なんか自分も昔似たようなこと書いたなと思ったらやはりあった。
平氏にあらざれば人にあらず。
二度寝するタイミングを完全に失った。 仕事するか。
魯迅を読んでいる。 割と面白い。 電車の中にいて周りにたくさん人間がいるのが不思議な感じになる。 人間がいるのが当たり前なのだが、小説によって完全に異世界に連れて行かれてしまうのだろう。
阿Q正伝、故郷、孔子己などは読んだ記憶がある。 たぶん、教科書に載っていたのではなかろうか。 少し調べてみるとわかるがこれらは、魯迅の一番初期の作品(38才頃。ただし、32才のときに『懐旧』という小説を発表しているようだ)で、 社会的な影響力も大きかったようだが、 必ずしも、すごく面白くはない。 やはり初期の作品で狂人日記も今回読んでみたが、さほどでもない。 たぶんまだ書き慣れてなかったのではないか。 こういうのを高校の教科書に載せても生徒はおもしろがらないと思うよ。 他にもっといいのがあるのに、と思う。
四十代半ば頃、1925年とか1926年頃に書いたものがすごく面白いと感じた。 孤独者、眉間尺、祝福、藤野先生など。 藤野先生は、やはり読んだ記憶がある。これも教科書か。 必ず文末に日付が記してあるから、何歳の頃書いたかわかって便利だ。 結構短い期間に集中して書いている。
眉間尺(または「鋳剣」)は中国の昔の伝奇小説干将・莫耶を題材にしたものであり、 中島敦の「山月記」のようなものか。まあふつうこんなへんてこりんなストーリー、現代人は思いつかんわな。 途中になんか変な歌が出てくる(原文)。
哈哈愛兮愛乎愛乎!
愛青劍兮一個仇人自屠。
夥頤連翩兮多少一夫。
一夫愛青劍兮嗚呼不孤。
頭換頭兮兩個仇人自屠。
一夫則無兮愛乎嗚呼!
愛乎嗚呼兮嗚呼阿呼,
阿呼嗚呼兮嗚呼嗚呼!
「奔月」は嫦娥奔月のことで、 たまたまこないだ調べた[碧海青天夜夜心](/?p=10880)の元ネタ。 こちらは大して面白くもない。解説を読んでもピンとこないし。 ただ書きたかったから書いた、のだろうか。
体重が一時期よりも15kgも減ってこれからも減る傾向にある。 ビールが苦くてまずく感じるようになった。 日本酒はとてもうまく感じるのだが、 日本酒を飲んでしまうと、体重が少なくなったせいか、 一気に良いが回って自制心を失ってしまうようだ。 ビールかウーロン割りみたいなものをちびちび飲んでいればそんなことにはならないが、 今度は酔えなくて発散できない。 体の脂肪というものが、血中アルコール濃度というものの変動を抑えていてくれてたのだと思う。 痩せるというのも実にめんどうだ。
窩窩頭。 何かほかの小説で読んだことがあるのだが思い出せない。
彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。
彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っている事でしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。
その、「友人に宛てて送った手紙」というのは実在するのだろうか。その友人というのは誰なのか。極めてあやしい。調べてもよくわからん。英語版には何もそれらしき文言がないのは明らかだ。
しかしこれまた使えるネタではある。虚構の「親しい知人に宛てて送った手紙」というものを持ち出せばいくらでもうそが書けるのだから。
ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。
日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。
それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。
今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。
で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。
調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。
新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。
改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、 肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、 という部分は書いてない。 著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。 書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。 病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。
2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。
小谷野敦 中島敦殺人事件
> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。
まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。
中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。
問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。
もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。
さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。
しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。
でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。
中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。
私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。
