定家の禅

藤原定家について書いている。タイトルは仮に「定家の禅」。受け狙いでもあり、わりと本気でもある。

さくっと書き終えたと思ったが、調べているうちに知識が増えていき、最初は推測で「かもしれない」などと言っていたところが、確かな証拠を発見したりして、「なのだ」などと断言したり。全体をまんべんなく加筆するのではなく一部がどんどんふくらんでいくので、バランスが崩れていき、全体のテーマ自体が変わっていく。

先に古今集をやったから、次は百人一首の真相みたいなのを書こうかと思ったのだが、定家個人が面白くなってきて、ある意味百人一首なんて、どうでもよくなってきた。だれが読むのだろうか。いずれにしても今回は紙の本で出す予定なので売れないわけにはいかない。こむつかしい本ではなく、ある程度娯楽性のある本を書かねばならぬ。基本的には、定家の時代の歌論書である。

定家が以前は嫌いだった。今は割と好きになった。定家は以前は勉強家の秀才だと思っていた。今はある意味天才だと思っている。少なくとも、若いころに「天命」に目覚めた人である。癇癪を起して、発作的にやってるのではない。すべて確信的にやっている。オタクとか、マニアとか、マッドなわけでも必ずしもない。のめりこむ性格ではあったかもしれないが、必要に迫られて勉学に励んだのだと思う。

編集の人と相談して意外だったのは、私のような門外漢でもネタしだいでは定家の本を書いて出版してもよいということだった。ただ、筆名を田中久三以外にできないかと言われてやや戸惑った。編集の考えることはよくわからん。

九条良経と田安宗武

九条良経と田安宗武。一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、この二人はある意味でよく似ている。和歌をダメにした二大元凶といえる。

九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。一方は惰弱、他方は空元気。

九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。これらによって、和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。

明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。

万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。それが和歌の本質だ。

トータル・リコール

トータル・リコール(シュワルツネッガーのほう)をみた。この映画は何度もみているのだが、初めて通してみてみた。良く出来た話だと思う。特に最後まで夢なのか夢じゃないのかわからないしかけ。途中、あ、やっぱ夢なんだなと思わせといて、やっぱ現実かもしれないと思わせる絶妙の駆け引き。味方かと思うと敵、敵かと思うと味方。自分までもが実は敵だったというひっかけ。いやーよくできてるなと思う。

Philip K. Dick という人の短編SF小説 We Can Remember It for You Wholesale が原作になっているという。つまり原作は映画ほどのボリュームはなかったということだ。映画の字幕では inspired by と書かれているので、ざっくり下敷きにしたくらいというのが当たっているのだろう。

原作は明らかに夢では無いという設定でできている。リコール社で注射された narkidrine という薬のせいで、主人公は削除された記憶を徐々に取り戻す、という設定。

映画のほうでは主人公は自ら記憶を取り戻すことはない。主人公は単に昔から何度も火星にいる夢を見る、そこにはいつも同じ女性がいる、というだけだ。リコール社で薬を打たれると火星にいた記憶がよみがえったようにも見えるがそのこと自体が夢だと解釈できなくもない。

最後まで夢かどうかというネタばらしはない。映画を作ったスタッフの意図でそうしたのだ。原作は原作として尊重しつつ、より込み入ったしかけに作り替えたのである。ここまで手をかけておいて最後にやっぱり夢でしたとか、逆に現実でしたなどとネタばらしをするような、野暮はしまい。そういうヒントはすべて注意深く消してあるからだ。

ハリソン・フォードの逃亡者にしても原作のテレビドラマはもっとあっさりしたものだっただろう。それを映画化するにあたってシナリオをみっちりと練り直したのだ。一人の人間が思いつくには話ができすぎている。同じことはシャイニングにも言えるだろう。これが日本だと、原作に手を加えたり、連作にしたりしても、原作を超えることはおろか、原作の味わいまでも壊してしまうことが多いように思う。なので、脚本家は原作をなるだけ忠実に、そのおもしろさを殺さないように映画化してもらいたい、そう願うようになる。

