ドナルド・キーン2

続き。ドナルド・キーンは

宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。ここで、いくつか認識に誤りがある。まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。また、日記にはほとんど漢文調のものもある。享和元年日記など。「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、不自然なものに思えるだけではなかろうか。心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。ただそれだけだと思う。

ドナルド・キーン

ドナルド・キーンという人はまだ存命中の方のようで、88才くらいだろうか。源氏物語か何かを研究して海外に紹介した人、というようなイメージであっているだろうか。「日本人と日本文化」という本で、司馬遼太郎と対談しているのだが、何かずいぶんへんてこなことを書いている。

私は正規に日本史教育を受けた人間ではない。高校では世界史を取った。いわば独学なのだが、それもつい最近、日本外史を精読するようになったから、ついでにいろいろ調べてみているに過ぎない。で、日本史を特に知らなかったころの自分がこの本を読んだら、ふーんなるほどで済ませてしまっていたと思う。なるほど、司馬遼太郎とドナルド・キーンがそういうのならそうなんだろうな、と。しかし、ある程度わかってみて、自分の考えというものが固まってから読んでみるとかなり個性のある、独自の主張、もっというと異様な主張をしているように思えてくるのだ。

特に驚いたのは、足利義政と本居宣長についての評価だ。司馬遼太郎は義政を

法制的には(共和制ローマの)護民官みたいな立場にありながら、まったく政治ということにタッチしなかった

と言っている。また、キーンは

ローマ皇帝のネロが、ローマの燃える炎を見ながら、バイオリンを弾いていたという伝説がありますけれども、これは嘘でしょう。しかし事実として義政公は、花の御所で、いろいろ風流の遊びをし続けていた。そのごく近い所で、多くの人々が死んでいった。

などと言っている。ようするに彼らは、足利将軍をローマ皇帝だか護民官のようなものと比較して、あまりに義政が無為で文弱だった、と言いたいわけだ。しかし私は、もしドナルド・キーンが義政と同じ立場に立たされれば、きっと義政と同じようにやるしかなかっただろうと思う。

足利高氏は逆賊となるよりはと、一族郎党にかつがれて、幕府を作り北朝を立てた。義満の時代に南北朝は解消したが、必ずしも義満に権力が集中したわけではなく、すでに有力守護大名や関東管領らによる合議体に成りつつあった。おそらく南北朝の争乱を通じて将軍家としては、功績のあった諸侯に褒賞として守護職を与え続けるしかなかったのだろう。畠山にしろ細川にしろ山名にしろもとは関東から出てきて足利氏を御輿にして一緒に戦ったわけだが、だんだん足利氏の手に負えなくなった。

ところが足利義教の時、鎌倉公方を滅ぼしたり守護大名の力を押さえたりして、中央集権の強化を図った。義教は足利将軍の中では一番強権的で、帝政ローマの皇帝か共和制の護民官に匹敵したかもしれん。しかし、義教はあんまり調子に乗りすぎたせいで、守護大名の一人の赤松氏に弑されてしまい、赤松氏を討伐した山名氏は赤松氏の領国も合わせてますます強大になった。ここで当時最有力だった細川氏との間で緊張が高まった。

そもそも守護大名らはいくつもの領国を持っていたので、将軍家よりも力を持っていた。山名宗全など赤松氏の領国を合わせて但馬・備後・安芸・伊賀・因幡・伯耆・石見・播磨の八ヶ国の守護職だった。足利氏が独力で細川氏や畠山氏を討伐することなど不可能だし、討伐したらしたで功績のあった大名の領国が増えるだけだ。最悪、赤松氏に殺された義教のように、自分も守護大名に殺されることだってあり得る。そういう状況で義政が大名の家督争いを下手に仲裁しようとしたもんだから、応仁の乱に発展し、日本全土に戦が広まって、長期化してしまった。おそらく、義政にできたことは、荒れ果てた京都において、天皇家や公家らを保護するくらいのことだっただろう。義政は最初はおそらく将軍らしくいろいろな問題を仲裁しようと思ったが、自分にできることがあまりにも少ないので絶望してしまったのだろう。だから早く引退したかったのだが、子供もいないので仕方なく養子を育てることにしたのだが、実子が出来てしまい、正室の日野富子がどうこうということがあって、なかなか将軍職を辞めらなかった。

