ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

句点省略の異同について。

しつこくもまだ調べている。 中島敦『斗南先生』で比べてみる。 一つは「ちくま文庫」の『中島敦全集Ⅰ』。

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。

省いてない。 次に集英社文庫『山月記・李陵』の同じ箇所。

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている」と言い出した。

省いている。奥付には底本は筑摩書房『中島敦全集』とある。 もひとつついでに青空文庫の当該箇所、

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。

省いてない。底本は岩波文庫、親本は筑摩書房『中島敦全集Ⅰ』とある。 ま、ともかく、ある程度の「書式の修正」が加えられることがあるわけだから、 用心しないと、もともと著者が省いていたのか、校正で省かれたのか、わからぬわけだ。

集英社文庫は他の箇所も徹底的に省いている。中島敦という人は面白い人で、省いたり省かなかったり。 律儀に必ず省くとか省かないとか決めずに書いている。 それにはある種の法則性というかポリシーがあるのだろうと思うし、実際、私もそんな書き方をしているように思う。

ふと気づいたのだが、

その「お髯の伯父」(甥たちはそう呼んでいた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。

のように、丸括弧の最後に句点を打っている箇所がある。なるほど、ここは打ちたくなる箇所ではあるが、私なら打たないだろうと思う。

句読点の省略と新聞社について

思うに、夏目漱石が最初に作品を発表したのは朝日新聞であり、森鴎外は読売新聞だ(追記: 漱石が最初に小説を発表したのはホトトギス、明治38年。鴎外が小説に関する論文もしくは戯曲の翻訳を発表するようになったのは読売新聞で明治22年、最初の小説『舞姫』を発表したのは国民之友)。司馬遼太郎ももとはと言えば産経新聞の社員。このように、新聞社関係の人間は、カギ括弧の終わりの句読点を省く傾向がある。

一方、永井荷風や中島敦らが最初に活動したのは文芸誌か同人誌であろう。

新聞社では活字を節約するために、句読点の省略ということをやった可能性が高い。せこいが年間で0.何パーセントか、コストを削減できたに違いない。逆に文芸誌や同人誌などは、たかだか句読点の一つや二つ省いたからと言って、採算がどうこうなるというわけではなかっただろう。学者の文章というのも、やはり、句読点を省かなかったのに違いない。

子母沢寛も松本清張ももとはといえば新聞社の人間である。そして、新聞社というは、影響力が大きいものであって、そのために句読点が省かれるようになった、また、みながそれを真似するようになった。

そんな気がする。

もしそうだとすれば、今の時代に句読点をいちいち省略するのは、ばかげたことだと思う。

『墨東綺譚』を読むに、やはり句点は省かれていない。「そうか。」「今晩。」「ご存じ。」など、短い会話文でも、かならず、省略しない。短くても改行する場合が多いが、いつもではない。朝日新聞に掲載されているが、永井荷風は当時すでに文豪だったから、句読点を削られるようなしうちはなかったのに違いない。やはり、初期の頃の執筆の癖というものが、その後もずっと残り、途中で変わることはない、と考えるのが自然だろうよ。

追記。文芸作品に限れば句読点を省くか省かないかなどということは些細なことかもしれないが、新聞に掲載するのは文芸だけではないから、活字の節約ということは大きな意味がかつてはあったに違いない。文体も簡潔にし、改行もできるだけしない、などということがあったかもしれない。

『墨東綺譚』は最初私家版だったらしい。

同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。

宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。

ドナルド・キーン3

ドナルド・キーンの「足利義政」を読んだ。ハードカバーだが、文章量はさほどない。それをさくっと読んだ感想だが、やはり、この人自身が、義政の東山文化にしか興味がなく、というか東山文化に興味をもったために義政に行き付き、その施政に疑問を持ち、いろいろ調べてみたが、西洋的な為政者のイメージとあまりに違っていてわけわからん、というのが結論らしい。

思うにドナルド・キーンは明治天皇を褒めすぎで義政をけなしすぎ。確かに明治天皇は偉大な人で、外国人から見ても日本人から見ても驚嘆すべき存在なのだが、ここまで褒めるのは何か偶像視しているようで違和感がある。明治天皇は偶像ではない。実在した生身の君主だ。逆に義政も悪政者の偶像ではない。