ハリウッドでも、リメイクしすぎてつまらなくなることは多いのだが、そうではない、それよりか微妙に手前の、ほんとうに面白い作品もたまに出るので、そこが面白いなと思う。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、 宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。 割と面白い。 特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、 完本は伝わってない。 ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。 北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり
世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして
山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。 さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。 泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、 六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。 残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。 御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。 武人としての能力はどうだっただろうか。 棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、 泰時と同時代人だったと思われる。 熊谷直実は蓮生と呼ばれる。 蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。でもまあ全くの別人だと思う。 熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。 少なくともネットをぐぐっただけではわからん。 こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、 ネットで調べられるようにならんものだろうか。 調べてみたい気はあるのだが、 調べるのに要する気力に見合うかどうか。

新類題和歌集2

角川の新編国歌大観の新類題和歌集をだらだらと読んでいたのだが、 後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父) などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、 通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、 勅撰集には当たらないとされているのだが、 私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。 21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。 後水尾院の歌は確かに良い。

梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。 しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。 皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。 武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、 幸仁親王がただ幸仁、 太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。 普通勅撰集には官職名を添えるものだ。 藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、 藤原定家が権中納言定家となるようなもので、 中には官職しか書かれない場合もある。 実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。 親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。 霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。 そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。 和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、 どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、 近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。 windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。 なんとかしてもらわないと困るのだが。

和歌とプロパガンダ

伊東静雄の詩を読むと、 当時の日本人の昂揚と、そこから突き落とされた絶望が刻まれていてつらい。 伊東静雄は戦前はドイツ語訳風な漢語調の硬派な詩を作った。 しかし戦中は大和言葉で詩を作った。 戦後、ふつうの話し言葉で詩を書くようになった。

伊東静雄もまた国粋主義に振り回された一人だった。

国威高揚のための国粋主義は極めて危険だ。 大和言葉もファナティックな思想の道具とみなされてしまった。 非常に不幸なことだ。 上田秋成も本居宣長も大和言葉や和歌がプロパガンダに使われるとは思ってもいなかっただろう。

私の祖父も戦中に大和言葉で和歌を詠んだ。 伊東静雄とまったく同じだと思った。 戦争だから和歌を詠むというのはあまりにも悲しい。 戦後和歌が忌避され、醜悪な現代短歌が生まれたのは、和歌をプロパガンダに使ったせいだ。

ツイッターでわざと歴史的仮名遣いを用いたり、 天皇は万世一系でうんぬんと賛美したりするのを見るのはつらい。 我々は一度挫折と失敗を経験したのだからそこから学び、その経験を活かすべきではないのか?

文学全集を立ち上げる

以前に京極派 で、丸谷才一は京極派というものがまるでわかってないんじゃないかと疑いを持ったのだが、この「文学全集を立ち上げる」という本を読んでますます疑念は深まった。

日本文学全集に古今集と新古今集と風雅集と玉葉集を入れるという。なぜよりによって21代勅撰集からこの4つを選ぶのか。

p124

三浦 「玉葉」「風雅」は「新日本古典文学大系」にも入っていないでしょう?
丸谷 あの二つはいまだに虐待されているだよ。なぜ虐待されるかというのは、二つ理由が考えられる。一つは、折口信夫が絶賛したから(笑)。
三浦 本当の話ですか(笑)。
丸谷 それと、あの二つは北朝の文学なんです。「風雅」は明らかに北朝、「玉葉」も北朝の色が濃厚ですね。国文学者たちは北朝には触れたがらないんだよ。
鹿島 いまだにそんなことがあるんですか。
丸谷 少なくとも僕は、そうなんじゃないかなと思うんだ。岩佐美代子さんのように、「北朝が正統なんだということを政府ははっきりせよ」と言う学者もいる。でも、男の国文学者でそんなこと言う人は誰もいないんだよ。国文学者はつまり官僚なんだもの。仕方ないさ。