キーンは、京都に住んで京都大学で研究してたから、京都のことはよく知っていたに違いない。いろんな人からいろいろ義政の話も聞いたのだろうが、義政の極めて一部だけを知って、つまり銀閣寺を建てたとか花の御所で遊び暮らしたとか、そんなことだけをとがめ立てして憤慨しているとしか思えない。

ある意味では気違いだったのでしょうか。

とまで言っている。気違いだとかアスペルガーだとか言ってしまえばもうそれから先は思考停止しかない。

司馬遼太郎はもっとひどい。義政はまったく政治にタッチしなかったのではない。なんとか仲裁し調停しようとはしたのだ。しかし守護大名らは勝手に戦を始めてしまった。軍事力をもたず調整役でしかない将軍が、始まってしまった戦をどうすることができようか。さらに応仁の乱はあまりにも長期的で全国的な争乱だった。おそらくは散発的なものだったのだろう。それで焼け出された民衆を助けるといっても限度があったに違いない。おそらくは、まったくなにもしなかったのではなかろう。やってみたが、焼け石に水だったのだ。それに、民衆を助けるというが、その実態は「足軽」という名のよくわけのわからない民衆たちが、勝手に寺や神社や公家の屋敷などに火を付けて略奪して回った、というのが事実なのではなかろうか。そんな民衆をどうして助けたいと思うだろうか。

なるほど、ドナルド・キーンと言う人が、義政について、よくわからないと。分からないなりに外国人としての視点から指摘をするのはまだ良いが、それについて、きちんと誤りを正す立場にある日本人が、司馬遼太郎のように、

キーンさんは、いわば義政はろくでなしの政治家であるとおっしゃった。まったく言われてみればその通りですが、しかしわれわれは将軍というものに、それほど政治家であることを期待していない。
当時も後世のわれわれも期待してないわけです。

足利将軍家の義政というのは東山文化を生んだたいへん偉大な人物であると、われわれ不覚にも単純に思っていたら、キーンさんはそれを大統領にして、あの「大統領はよくなかった」とおっしゃるからおもしろかった。

などと言ってしまっては、もうどうしようもない。司馬遼太郎の認識では足利義政は銀閣寺はすばらしいくらいでしかなく、そこに外国人から為政者として批判があっても、それにうまく答えられない。そればかりか、無学な北条氏はまじめに政治をやったが、教養人の義政は不真面目だった、要するに学問があるやつは政治にむいてないくらいの、ただの飲み屋の親父が言う程度のことしか言えてない。

思うに北条泰時などは相当なインテリだっただろう。ああいうことはよっぽどきちんと宋学を学んでないとできないはずだ。それに泰時は定家に学んで歌も残している。無学どころではない、きちんと当時の京都の最新の教養を身につけた人だ。始祖の北条時政もずいぶんと利口だった。でなければあんな大それたことはできまい。それがどうして

鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。

などということになるのだろうか。司馬はさらに

どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが、

などとも言っているのだが、ようするに、彼にとって秀吉や義経や龍馬のような、わかりやすい英雄とか、わかりやすい決着が不在の戦争、ごちゃごちゃした始まりも終わりもないようなうやむやな内戦のような戦争は無意味でただ騒ぐだけの戦争に見えるということだろう。そういう認識は間違っていると思う。そしてほんとうに問題なのは、日本人の多数が司馬遼太郎程度にしか応仁の乱を認識していないってことだよな。

なるほど。ドナルド・キーンは足利義政について何冊か本を書いているようだな。まあ、だいたい内容の予測はつくが。

私小説のすすめ

小谷野敦「私小説のすすめ」を読む。 比較的最近の本。 特に異論はない。さらっと読めた。 というか私はそもそもあまり小説というのは読んでないのだな。 いろんなものをつまみ食いはするが。 いや、読んでないわけでもないか。 小説で一番まじめに読んだのは中島敦かな。 なんとも言い難い。

