皇統の正統性

投稿者: | 2014年6月8日

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。
中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、
蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。
私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、
私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。
おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、
抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。
強い者が王となる。
強い一族が王家となる。
日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。
それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、
連綿と続いてきたものなのか、
いろんな断続があったものなのか、
確かな記録がなくてよくわからない。
ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、
大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、
自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。
藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。
つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。
天皇が自らそう主張したというよりも、
藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。
皇統と外戚は同時にできた。
外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。
というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。
それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。
それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。
当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。
天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。
藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。
藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。
天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。
とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。
皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。
まさにカオス。
源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。
天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。
白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。
法親王というやつ。
法親王は一生独身。
彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。
皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。
皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。
白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。
気づいてみれば当たり前のことだ。
なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、
それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。
天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。
だから、皇子たちは一致団結することなく、
藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。
嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。
清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。
陽成天皇までの天皇というのは、
ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、
王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。
王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。
藤原氏が皇統を発明したのである。
その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、
その子の良房、
その養子の基経らによって確立された。
つまり摂関政治というやつだ。
藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。
そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、
それ以外の皇子を排除した。
そうして実利を得た。
この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、
皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?
ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。
このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。
宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。
平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない
(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。
後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。
この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。
北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。
そんなことは藤原氏は発明してない。
藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、
先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、
藤原が天皇家の外戚であること、
皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。
そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、
まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、
仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。
今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。
天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。
当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。
後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。
だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。
俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。
いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。
神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。
そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。
北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。
尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。
ここまでは北条氏と同じである。
北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。
神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。
「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。
尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。
廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。
説得力ゼロ。
いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。
このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。
これによって南北朝の合一はなったのであるが、
北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。
このことは明治になって蒸し返されて、
北朝ではなく南朝が正統であるとされた。
北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、
国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、
万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。
国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、
そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。
イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、
イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。
ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。
血統が大切なのではない。
継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。
欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。
南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。
そうすれば血統がなぜ重要かわかる。
他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。
欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。
ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。
他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、
北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。
要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、
政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、
至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。
奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。
さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。
日本人はそのどれも採用しなかった。
自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、
皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。
藤原氏は天智天皇までさかのぼった。
北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。
足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。
後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。
本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。
藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。
藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。
それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。
別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。
新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。
また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、
神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。
どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。
空想力がそこまでいたらなかったはずだ。
家康は自らを東照神君と呼んだ。
明らかに天照大神とタメをはろうとしている。
家康はまた天台宗にも凝った。
かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。
周りの人もやはりわからなかった。
誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。
産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、
国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。
国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。
近代考古学によって箔付けされた神話を。
ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。
イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。
トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。
国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。
国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。
国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。
本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。
国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。
国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。
たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。
天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。
天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。
南北朝の歴史を知る必要がある。
しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。
歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。
あるとき急に完成した形で生まれるのではない。
急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。
ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。
些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。
日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。
しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。
だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。
しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、
日本史なら日本史、世界史なら世界史。
その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。
司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。
歴史のつまみ食い。
これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、
いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。
従って、人間宣言というものがあのような形で出た。
その内容は極めて妥当なものだった。
昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

> 朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

> 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

> 朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、
またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、
皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。
しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、
左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、
今日に至っているのである。

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