本居宣長の漢詩

在京時代の本居宣長の漢詩が二十数編残されているが、 凝り性な宣長君らしく、平仄は完璧。

春日早朝
鶏鳴九陌報清晨
初日纔昇映紫宸
金殿出霞花気暖
玉楼経雨柳條新
群臣集奏千秋寿
蛮客貢陳四海珍
且識天杯元承露
聖明恩沢更含春

新年の御所の様子を詠んだものと思われる。 悪くはないが、装飾過多、という印象。宝暦6年1月11日か。この漢詩を作ってみて宣長はよけいに漢学では日本文化の良さを表現できない、と悟ったのではなかろうか。

読書
独坐間窓下
読書欲暁星
孜々何須睡
一任酔群経

独り窓下の間に坐し、読書、暁星を欲す、孜々として、なんすれぞすべからく睡るべし、もっぱら群経に酔ふに任せん、 と訓めば良いか。

夜独りで窓の下に坐って読書していると、すでに夜が明けようとしている。 一心不乱、どうして眠れようか。 ただ膨大な量の経典に酔うのに任せよう。

いやー。 宣長らしい詩ではある。「群経に酔ふ」がいかにも宣長だ。

宣長、普通の江戸時代の文人並みには漢詩が作れたようだ(乃木希典レベル。中島敦よりはずっとうまい)。 そのまま励めばわりかし良い線いったんじゃないか。 でも、和歌のほうが好きだったんだよなあ。 どんな違いがあったのだろう。知りたい。

上巳
元巳春風暖
桃花照錦筵
麗人更勧酔
流水羽觴前

上巳は桃の節句であるから今の暦では四月中旬、元巳はその別名。 春風は暖かく、桃の花が錦のむしろに映える。麗人、更に酔いを勧め、羽觴(さかづき)の前には水が流れている。 明らかに曲水の宴で作った詩であろう。

中山家

『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。父は孝明天皇、母は中山慶子。典侍というから中宮や女御の次くらい? 生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。 中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。

慶子の父が中山忠能。 忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。

忠能

天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ

綱子

けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば
日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け
七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん

「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。

我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ

とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌

雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら

など、なかなか良い。

全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、その後和歌は忘れられてしまった。

後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。 『新古今集』

みこの宮と申しける時、太宰大弐実政学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
後三条院御歌
思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。思うに、初出は伊勢物語であろう。意味も一番素直でわかりやすい。後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。『玉葉集』

御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
と申して侍りければ、後三条院
色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

「星」と「欲し」をかけている。星のように美しい菊を欲しいと天皇に請うたがもらえなかった。後三条の歌はおそらく、欲しいと言ってくれたらやったのに、後からほしかったことを人から聞いた、というような意味だろう。

後三条の御製集というものがあったのだろうか。

二条天皇

二条天皇はわずか23歳で崩御したのだが、 優れた和歌を残している。独創的で斬新。白河天皇の凡々とした歌とはまるで違う。 崇徳院や後鳥羽院に通じるものもある、といえようか。 二代后など世間を騒がすこともあったようだが、 若々しく聡明で、 優れた君主であったようだ。

われもまた春とともにやかへらましあすばかりをばここに暮らして
雪つもるみねにふぶきやわたるらむ越のみそらにまよふしら雲
などやかくさも暮れがたき大空ぞわが待つことはありと知らずや
ことのねにかよひそめぬる心かな松ふく風にあらぬ身なれど
しるらめやおつる涙の露ともにわかれのとこにきえてこふとは
たれもよもまたききそめし鴬の君にのみこそおとしはしむれ
しら雲にはねうちつけてとぶたづのはるかに千代のおもほゆるかな

清輔に続詞花和歌集の編纂を命じたそうだが、完成しなかったのが実に惜しい。 その歌の多くは俊成が編んだ(後白河院勅撰の)千載和歌集に採られたのだが、その俊成

二条院の御とき、四代まで侍臣なることをおもひてよみ侍りける
いかなればしづみながらにとしをへてよよの雲ゐの月をみつらむ

という恨み節も面白い(四代とは崇徳、近衛、後白河、二条をいう)。 清輔と俊成はほぼ同い年だったと思われるので、清輔に対して俊成が重く用いられなかったことを言っているのだろうと思う。

風雅・玉葉集に採られている次の歌もなかなか良い。 たしかに、京極風の走りと言うこともできよう。 千載和歌集に漏れた(今日に伝わらない)多くの秀歌があるのに違いない。

いかでわれ人を忘れむ忘れゆく人こそかくは恋しかりけれ
空はれし豊のみそぎに思ひ知れなほ日の本のくもりなしとは

次の法印澄憲という人の歌もなかなかしみじみしている。

二条院かくれさせ給うて御わさの夜、よみ侍りける
つねにみし君がみゆきをけふとへばかへらぬたびときくぞかなしき

後白河院はあまりにも無能だったので(鳥羽院も、表向き平穏だっただけでものすごく無能だったと思う。崇徳はたぶん有能だった。しかし何もさせてもらえず、近衛は早逝した。頭が良いかどうかは和歌を見ればわかる。二条と崇徳は歌がうまかった。白河と後白河は平凡。鳥羽には歌が一つもない。まともな言語能力があったかどうかも不明)二条天皇によって強制隠居させられていたのだが、二条天皇が崩御して、後白河院が朝廷に復帰し、清盛を重用、 源平の争乱の原因となった。 二条天皇は後三条天皇の再来であり、また白河院のように聡明であった。 もし二条天皇が白河院や鳥羽院のように長寿であったら、日本の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれん。

勅撰集に載ってない御製を掘り起こすのはとても難しい。 後鳥羽院や順徳院のように御製集が残っていれば良いが、 そうでないと我々素人にはどうしようもない。

白河天皇

白河天皇が和歌が大好きだったのは間違いない。 本人の和歌は、それにしてはあまり知られてない。 どちらかといえば凡庸な歌、下手の横好き的なものだったようだ。

風吹けば柳の糸のかたよりに靡くにつけて過ぐる春かな
春霞立ちかへるべき空ぞなき花のにほひに心とまりて
おしなべてこずゑ青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり
ほととぎす松にかかりて明かすかな藤の花とや人は見つらむ
池水にこよひの月を映しても心のままに我が物と見る

ある意味、後白河院の歌に良く似ている。 こういう歌は、だいたいにおいて、退屈な叙景もしくは心象の歌であり、 天皇で、そうとうたくさん詠んだから、今日まで残っているにすぎないのではなかろうか。 おそらくは後世に伝わらなかった平凡な歌が大量にあるのではないか。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。 いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

ひとりもる しづが千代田の 岡におふる まつてふ心 君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。 他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。 たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、これ。 今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。四月四日、訓導にも動員令が下ったと、祖父は「応招前記」という日記に書いている。面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった (もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

きのふまで 人ごととのみ 思ひしに 今日より我も いくさ人なり

悪くない。明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや
菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ
粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを
沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり
動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため
今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら
メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける
我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ
皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな
いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ
みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。

未と猶と已

「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。

「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。

「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。

いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。

「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。

新井白石日記

新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。

芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。

改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。

ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。

寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉

正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり

これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。

俊成2

山桜 散りに光を 和らげて この世に咲ける 花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

つくづくと 濡れそふ袖に おどろけば 降るとも見えで 春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。同語反復がうまく効いている。これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?ましかし、レベルが一様に高い。