陽成天皇が暴君だったかどうか、判断するのは難しい。同時代資料としては『日本三代実録』があるが、これには大したことは書かれてないようだ。ぼかして記述してあるというが、陽成天皇に不利な部分がぼかしてあるのか、有利なことがぼかされているのか、どちらとも解釈できる。
私はおそらく、『日本三代実録』は、宇多上皇が編纂させたものであり、藤原時平の関与はさほどなかったように思う。つまり事実が淡々と書かれているだけであって、暴君というのは隠されたというよりは、もともとなかっただけじゃないかと思う。
それでまあ、状況証拠だけから言えば、清和天皇を子供の頃から面倒見てきたのは藤原基経・高子兄妹なわけだが、清和天皇の皇子・皇女の数というのは、成人してから死ぬまでの間がほんの短いことを考えると、異常なまでに多い。子供が生まれてないケースを考えれば、そうとう多くの女性に手をつけているはずである。天皇の場合、養育費や扶養の費用を天皇自身が負担するわけではなく、女性の親族が負担するわけだが、それにしてもあれだけ遊ぶには膨大な金がかかっただろうと思う。どうように膨大な時間もかかった。政治なんかやってらんない。
天皇のお小遣いを出したのは当然基経なわけだが、すべては、基経・高子としては清和天皇が子供を産んで高子が国母つまり皇太后になるための投資なわけである。つまり皇太子貞明が即位してくれないことには、元手が回収できない。大損なわけである。おそらく実務は摂政である基経がこなしたのだろう。どういう実務だったかは知らないが、律令国家というものが今の法治国家のように法律だけ決めれば官僚組織によって自動的に動く、はずもない。いまの法治国家ですら裏で賄賂が横行するのだから、平安時代に理想的な律令国家があったとするほうがおかしい。となると、全権を委任された基経はありとあらゆる手段を使って日本全国から税金を集め、官僚を搾取し、私有地を開墾し、寄進を募る。そのお金で主君を養い、その遊興費を捻出し、面倒みてあげて、その代わりに自分の懐にもしこたま金を入れる。すべては必要経費に計上。そうやってひたすら金と権力の日々を送る。一方、天皇は外を出歩いてひたすら愛人を作ってきままにくらしている。
ある日とつぜん、清和天皇は言ったかもしれない、基経、おまえもういいわ、俺成人したから全部自分でやる。あるいはこういったかもしれない。高子、俺兄さん(惟喬親王)に譲位して隠居するわ。俺の子供、まだ若すぎるから、後は兄さんに頼む。
いずれにしても基経・高子には許されない話である。これまで一生けんめいにがんばってきたことがすべて無駄になる。特に高子としては、自分の息子を即位させる、ただそれだけのためにしんぼうしてきたのに、今更他人に譲位されちゃこまると。
ま、そんなわけで清和天皇に非があったかどうかしらんが、彼はひどい死に方をした。
兄の惟喬親王もまた、悲惨な末路に。
ところが高子の子・陽成天皇も基経・高子をないがしろにしただろうね。もう成人したから摂政いらんわ、とか、藤原氏の女御なんかいらんわ。そう言った可能性が高い。基経出仕拒否の時期が元服以後で、また女御・后に基経の関係者がいない。陽成天皇ってもしかするとけっこう男気あふれる名君だったのかもしれんが、それは基経・高子には許容できないことだった。今までいくらおまえに金貢いできたと思っているの。どうしてもそうなる。
言い方はいろいろできるがだいたいそういうことだったろうと思う。
嵯峨天皇、清和天皇、陽成天皇と、コントロール不可能な天皇が続いたのだろうと思う。天皇何もしない。陽成天皇が藤原氏を切って親政をしていたら。外戚の紀氏とかがうまく仕事をした可能性もあるが、どっちかと言えば、いきなり国家破綻したかもしれん。しかしまあ、藤原氏に任せても遅かれ早かれ律令制は崩壊したんだけどね。
誰かが何かしないといけないのだが、その仕事を一手に引き受けたのが藤原冬嗣、良房、基経。ある意味、頼朝、頼家、実朝のころの北条氏に似たような立場だっただろう。うまみがなくちゃやってられないという気持ちはあったと思う。
仁明天皇、文徳天皇なんかは割とまとも、コントロールしやすい天皇だったと思う。
そういう系統で光孝天皇が選ばれたのではなかろうか。