つまり丸谷才一は「玉葉」「風雅」は北朝の勅撰集で虐待されている。北朝が正統だと言っているのは岩佐美代子くらいで男にはいない。だから男の自分がやってやる、そう言っているだけにしか読めないのである。

一応丸谷才一は京極派を研究している岩佐美代子という人を知っているらしい。しかしほんとに理解しているのだろうか。岩佐美代子が北朝が正統だなどとほんとに主張しているのか。そう言いたいのは丸谷才一だけなんじゃないのか。南朝とか後醍醐天皇とか楠木正成とか太平記が嫌いで抹殺したいだけじゃないのか。当時の二条派とか京極派とかいうコンテクストを無視して単に政治的理由で北朝を応援したいだけなんじゃないの?まさに邪道。

丸谷才一という人はやっぱり和歌なんて何もわかってないんじゃなかろうか?

「玉葉」「風雅」が異端視されたのは、京極派だからだ。伝統を破壊する、前衛だったからだ。主流は保守的な二条派に収束していった。なぜ二条派が主流になったか。北朝が正統でなく、南朝が正統だからなのか?そんなこと考えてた江戸時代までの国学者は一人もいないと思う。宣長はそんなこと一言も言ってない。

ついでに皇統の正統性 というのも読んでみてほしい。

日本に学者はいなかった

丸谷才一「文学のレッスン」のp152に「日本に学者はいなかった」という章がある。非常に困惑する章題なのだが、本文を読んでみると、「近代日本文学では学問が軽蔑されていた」、とか、「小林秀雄は明治憲法で中村光夫は現行憲法だ」などと書いている。

小林秀雄は気持ちの良い歯切れの良い文体だがしかし何を言っているのかさっぱりわからない。

中村光夫の文章にはそういう爽快さがないけれど内容を伝達する能力は高い。

で、世の中の人は小林秀雄みたいな人を優れた批評家だと思い込んでしまったので、批評は訳がわからなくてよい、みたいな話になっている。訳がわかる評論とは論文であって評論ではない、そういうものは学者が書けば済む話だ、というわけだ。

いやまあ言いたいことはわかる。小林秀雄は朦朧体みたいなもので、至る所かすんでいる。でもときどきすごく論理的でほかのどの論文よりも明晰で説得力があるところがある。そういう意味ではフロイトに似ている。でも論文じゃないんだな。そこが天才的なところだわな、他人にはまねできない、学者にはそういう仕事はできない、という意味で。小室直樹もそれに近いかもしれんね。小室直樹は(一応)学者だけどね。

「日本に学者がいなかった」なんてどこにも書いてない。困った表題だ。

文学のレッスン2

文学のレッスンの続き。長くなるので記事をわける。

p151

色好みの話で、こういうエピソードがあります。本居宣長が亡くなったとき、弟子たちが本居家に集まって、酒を飲みながら口々に先生の偉大さをたたえ、あんな偉い学者はもう出ないみたいなことを語りあっていた。そしたらお酒を運んでいた本居家の女中の一人がワーッと泣きだした。みんながどうしたんだと問いただしたら、その女中いわく、「そんなに偉い先生だとはわたしは知りませんでした。毎晩のようにわたしの部屋に来て、一緒に寝ようというのを、わたしは邪険に断ってばかりいました」って。

― それはどこかに書いてあるんですか(笑)。

岡野弘彦さんから聞いたんです(笑)。

岡野弘彦は三重県の神主の家に生まれたので、もしかすると実話かもしれない(笑)。 丸谷才一より一才年上で存命。 でもなんとなく、 国学者や神道家のコミュニティーの中で自然と広まったゴシップのような気がするなあ。本人ご存命なのだから聞いてみたい気はする。

私は、宣長の恋歌をみていて、ただ観念的に恋を歌ったのではなかろうとは思っていた。ある程度事実に基づく心情が盛り込まれているのではないかと。ただ、七十近くのおじいさんが毎晩女中をくどくということと、青年時代に色好みであったということは必ずしも結びつかないと思う。

いずれにしてもどうでもよい話ではある。単なるエピソードとして紹介してみたかったのだろう。