西行の歌

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。

そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。

「西行物語」では

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。

そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。

やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年

宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。『在京日記』(宣長全集:16-128)。


本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の宣長の言葉に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。日記に書かれていないだけかもしれないのだから。宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。同じ京都の同じ門下である。これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。まさに「はたち余り」の頃である。月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

江戸中後期における三都間の歌壇の対立。ドイツの日本研究者が書いたもののようである。少し面白い。

職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、というだけのことだったのではなかろうか。ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

小沢蘆庵の人となり・事績

小沢家は大和宇陀郡松山藩。

享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。

京極派

引き続き、丸谷才一『新々百人一首』。

庭の虫は なきとまりぬる 雨の夜の 壁に音する きりぎりすかな (京極為兼)

為兼を選ぶのはよい。なぜこの歌なのか。他にいくらでも為兼には良い歌があるのに。しかも、「庭の虫は」が字余りで、しかも字余りの例外まで丁寧に解説している。だが、それ以外の説明がまるでない。

京極派の歌には字余りが多い。というより、字余りということを始めたのは京極派なのだ。なぜそのことを言わぬ。丸谷才一は定家が好きで、二条派が好きなのである。京極派は嫌い。だからわざと沈黙しているように思える。

「なきとまりぬる」もおかしい。連体形になっている。「なきとまりぬる雨」か「なきとまりぬる雨の夜」か。そうかもしれぬ。そうとも解釈できなくはない。だとするとそうとう変な歌だ。普通に考えて終止形にしないとおかしい。普通なら、素直に「なきやみにけり」「なきとまりけり」などとするだろう。「なきとまりぬる」という言い方は、異様だ。「なきとまる」などという言い方は普通和歌ではしない。現代語でも「なきやむ」としか言わない。もしかすると当時の口語的な表現かもしれん。それもまた京極派の特徴だが、それもなぜか指摘しない。

それをしないでおいて、王朝和歌では、秋の虫の鳴き声というのは、恋が成就しなかった悲しみの声だ、などということを延々と主張している。京極派は、そういう定型や通念を無視し、感情のままに、印象派のように、歌を詠むものだ。京極派の歌は、新古今や二条派の歌論では説明できないはずなのだ。それをむりやり宮廷文学の尺度にあわせて解釈しようとしている。これでは、京極派とは何か、ということが、読者にはまったくわからないはずだ。

咲きそむる 梅ひとえだの 匂ひより 心によもの 春ぞみちぬる (伏見院)

説明わずか四行。「まさしく国王の歌である。おっとりとしていて、しかも美しい。」などと言っているが、なぜこれを選んだのか、理解に苦しむ。なるほど、そういうものか、とただわけもわからず読まされる読者が気の毒だ。ちなみに伏見院は、為兼に勅撰集を編纂させた京極派の歌人。

うれしとも 一かたにやは ながめらるる 待つ夜にむかふ 夕ぐれの空 (永福門院)

この歌は、確かに優れている。「ながめらるる」は字余り。明らかに京極派特有の、破調の妙をねらったものであろう。しかし、丸谷才一は、これが新古今集より時代が下ったために規則が崩れてきた、と解釈している。それは違う。京極派以外で字余りするのは少なくとも江戸時代までは、ただのへたくそだけだ。「当代随一の女流歌人」が「歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い」などと言っているのは、ほんとうに京極派というものを、丸谷才一が知らなかったのか、と怪しまれる。宣長ですら京極派が異様で異端であることは知っていたのになぜ丸谷才一がそれを知らないのか。仕方なく余ったのではなく、わざと余らせたのだ。それを勅撰集に採ることで、為兼はオーソライズしようとした。永福門院は、京極派で一番有名な女流歌人であり、伏見院の中宮。歌の師は為兼その人だ。

意味は、従って、古今集や新古今集などの通念から離れて、印象派的に解釈しなくてはダメだ。ざっくり意訳すると、今日は来るとあらかじめ知らせがあって、うれしいとは思うが、ほんとうに来るのかどうか、いつごろ来るかと待ちながら、夕暮れの空に向かってながめている気持ちは、ただうれしいというばかりではない、となる。丸谷才一の解釈でだいたいあっているのだが、彼は、当時の通い婚における女性の立場、歌に現れるその形態など、懇切に、王朝の女流和歌とはこういうものだ、こうあるべきだ、という理論で押し通そうとする。それでは、京極派の歌はわからない。パターンに当てはめようとしては楽しめない、それが、京極派の歌なのに。京極派だからこそ、「うれしとも一かたにやはながめらるる」などという屈折した心理を詠めたのだし、「(私が)待つ夜に(私が)むかふ」などというトリッキーな言い回しをしているのだ。

朦朧趣味

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良
朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人
飛鳥井雅経
初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの
慈円
かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、単に貴族趣味という以上のものではない気がする。さらに、