思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。
戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。
中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。
彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。
「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。
それが中島敦の謎の真相だ。
『パルムの僧院』を読もうと思うのだが、なかなか進まない。『赤と黒』とあわせてよんでみるとわかりやすいのだが、スタンダールで出てくる「私」というのは作者自身のことだ。今の小説で「私」というのは主人公の一人称であることが多い。全然違う。
それから、当時のオーソドックスな小説というものは、主人公が生まれる二、三年前から書くものだったらしい。そういえば源氏物語もそんな構成になっているわけだが、これも現代の読者にしてみればわけわからない。今の小説は多くの場合、いきなり主人公が現れて、主観視点的に語り始めるからだ。桐壺を飛ばしていきなり箒木から始まるようなものだ(実際、箒木の成立が一番古く、桐壺は一番最後に付加されたという説がある)。たとえ記述は三人称的であったとしても。
私も、最初は誰が主人公かわからない書き出しをするのが好きだ。最後まで読まないと実は誰が主人公かわからない。あるいは、冒頭で主人公の役割を持たされているが、実は本論は別にあると言うような。
例えば『千夜一夜物語』の主人公は、一見シャフリヤール王とシエラザードのように見えるが、本論はシンドバッドの冒険だったりする。『千夜一夜物語』のあらすじは、王様とお姫様が千と一日の間、物語をして暮らしました。で終わりだが、それではこの話の内容を何も反映していない。つまり、入れ子の枠構造になっているから、一番外側の枠について説明しても、物語の内容を表したことにならないからだ。
しかし、現代の読者はそういう物語には慣れてない。いきなり主人公が現れて、彼もしくは彼女に感情移入できないとそれ以上読者はついてこない。そういうごくシンプルなわかりやすい構造になってないとついてきてくれない。漫画やテレビのドラマと同じだ。嫌な時代である。
『パルムの僧院』だが、ナポレオン戦争やイタリア統一戦争に予備知識や関心がないと、読むのは辛いだろうと思う。さっぱりどこが良いのかわからないはずだ。逆にあると、とても面白く読めるだろうと思う。
毛沢東は1893年生まれで1976年82歳で死去。当時の中国としては十分高齢なほうだっただろう。
鄧小平は1904年生まれだから、当時すでに72歳。
若いと言われた華国鋒も1921年生まれだから、当時55歳。
江沢民は1926年生まれなので、華国鋒と江沢民はほとんど同年代。
華国鋒は毛沢東の死後、四人組を追放して、最高権力者となるも、鄧小平と対立して事実上引退。しかし、2008年まで生きていて、実権はなくとも失脚したわけではなかったらしい。
鄧小平、江沢民、胡錦濤と国家主席が三人代わって、87歳まで長生きしたことになる。
なんか不思議な人だな。
『毛沢東の私生活』によれば、毛沢東が瀕死の床についていて、鼻から胃にチューブを通して栄養を送り込みたいと主治医の李志綏が提案したとき、華国鋒がまず自らチューブを通す実験台になったという。毛沢東の孝行息子的存在だったのだろう。李志綏は、華国鋒が毛沢東の後継者になったのは、適任だった、などと言っている。
周恩来は1898年、林彪は1907年、劉少奇は1989年生まれ。
フロイトの『トーテムとタブー』を読み始める。
ここでタブーと宗教は区別されている。宗教とは神を崇拝することであって、タブーとは神よりも古く、より原始的で、理由付けのない禁忌を言うらしい。フロイトの時代には、世界中でさまざまな先住民や未開民族が発見され、分類された。それらの民族の多くには、宗教と言えるような組織的なものはほとんど見られず、タブーの方がより強く社会を制約している、とフロイトは観察している。
フロイトが言いたいことはつまりこういうことだろう。近親姦の禁止や族外婚の風習というのは、ほとんどすべての、まったく無関係な社会にも見られる。それは、男性のボスによる一族の女性支配に由来する。トーテムとは部族、血縁のことで、東アジア的に言えば、姓とか本貫のこと。姓は原初的には女系だった。なぜ古代、女系で姓が継承されるかというと、古代は女権が強く、女性が財産権を持っていたからだ、とはフロイトは考えない。むしろ逆。男のボスが横暴であって、妻や娘たちを独占するために、妻や兄弟姉妹間で姦通することを禁じるために、妻とその子孫たちはすべて同じトーテムに属することとし、トーテム内の姦通を禁じたのである。この理屈で言えば、一族の中で同じトーテムに属さない、つまり自由に姦通できるのは夫一人となる。男子が成長すると、自分のトーテムの外、つまり家族の外の女と結婚しなくてはならない。これが族外婚。Exogamy というものだ。
確かに、まったく未開の、何の言語もなく、決まりもなにもない社会にも、この理屈で言えば、トーテムは発生しうる。トーテムの発生には理屈がない。ただ単に横暴な男子と無力な女子供がいるだけだ。それが数世代か数十世代繰り返されるかは知らないが、そのうち、誰もその由来は知らないが、トーテムという社会制度だけが成立するというわけだ。
恐ろしくも非情、しかし説得力のある理論だ。余りこれまで見聞きしたことがないのだが。Wikipedia などには、
遺伝子上の欠陥を補う事で、子の遺伝的な多様性を増加させ、子の繁栄の可能性を高める。
とあって、確かに、古代人がその遺伝的な問題を経験的に知っていて、それゆえに族外婚が自然発生したというのが、通説だろう。しかし、近親婚による優生学的な弊害というのは、かなり緩慢なものであって、たとえば貴族や王族などが、何世代にもわたって同族と婚姻関係を結んだ場合にしか起こりえないのではないか。人口の圧倒的多数を占める庶民には、あまり関係ないはず。庶民、特に未開民族においては、早婚、雑婚、多夫多妻が当たり前であろうから、数世代もすれば遺伝子の問題などあっという間に解消してしまい、
問題にならないように思う。
このフロイトが発見した理論が今日ではほとんど忘れさられ、無視されているのは驚くべきことだ。