岡本太郎と岸田劉生

岡本太郎と岸田劉生はどちらも画家であり、芸術家であって、同時に文人でもある。私はまず青空文庫などで岸田劉生を見かけて面白いと思い、岸田劉生全集を買った。買ってしまうと積読になりがちなのだが、実際今はそれほど読んではいない。

そうしたところで、ある人から、岸田劉生ばかりではない、岡本太郎もずいぶんたくさん本を書いているよということを聞いた。そこで私は、岸田劉生を読むからには岡本太郎も読んで比較せねばなるまいと思った。岡本太郎の本は図書館にいけばいくらでも借りることができるし自分で買うこともできる。一方、岸田劉生全集はめったにない(岩波文庫にもあるが全集には程遠い)。ある図書館にはあるが、非常に珍しい。珍本の類といってよい。つまり岸田劉生を読む人は岡本太郎の読者よりも圧倒的に少なく、それゆえ、岸田劉生を理解する人もほとんどいない状況である、と言える。

それで岡本太郎の書いたものを片っ端から読んでいるのだが、たとえば、日本庭園というものは、自然そのものではなく、人工物でもなく、その中間的な、その多くはどっちつかずであいまいな、安易な姿勢をとっている。それが日本の伝統芸術全般に言えることであって、口惜しい、などと言っている。岡本太郎は、日本のいろんな古刹や庭園を見て回って、日本の伝統芸術というものを、ときに褒めつつ、ときにけなしつつ、全般的には、戦後民主主義社会に顕著な、戦前や維新以前のものを否定して、現代を肯定する方向へ、どうしてももっていこうとする。結論ありきな展開が透けてみえる。

実を言えば、岡本太郎自身が、彼が自ら言うように、極めて、中間的な、その多くはどっちつかずであいまいな、安易な人なのだ。彼が日本の古典に対して言うことはいつもふらふらしていて、結局何が言いたいのかはっきりしない。つまり、よくわかっていないのだ。自分には良いか悪いか判断する知識が、あるいは判断力そのものが足りません。わかりませんといえば済む話だと思うのだが。たぶん彼は出版社やら新聞社やらに連れ回されて日本の寺社を隈なく見て回らされたのだと思う。そして何か書けと言われた。原稿料ももらった。だから書いたけど、結局見れば見るほど彼はわからなくなっていったのではないか。そうした迷いで書いたものを編集者らはそのまんま出版してしまった。何しろ岡本太郎本人が書いたものを出せば売れる。商品価値があるから出してしまった。同じことは白洲正子にも言える。

今日の日本芸術論はたいていこの岡本太郎の言うことの焼き直しばかりだと言える。

日本の古典美術を礼賛する人は必ずしも日本の古典の真の価値、真の意味を「発見」してはおらず、たいていそれは戦前の保守的国粋的な価値観を蒸し返しただけの迷惑なものだ(いわゆるネトウヨの主張はたいていその程度のものだ)。人は往々にしてそれら戦前の遺物を叩いて満足し、それ以上古典というものを自分の目で精査しようとはしない(人は自分が生まれた時代の新たな方法論で古典を再評価し、客観的に見て明らかに間違った定説を破棄する義務がある)。彼らはつまり記号化された保守、記号化された国粋主義を批判しているのであり、そもそも何を保守すべきで、何を捨てるべきかという選別をしていない。旧家が老朽化し取り壊すことになった。蔵の中にしまわれたものを日の当たる場所に並べて一つ一つ鑑定し直すこともなく、まるごと解体屋に壊してもらい更地にしてしまったという発想となんら変わりない。

逆に、これもよくあることだが、旧家は何がなんでも保全しなきゃならんと、民間でできなきゃ国や地方自治体が予算を組んで保守しなきゃならんと言う人たちもいて、彼らもやはり、保守するならするで保守する価値のあるものはなにかを一から鑑定し直す、修復しなおす、などという手間をかけようとは、普通はしないのである。ただ古いからもったいないと思っているだけだ。

戦後雨後の筍的に生えてきた革新的評論家に比べれば岡本太郎はより勉強しているし古典に対して理解があり、同情的であると言えるが、彼が生まれ育った環境からは、日本の過去が、歴史が、伝統が、古典というものがあまり見えてはいないようだ。世の中のすべてのことを見知る機会を得られる人などいない。岡倉天心だってたまたま開港したばかりの横浜に生まれ育ったからああいう人になったに過ぎない。岡本太郎と岡倉天心はそういう意味でよく似た人だと言える。

だからそこで、岸田劉生や夢野久作、夏目漱石や芥川龍之介などといった、ほんものの古典理解者との差がでてきてしまう。今世間で保守主義とか国粋的と言われている人々のほとんどは芥川龍之介程度の「革新」かぶれの「若造」ほども古典を理解してはいない。

それで岡本太郎が世界に名の知れた芸術家であるから私は彼の書いたものを読んでいるが、彼がそれほどの名声を得ていなければ私は彼が書いたものをわざわざ読むことはなかったと思う。つまり私は世の中で芸術家と呼ばれる人が書いたものを参考までに読んでいるのに過ぎない。

しかし岸田劉生は違う。彼がまったく名の知られていない画家であっても、私は彼が書いた本を読むだろう。なぜかといえば彼が書いたものは読んで面白いからだ。

人々が装飾的だと思う光琳こうりんなどは僕の目には本当の装飾の感じをうけない。形式がいやに目について装飾の感じは来ない。装飾の感じは線や何かが有機的に生かし合っている、そして如何にも精神を以てこの世界を飾るという感じがする。ウィリアム・ブレークやシャバンヌなども装飾的だ。ブレークの描く人間の形は布局の線のための形だ。その表情から来る想像の力をぬかせば。
 こういう内容の一部を生かすのには日本画法はよい手法である。花鳥でもいい人物でもいい風景もよかろう。写実に行かずとも充分に内からく美で形を与える事の出来る内容(即ち内なる美)を取る人が執るとあの資料はたしかに世界に特殊な美を生んでくれると思う、昔の日本画にはそういうものがわりに沢山ある、いろいろの程度で。

どうかな。難解、とか、衒学的、というより、理解するのに非常に時間を要する、つまり、一つの文章がもつ情報量が圧倒的に多い。岡本太郎は絶対こういう文章はかかない。

岸田劉生は、尾形光琳の絵は装飾というよりは形式だ、記号だと言っているように見える。劉生にとって装飾とは人間の想像の華である。美術とは世界の装飾にある。美は外界にはないく人間の心の
うち
にある。しかし光琳の絵は世界の装飾というよりは単なる形式に近い、と言いたいのだろうと思うが、合ってるだろうか。そして岡本太郎が光琳の絵に惹かれたのはおそらくそこに、縄文の土偶や弥生の埴輪や、アフリカの原始美術にみるような意匠性、社会的な記号性を見たからではないか。劉生の言う形式とはつまり、商店街に掲げられる看板のような、菓子箱のパッケージデザインのような、様式化された、外面的なものをいうのではなかろうか。一方で装飾とは、写実から外れた誇張表現、叙情的な、緊張や恐怖など内面の表現のことを言うのではないか。つまり世間でデザインとアートを分けていうようなものが、形式(様式)と装飾の違いではなかろうか。

多くの古典批判や古典礼賛に共通しているのは情報量がゼロだということ。ただ宣伝したりけなしたりしているだけで、読んでも何も得るものがない。それらは方向性が違うだけでどちらも同じものだ。

結局私は岸田劉生が良い作家であることを再確認するために彼の同業者である岡本太郎を参考にしたというわけだ。もちろん文芸だけでなく芸術についても興味はあるのだが。

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