ちなみに田山花袋「蒲団」は読んだことがあった。 ちなみに敢えて「蒲団」の感想を書けば、なんか嫌ぁな気分になる読後感の悪い小説、 しかも私小説となると余計に気持ち悪い感じといえば良いか (しかし、三島由紀夫の虚構に盛られた私的世界の方が気持ち悪さという意味ではずっと強い)。 丸谷才一が代表的な反私小説的作家とあって、確かにそんな感じはする。 いきなり「エホバの顔を避けて」だし(その後のは概要しか知らないが明らかに私の嫌いな、読みたくないタイプの小説)。 たぶん自分の内面をさらすのが嫌なのだろうし、 作品と自分自身の実体験を極力切り離して、少なくとも悟られないようにしようと努力するのだろう。 絵画であれ文章であれ、 ほっとくとどんどん自分の主観が表れて、 それを見ると自己嫌悪に陥ってしまう。 そうなるとそういう私小説的な文章やら絵はかけまい。 さらにそこから進むと批評しか書けなくなるのではないか。

いつもこの人の文章をブログで読んでいるので、 新書で読むとなんか一瞬何かぐらっと変な感覚がした。

それはそうと書籍名を「」でなくて『』で囲むのには何か意味あるのか。 Wikipedia でもそういう書き方をする人がいるようだが。

ところで丸谷才一がいきなり「後鳥羽院」を書いた理由が未だにわからない。 当の「後鳥羽院」を読めばわかるのかもしれんが。 思うに丸谷才一という人は、 懲役忌避やら現代における封建時代の残滓などをテーマとしたような小説を書いたそうだから、 戦前の軍国主義につながるようなものは一切受け付けないのかもしれない。 となると、丸谷才一にとって日本文学の中で拒絶反応を示さず、 純粋にその世界の中に浸れるのは、悠久の昔からたどってきて、 完全に軍事放棄し軍事音痴と化した平安王朝と、武士らに滅ぼされた後鳥羽院までの文学なのかもしれん。 王朝が破局したあと、 武家のたしなみとしてそれなりに継承され、再発見され、 発達した和歌とか、軍国主義を無批判に礼讃したような和歌などは、 丸谷才一は大嫌いだろうと思う。 だが、丸谷才一はたぶん自分の本当に言いたいことは隠す人だから、 いろいろ読んでもすぐにはわからない仕組みになっているに違いない。

平氏にあらざれば人にあらず

「平氏にあらざれば人にあらず」あるいは「平氏にあらずんば人にあらず」という言い方が世間で一般的なようだが、平家物語には「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」と表現されている。源平盛衰記でも「此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被申ける」としか書いてない。しかるに日本外史には「平族にあらざる者は人にあらざるなり」と出てくる。なので、「平氏にあらざれば人にあらず」という言い方はもしかすると日本外史に由来(というか日本外史の訓み下しの一例)なのかもしれない。

中にはこのせりふを言ったのが平清盛だと思っている人がいる。正確には平時忠である。

また重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」というのももともとは平家物語だが、このフレーズは日本外史の訓み下し文そのものである。もともとはもっとくどい言い回しの和文だが、それを頼山陽がすっきりとした漢文調の文句にしたのである。原文(『平家物語』「烽火」)

悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし。

このように実は日本外史に由来するかもしれない言い回しというのはものすごくたくさんあるんじゃないかと思う。

熊手

源氏前記平氏の平治の乱の辺りを読んでいた。「平将軍再生すと謂ふべし」というくだりがある。ここの「再生」も「死んだ人がよみがえる」という意味だな。また八町二郎という者が「鉄搭を以て」平頼盛のかぶとを「鉤す」とあるがこの搭もやはり「熊手」なのだろう。wikipedia にも「熊手」の中に「武器としての熊手」という項目があるが、どうやら長い柄がついた鉤鉾のようなもの、あるいは今でも漁港や釣りで使われる打ち鉤のようなものだったのではないかと推測されるのだが、よくわからんな。水上の戦闘では敵の船に打ち付けて引き寄せるのに使ったそうだから、必需品だったようだ。「熊手」というのは軍記物にそのままそう書いてあるのだろう。実際熊の手に似せて作ったのかもしれん。

