官職名がいきなりぽんぽん出て、これ、読むひとほんとに理解して読んでるのかという感じ。権少将とか大納言とか出てくるんだが、官位が書かれてないからどっちが偉いのかもわからん。そんなこと考えなくていいんだろうけど、気になる。むしろ、そうやって、よく分からない単語であふれさせることによって、無理矢理平安時代の雰囲気を出しているのかもしれん。

だがまあこれは明らかにラノベだ。腐る前の時代のラノベ。ドタバタラブコメが主流だったころの、八時だよ全員集合時代のラノベ。あるいは、防腐剤として古典的教養らしきものがふんだんにまぶしてあるが、それらを取り去れば自然に腐って現在のラノベになるのだろう。今のラノベはこんな難しかったら読まれないんじゃないかと思う。

ヒロインの弟が融というのだが、この時代、融と言えば源融。だが、父親は藤原氏。だから、藤原融というのだろうが、これがものすごく気持ち悪い。漢字一字の名前というのはだいたい嵯峨源氏。藤原氏の名前はほぼ例外なく二字。まあそんなことどうでもいいわけだが。

高彬という名もなんとなく変な感じ。幕末ころの武士の名前だろうとか思う。島津斉彬とか。醍醐天皇の皇子のつもりかな。第十皇子に源高明というのがいるわな。

ざっとネットを検索しただけだがこの作品には次のような和歌が出てくるらしい。

瀬を早み 楫子のかじ絶え ゆく船の 泊まりはなどか 我しりぬべき

春立つと 風に聞けども 花の香を 聞かぬ限りは あらじとぞ思ふ

心ざし あらば見ゆらむ わが宿の 花の盛りの 春の宵夢

うーん。どれもダメだ。大人げないが全然ダメ。単なるパロディなら笑って許せるが、割と狙ってるところがダメ。つか、パロディ(蜀山人の江戸狂歌みたいな)作るにはそれなりにわかってなきゃだめだからな。百人一首のうろ覚えプラス歌謡曲レベルだわな。逆の言い方をすれば、普通の人には和歌なんてものはこの程度で良いということだろう。