藤原為氏
人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、どちらかと言えば古今調の機知に近い。新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。現代人は、自分で作らず、批評だけする。和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。

和歌でもだいたい同じ。もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。

「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。

それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。価値観が違うのは当たり前だ。しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、定家と後鳥羽院が最高であり、現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、と主張する。

しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、早くても鎌倉時代後期からだろう。南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。最初期で、家定の弟子の家良くらいか。家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

勝海舟の和歌

八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。

一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。

八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。 しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。 薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、 高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力であったということ。与力はよほど忙しい役職なのだろう。千蔭は字はうまかったらしい。樋口一葉の字も千蔭流で、中島歌子から習ったという。ほんとだろうか。これも怪しい。どうも一葉に関しては中島歌子の影響が強調されすぎているように思う。字がうまい、特に和歌を書くときの字がうまいのはみんな千蔭流と言われるのではないか。誰かちゃんと検証した人はいるのだろうか。

千蔭の歌は全然良いとは私には思えないのだが勝海舟は評価していたということか。勝の歌のほうがずっと面白いと思うが。

難四之可他延

近代デジタルライブラリーに難四之可他延 というものがある。「なしのかたえ」と読み、「梨の片枝」という意味らしい。三条実美の私家集で、彼の死後、高崎正風が編纂したものらしい。うわー。すげえマニアック。しかも、崩し字で書かれているで簡単には読めないのだよ。この際、崩し字覚えようかい。

雨乞い小町

筒井康隆の「雨乞い小町」を久しぶりに読んだのだが、その中で、ずっと気になっていたのだが、

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは
ちはやぶる 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ

の二首があって、「ことわりや」の出来が悪くて「ちはやぶる」の方が良いと言っているところだ。なぜ筒井康隆は、そう判断したのだろうか。いろいろ調べてみると面白いのだが、まず、「ちはやぶる」の方は『小町集』『小大君集』に採られており、小野小町か小大君かはわからぬが、ともかく、平安中期にはもうあった歌なのだ。ところが「ことわりや」の方がどちらかと言えば有名であって、初出は江戸初期のいろんな説話集、元はといえば、『雨乞小町』という謡曲(能)の演目の一つだったようだ。『雨乞小町』は七小町というものの中の一つで、浮世絵の題材には良く採られるが、テキストなど失われて久しいようだ。

弘法大師が京都の神泉苑で雨乞い勝負をしたという伝説があって、和泉式部もここで同じように勅命で雨乞いをして、そのときに「ことわりや」の歌を詠んだ、

日の本の 名に負ふとてや 照らすらむ 降らざらばまた 天が下かは
ことわりや 日の本ならば 照りもしつ 天が下とは 人もいはずや

などといったバリエーションもあるらしい。いずれにしても女性が詠んだということになっている。弘法大師も、竜王という女性に雨乞いをさせたらしい。雨乞いは女という定説でもあるのだろう。そういえば、雨女とは言うが、雨男とはあまり言わない。

そうだなあ。どれもできばえは大して違わないように思えるのだが。いずれにしても、民間の雨乞いの歌だよな、きっと。

加門七海『くぐつ小町』という小説にも「ちはやぶる」の歌が出てくるようだ。こちらは比較的新しい1996年に単行本になった作品。筒井康隆の『雨乞い小町』の単行本初収録は『ホンキィ・トンク』1973年。

伊勢物語25段。

むかしをとこありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢はで寝る夜ぞ ひぢまさりける
色ごのみの女 返し
見るめなき わが身をうらと 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る

これらを業平と小町の間でやりとりした歌として解釈している。筒井康隆が和歌を論じてるのが珍しいので、少し考察してみたいのだが、これは伊勢物語にも古今集にも採られている有名な歌なので、筒井康隆が特に和歌に関心を持ったというより、たまたま目について取り上げたにすぎないだろう。

小町の歌は、業平の歌の返歌の形には、まったくなってない。返歌なら返歌らしく元歌を何か参照するなりしなくちゃならないが、まったく別々の歌という印象だよな。ああ、たまたま古今集で隣り合った歌なのか。

筒井康隆の解釈では、これは二人が美男美女の似合いのカップルだと言われて、その気になって詠んでみて、あまりにも大向こう受けの嫌らしい歌だったので二人とも破って捨てた、実は二人は恋愛感情よりも友情の方が強くてうんぬん、という設定。はて、どうだろうか、そんな解釈ができるだろうか。

四行詩

オマル・ハイヤームのルバイヤート。岩波書店の。著作権切れなのな。

Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。 できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。 ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。絶句風に韻も踏んでみたし。元ネタは小川亮作訳、

今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 / 苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。 元ネタは、

さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。 七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、 都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。 しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。 どうしたらよかろうか。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。