しかし我ながらこんなにボロボロになるまでよく読むなと思う。この岩波文庫の日本外史など絶版なので、無くすと古本をamazonかなんかで買うしかなく、たいへん困る。

曽我兄弟

日本外史を読んでいて、やはり、予備知識がないとわからんところはどうしてもわからん。例えば曽我兄弟のことを「二孤」などと書いてあるのだが、曽我兄弟を知らない人が、ここの漢文だけを読んで、何を言おうとしているのかわかるだろうか。どうひねくり返してもわからんときには、頼山陽が参照した原典を読んでしまった方がずっとわかりやすい。

たとえば腰越状などにしても、「先人の再生にあらざるよりは、誰か為に分疏せん」などと書いてあるがちんぷんかんぷんだ。これは「亡き父・義朝がよみがえるようなことでもなければ誰が私のために申し開きをしてくれるだろうか」という意味だ。がんばって解読するよりはさっさと古典を読んだ方がまし。

「疏」というのもわかりにくい漢字だが、箇条書きのようなものを言うらしい。「分疏」では細かく説明する、弁解するの意味になり、「疏状」は告発書、訴状のようなものを意味するらしい。わからんよなあ。

壇ノ浦の戦いで「鉤」または「搭」などの語が出てくるが、これらはいずれも「鉄の熊手」のことで、「鉤」はまあ鉄のかぎ爪だとわからんでもないが、「搭」に至っては、たぶん漢和辞典でなく中国語辞典でも引かないとこれが「熊手」であることはわからんのだな。

「法皇弗予」なども「弗予」が謎である。読み仮名の「ふよ」と、文脈的に「不予」(天皇の病気)だろうと推測できるが、そもそも不予という言葉を知らなければ予測もつかない。

で、結局、日本外史を読むということはその出典もすべて読まないと完璧とは言えない、ということだろう。幕末維新の武士たちが日本外史を読んで勉強したというがどの程度彼らは読めていたのだろうか。たぶん、日本外史以外の書籍が相当にちんぷんかんぷんで、日本外史はそれらよりはましという状況だったのではないか。まあ、今の教育が進んだ情報化社会と比較しても仕方ないわけだが。

google日本語入力だが、固有名詞には非常に強い。マイナーな登場人物の名前もばんばん変換できる。しかし、当然変換できるはずの単語がうまく変換できなかったり(たとえば「頼家」とか)。atokの手書き文字入力も捨てがたい。なんで結局atokとgoogleを切り替えながら書いている。

平維盛

すげえ面白い人だな。

たぶんこの人は、長男ではあったが嫡嗣ではなかったのだろう。平氏は清盛の代で初めて摂関家よりも朝廷で権力を握ったが、長年の姻戚関係で藤原氏と天皇家は親戚同然。平氏も嫡男は後見役として藤原氏と婚姻関係を持たないと、何かと形見が狭かったろう。維盛は平氏の中でも都でもかなり浮いた存在だったのではないか。

富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いでは総大将ということになっている。富士川の戦いほどよくわからん戦いもないだろう。一応平氏の長男として維盛が総大将だが、目付役として藤原忠清が付いている。まあ二人とも公家だわな。物見遊山気分で遊女など連れて繰り出したんだろうな。まあ負けそうだよな。倶利伽羅峠に至っては野人のごとき木曽源氏の本拠地で公家が戦ってはまあ負けるわな。

平家都落ちの際には妻子を都に残し、一の谷の合戦の頃に敵前逃亡。自殺したことになっているが果たしてどうか。ま、ともかく、平氏の一門として闘争心があったかどうかはかなり疑わしい。運命共同体的なものは、感じてなかったに違いない。

