1984を書き遺したジョージ・オーウェルという人は、大英帝国の末期に生きたイギリス人なわけだ。
「ビルマの日々」「動物農園」などをあわせよんでみると彼の輪郭がだんだんはっきりしてくる。
> 殉教者を作ってはならない(one must not make martyrs.)。
これこそまさに大英帝国がその数百年にわたる帝国支配において、というより、
キリスト教社会において、長い年月をかけて学んできたことだ。
キリスト教は「殉教者ビジネス」の先駆だ。
教祖のイエスが殉教者の典型であったが、しかし、ユダヤ教の預言者にその前例がなかったわけではない。
イエスがその殉教という演出方法を完成した。
ほかの、例えばバラモン僧が自分で火あぶりになって死ぬみたいに、悟りや救済のために自発的に死を選ぶ「殉教」ではなくて、
キリスト教の「殉教」は権力者による宗教弾圧とセットになっている。
宗教的弾圧を受けることによってより強固な共同体を作り出し、民衆、特に貧民を組織し、国家を侵食していって、
やがて国教におさまって国家を乗っ取る。
キリスト教とはそのような宗教である。
かつて日本にやってきた宣教師も弾圧され殉教した。
ローマ法王は日本で殉教した宣教師を列聖することによって、日本にキリスト教の種を植え付けようとした(日本も爆心地の浦上天主堂をそのまま遺しておけば殉教のシンボルとすることができたのだが、建て替えてしまい、惜しいことをした)。
殉教によって信仰がより強固になることを知った徳川幕府は、彼らを殺してしまってはいけないということに気付いた。
改宗させるか、改宗しないまでも、生かして閉じ込めておくことにした。
死ぬと殉教者になってしまい、信者たちの心の拠り所にされてしまうからだ。
20世紀には独裁国家が多数生まれ、殉教者もまた大量生産された。
欧米の独裁者たちもまた、殉教者を自ら作り出さないように腐心した。
独裁者たちは死に至らしめない肉体的拷問方法をたくさん編み出した。
そしてもっとも巧妙なのは、反逆者らを精神的敗北者にしてしまうことだった。
そのために一番効果的なのは、同志を告発させ、裏切らせ、転向させることだった。
日本の「踏み絵」と良く似ている。
「異端者」を「自由意志にもとづいて」「屈服させる」。
「消極的な服従」にも、「至高の服従」にも満足しない。
自分の最も愛する人を裏切り告発することで人は心が折れてしまい、反逆者として存在しなくなってしまう。
これは反逆者を死刑に処すよりもずっと効果的なのだ。
ということが 1984 に描かれている主題だ。
しかしながら、そうやって反逆者を消し去ったようにみえて、
結局は、スターリンや毛沢東も、殉教者を完全に抹殺することはできなかった。
無数の、無名の殉教者がいることを私たちは知っている。
殉教者を実数より少なくみせることも、逆に多くみせることも、殉教者ビジネスの一種だ。
この「殉教者ビジネス」は今日でも「被害者ビジネス」「社会的弱者ビジネス」として健在なのは驚くべきことだ。
イエスが自分で意図してこのビジネスモデルを発明したとすればおそるべき慧眼といえる。
アンプルフォースという詩人がキップリングの詩集を編纂していた。
その詩の一つに、rod と韻を踏むために god という単語が出て来た。
脚韻のために god を詩から削除することができず残した、
それで思想警察に捕まってしまう、という話が出てくる。
> 君は考えたことがあるかね、イギリス詩の歴史は、全般的にいえば、英語が脚韻に乏しいという事実によって決定づけられていることを?(‘Has it ever occurred to you,’ he said, ‘that the whole history of English poetry has been determined by the fact that the English language lacks rhymes?’ )
「英語が脚韻に乏しい」よく見かける文句だが、これは 1984 が初出なのだろうか。
どうもそうらしいのだが、だとするとずいぶん新しい。
ところで 1Q84 は 1984 に触発されて書かれたものであって、
それゆえに 1984 を読み返す人が多いというのだが、
それはどうだろうか。
[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3)
> シドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそれを理解した。
いや、それはどうだろう。
新井白石の著書から、そんなことが読み取れるだろうか。
彼の認識は「我国厳に其教を禁ぜられし事、過防にはあらず」であろう。
白石は、問題をこじらせないためには、宣教師を本国に送り返すのが上策だし、
でなきゃめんどうだが幽閉してしまえ。
処刑するのは下策だ。
転向させたり拷問することは無意味だ、と提言しているだけだ。
国内的には一般人から隔離して「存在しない」ことにしてしまえばそれで足りる。
対外的には迫害や殉教という事実がそもそも「存在しない」ことを示せば足りる。