たぶん、ドナルド・キーンという人は、明治天皇と義政以外の日本の為政者は描けない人なのだろう。事実、彼は義教を義政の父として紹介しているのだが、実に平板な、恐怖政治を敷いたために暗殺された人、みたいな描写になっている。なんとも観察が浅すぎる。そんな文章なら大学生のレポートでも書くだろう。極端な例をさらに誇張して書くことしかできないのであれば、日本の歴史に現れたさまざまな功労者たちをどうやって顕彰できようか。日本史全体の流れをどうやってとらえられようか。そういうつまみ食い、文脈を無視した切り出しは許せない。

日本外史は、そうはなってない。将門・純友の乱から始まり、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、源平合戦、承久の乱、建武の新政、南北朝の争乱、と読んでいくうちに、頼山陽が主張したいテーマというものが一本につながってわかってくる。なぜ天皇は失政を繰り返したのか。なぜ武家政権が起こったのか。なぜ武士らが皇位の継承や領国支配に干渉せねばならなかったか。もちろん個々人の活躍もあるのだが、日本外史が主張したいのはその日本史のコンテクストというものだ。しかしつまみ食い派の司馬遼太郎やドナルド・キーンにはその観点はない。そしておそらく、今の日本史教育にもそれはない。

なるほど、キリスト教やイスラム教では貧民に施しをする喜捨の習慣がある。美徳と言ってもよいかもしれん。しかし、内村鑑三も言うように、彼もキリスト教徒だが、一万円の金を一万人に一円ずつ配るよりは、その一万円の金で新しい事業を興した方が世の中のためにはなるだろう。その一万円が雇用を生み産業を生んだら何百万円の価値に増えるからだ。目の前の貧民に施しをしなかったから悪人であるというのはあまりにも短絡的ではないか。

内村鑑三の意見はエントロピー的にも正しい。一円の金を集めて一万円にするにはたいへんなエネルギーが要る。或いは、金儲けという才能、或いは運が要る。しかし一万円を一円ずつばらまくのは極めて簡単だ。労力は要らない。運も要らない。そしてばらまいたものは二度と戻っては来ない。仮にその一万円の投資が失敗しても、誰かにその金は渡っているのだから、世の中全体として無駄になったわけではない。

私なら知人で困っている人(かつ好意を持っている人)には何らかの援助をすることもあるかもしれんが、マスコミやら慈善団体を通じて寄付や募金をするということはしないと思う。自分のお金がどう使われるか、どんな人間に渡るのかコントロールできないのだから。

司馬遼太郎にしても、海軍を褒めすぎて陸軍をけなしすぎ。実際には海軍にもいろんな暗部恥部があったに違いない。陸軍とそれほど大した違いはないはず。なるほど東郷平八郎は偉大な提督だったかもしれんし、乃木希典には致命的な欠点があったかもしれんが、トータルで見たときに、組織として、陸軍と海軍のどちらかが悪でどちらかが善、という描写をするのは極めて危険だと思う。もし彼が単なる娯楽小説として書いているならばともかく、第二次世界大戦の敗北の遠因を分析しているつもりだとすれば、明らかに間違っていると言えよう。それは、幕末や戦前の危険思想家とどれほどの違いがあろうか。

ドナルド・キーン2

続き。ドナルド・キーンは

宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。ここで、いくつか認識に誤りがある。まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。また、日記にはほとんど漢文調のものもある。享和元年日記など。「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、不自然なものに思えるだけではなかろうか。心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。ただそれだけだと思う。

ドナルド・キーン

ドナルド・キーンという人はまだ存命中の方のようで、88才くらいだろうか。源氏物語か何かを研究して海外に紹介した人、というようなイメージであっているだろうか。「日本人と日本文化」という本で、司馬遼太郎と対談しているのだが、何かずいぶんへんてこなことを書いている。

私は正規に日本史教育を受けた人間ではない。高校では世界史を取った。いわば独学なのだが、それもつい最近、日本外史を精読するようになったから、ついでにいろいろ調べてみているに過ぎない。で、日本史を特に知らなかったころの自分がこの本を読んだら、ふーんなるほどで済ませてしまっていたと思う。なるほど、司馬遼太郎とドナルド・キーンがそういうのならそうなんだろうな、と。しかし、ある程度わかってみて、自分の考えというものが固まってから読んでみるとかなり個性のある、独自の主張、もっというと異様な主張をしているように思えてくるのだ。

特に驚いたのは、足利義政と本居宣長についての評価だ。司馬遼太郎は義政を

法制的には(共和制ローマの)護民官みたいな立場にありながら、まったく政治ということにタッチしなかった

と言っている。また、キーンは

ローマ皇帝のネロが、ローマの燃える炎を見ながら、バイオリンを弾いていたという伝説がありますけれども、これは嘘でしょう。しかし事実として義政公は、花の御所で、いろいろ風流の遊びをし続けていた。そのごく近い所で、多くの人々が死んでいった。

などと言っている。ようするに彼らは、足利将軍をローマ皇帝だか護民官のようなものと比較して、あまりに義政が無為で文弱だった、と言いたいわけだ。しかし私は、もしドナルド・キーンが義政と同じ立場に立たされれば、きっと義政と同じようにやるしかなかっただろうと思う。

足利高氏は逆賊となるよりはと、一族郎党にかつがれて、幕府を作り北朝を立てた。義満の時代に南北朝は解消したが、必ずしも義満に権力が集中したわけではなく、すでに有力守護大名や関東管領らによる合議体に成りつつあった。おそらく南北朝の争乱を通じて将軍家としては、功績のあった諸侯に褒賞として守護職を与え続けるしかなかったのだろう。畠山にしろ細川にしろ山名にしろもとは関東から出てきて足利氏を御輿にして一緒に戦ったわけだが、だんだん足利氏の手に負えなくなった。

ところが足利義教の時、鎌倉公方を滅ぼしたり守護大名の力を押さえたりして、中央集権の強化を図った。義教は足利将軍の中では一番強権的で、帝政ローマの皇帝か共和制の護民官に匹敵したかもしれん。しかし、義教はあんまり調子に乗りすぎたせいで、守護大名の一人の赤松氏に弑されてしまい、赤松氏を討伐した山名氏は赤松氏の領国も合わせてますます強大になった。ここで当時最有力だった細川氏との間で緊張が高まった。

そもそも守護大名らはいくつもの領国を持っていたので、将軍家よりも力を持っていた。山名宗全など赤松氏の領国を合わせて但馬・備後・安芸・伊賀・因幡・伯耆・石見・播磨の八ヶ国の守護職だった。足利氏が独力で細川氏や畠山氏を討伐することなど不可能だし、討伐したらしたで功績のあった大名の領国が増えるだけだ。最悪、赤松氏に殺された義教のように、自分も守護大名に殺されることだってあり得る。そういう状況で義政が大名の家督争いを下手に仲裁しようとしたもんだから、応仁の乱に発展し、日本全土に戦が広まって、長期化してしまった。おそらく、義政にできたことは、荒れ果てた京都において、天皇家や公家らを保護するくらいのことだっただろう。義政は最初はおそらく将軍らしくいろいろな問題を仲裁しようと思ったが、自分にできることがあまりにも少ないので絶望してしまったのだろう。だから早く引退したかったのだが、子供もいないので仕方なく養子を育てることにしたのだが、実子が出来てしまい、正室の日野富子がどうこうということがあって、なかなか将軍職を辞めらなかった。

キーンは、京都に住んで京都大学で研究してたから、京都のことはよく知っていたに違いない。いろんな人からいろいろ義政の話も聞いたのだろうが、義政の極めて一部だけを知って、つまり銀閣寺を建てたとか花の御所で遊び暮らしたとか、そんなことだけをとがめ立てして憤慨しているとしか思えない。

ある意味では気違いだったのでしょうか。

とまで言っている。気違いだとかアスペルガーだとか言ってしまえばもうそれから先は思考停止しかない。

司馬遼太郎はもっとひどい。義政はまったく政治にタッチしなかったのではない。なんとか仲裁し調停しようとはしたのだ。しかし守護大名らは勝手に戦を始めてしまった。軍事力をもたず調整役でしかない将軍が、始まってしまった戦をどうすることができようか。さらに応仁の乱はあまりにも長期的で全国的な争乱だった。おそらくは散発的なものだったのだろう。それで焼け出された民衆を助けるといっても限度があったに違いない。おそらくは、まったくなにもしなかったのではなかろう。やってみたが、焼け石に水だったのだ。それに、民衆を助けるというが、その実態は「足軽」という名のよくわけのわからない民衆たちが、勝手に寺や神社や公家の屋敷などに火を付けて略奪して回った、というのが事実なのではなかろうか。そんな民衆をどうして助けたいと思うだろうか。

なるほど、ドナルド・キーンと言う人が、義政について、よくわからないと。分からないなりに外国人としての視点から指摘をするのはまだ良いが、それについて、きちんと誤りを正す立場にある日本人が、司馬遼太郎のように、

キーンさんは、いわば義政はろくでなしの政治家であるとおっしゃった。まったく言われてみればその通りですが、しかしわれわれは将軍というものに、それほど政治家であることを期待していない。
当時も後世のわれわれも期待してないわけです。

足利将軍家の義政というのは東山文化を生んだたいへん偉大な人物であると、われわれ不覚にも単純に思っていたら、キーンさんはそれを大統領にして、あの「大統領はよくなかった」とおっしゃるからおもしろかった。

などと言ってしまっては、もうどうしようもない。司馬遼太郎の認識では足利義政は銀閣寺はすばらしいくらいでしかなく、そこに外国人から為政者として批判があっても、それにうまく答えられない。そればかりか、無学な北条氏はまじめに政治をやったが、教養人の義政は不真面目だった、要するに学問があるやつは政治にむいてないくらいの、ただの飲み屋の親父が言う程度のことしか言えてない。

思うに北条泰時などは相当なインテリだっただろう。ああいうことはよっぽどきちんと宋学を学んでないとできないはずだ。それに泰時は定家に学んで歌も残している。無学どころではない、きちんと当時の京都の最新の教養を身につけた人だ。始祖の北条時政もずいぶんと利口だった。でなければあんな大それたことはできまい。それがどうして

鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。

などということになるのだろうか。司馬はさらに

どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが、

などとも言っているのだが、ようするに、彼にとって秀吉や義経や龍馬のような、わかりやすい英雄とか、わかりやすい決着が不在の戦争、ごちゃごちゃした始まりも終わりもないようなうやむやな内戦のような戦争は無意味でただ騒ぐだけの戦争に見えるということだろう。そういう認識は間違っていると思う。そしてほんとうに問題なのは、日本人の多数が司馬遼太郎程度にしか応仁の乱を認識していないってことだよな。

なるほど。ドナルド・キーンは足利義政について何冊か本を書いているようだな。まあ、だいたい内容の予測はつくが。

私小説のすすめ

小谷野敦「私小説のすすめ」を読む。 比較的最近の本。 特に異論はない。さらっと読めた。 というか私はそもそもあまり小説というのは読んでないのだな。 いろんなものをつまみ食いはするが。 いや、読んでないわけでもないか。 小説で一番まじめに読んだのは中島敦かな。 なんとも言い難い。

ちなみに田山花袋「蒲団」は読んだことがあった。 ちなみに敢えて「蒲団」の感想を書けば、なんか嫌ぁな気分になる読後感の悪い小説、 しかも私小説となると余計に気持ち悪い感じといえば良いか (しかし、三島由紀夫の虚構に盛られた私的世界の方が気持ち悪さという意味ではずっと強い)。 丸谷才一が代表的な反私小説的作家とあって、確かにそんな感じはする。 いきなり「エホバの顔を避けて」だし(その後のは概要しか知らないが明らかに私の嫌いな、読みたくないタイプの小説)。 たぶん自分の内面をさらすのが嫌なのだろうし、 作品と自分自身の実体験を極力切り離して、少なくとも悟られないようにしようと努力するのだろう。 絵画であれ文章であれ、 ほっとくとどんどん自分の主観が表れて、 それを見ると自己嫌悪に陥ってしまう。 そうなるとそういう私小説的な文章やら絵はかけまい。 さらにそこから進むと批評しか書けなくなるのではないか。

いつもこの人の文章をブログで読んでいるので、 新書で読むとなんか一瞬何かぐらっと変な感覚がした。

それはそうと書籍名を「」でなくて『』で囲むのには何か意味あるのか。 Wikipedia でもそういう書き方をする人がいるようだが。

ところで丸谷才一がいきなり「後鳥羽院」を書いた理由が未だにわからない。 当の「後鳥羽院」を読めばわかるのかもしれんが。 思うに丸谷才一という人は、 懲役忌避やら現代における封建時代の残滓などをテーマとしたような小説を書いたそうだから、 戦前の軍国主義につながるようなものは一切受け付けないのかもしれない。 となると、丸谷才一にとって日本文学の中で拒絶反応を示さず、 純粋にその世界の中に浸れるのは、悠久の昔からたどってきて、 完全に軍事放棄し軍事音痴と化した平安王朝と、武士らに滅ぼされた後鳥羽院までの文学なのかもしれん。 王朝が破局したあと、 武家のたしなみとしてそれなりに継承され、再発見され、 発達した和歌とか、軍国主義を無批判に礼讃したような和歌などは、 丸谷才一は大嫌いだろうと思う。 だが、丸谷才一はたぶん自分の本当に言いたいことは隠す人だから、 いろいろ読んでもすぐにはわからない仕組みになっているに違いない。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。