ある意味ダメ平氏の象徴みたいな人ではある。

維盛の子どもが六代で、清盛の血筋では最後まで生き残ったが、結局殺されてしまう。平家物語では重盛-維盛-六代の血筋がかなりひいきされているようにも見える。

燃えよ剣下巻

本棚を整理していたら燃えよ剣の下巻が出てきたので読み始めた。もともと私の本ではなく死んだ祖父の本を拝借したもの。うーん、なんちゅうか、七里研之助を倒し、伊東甲子太郎を暗殺したところまでは、面白かったんだが、その後は史実をなぞるだけな感じでどうでしょう、という。

うすうす感づいてはいたがやはり七里研之助は架空の人物だったのだな。こちらはまあ良く書けてるとして、妻として出てくるお雪とのあれこれというのは、もうはっきり言って邪魔。下巻読む気を失わせる一番大きい原因かも。

やはり、鳥羽伏見の戦い辺りからもう新撰組がどうこうという話ではなくなってしまうので、小説としては書きにくかったのではないかなとか。

後書きが陳舜臣で割と面白い。司馬遼太郎がこれを執筆したのが昭和三十年代後半というのだから、ちょっと驚く。当時三十才後半くらい。まだ私は生まれてない。そのころは調布も府中も八王子もあの辺一帯まだまだ田舎で桑畑だらけだっただろう。ちょうど、今で言う所沢あたりのように、冬は畑から土埃がもうもうと舞ったのだろう。初夏には竹のささらで地面を叩きながらマムシを避けないと歩けなかったのだろう。気性も荒く、殺伐としていて、子供の喧嘩も酷かったのだろう。という多摩の風土を書いたものとして読めば面白いのだが、維新後に北海道に渡って独立国家を作ろうなどというのはどうも私にはただの茶番に思えて仕方ない。結果論というやつかもしれんが。

内村鑑三「代表的日本人」の「上杉鷹山」のところを読む。山形県的には偉人、というか昔の日本人的には偉人なのか。江戸中期くらいに藩の財政改革として荒れ地に桑を植え始めたのかな。

マルコ福音書

マルコ福音書は最初に13章までが書かれたのだという。つまり受難の前まで。さらに受難の章14,15が書かれた。復活について書かれた16章目は、もともとマルコには含まれていなかったという。

ということはだ、マルコの最初の形は、冒頭ヨハネの話がちょっと出てくるが、いきなりイエスのガリラヤ布教の話に移る。そしてほとんどがガリラヤでの布教活動の記述の列挙で終わる、ということだ。つまり、マルコ福音書というのはもともとは「イエスのガリラヤ布教伝」 というものだったらしいのだ。

「イエスのガリラヤ布教伝」というテクストがまずあって、これに若干加筆してマルコとなり、また「ガリラヤ布教伝」または「マルコ」を参考にして「マタイ」と「ルカ」が出来た、ということらしい。

「マタイ」が現在の新約聖書の冒頭に配置されているのは、「マタイ」がダビデからイエスまでの系譜やら、イエスの誕生などを時系列で丁寧にまとめているからだろう。

司馬遼太郎3

つまり、司馬遼太郎は、義経は書いているが、鎌倉幕府とか北条氏の時代から何も書いてない。太平記の時代になり義満の時までない。

つまり、源頼朝から足利義満までの間のことは小説に書いてない。

なるほど、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康は武士であろう。薩摩や長州も武士だし、新撰組も武士だろう。明治の軍人たちは武士の子孫に違いない。

だが、執権北条氏も、足利氏、新田氏、楠木氏らもまた武士であろう。南北朝や応仁の乱のごたごたもまた武士であろう。それらを全部ひっくるめて武士なのである。しかし、司馬遼太郎は、吉川英治「私本太平記」を例に挙げて、吉川ですら残念ながら水戸史観を頼りにこの時代を見ている、などと批判している。水戸史観を通してみれば悲壮美にみちたきらびやかな時代だが、それを取り払えばただのごたごたでなんでもない時代だ、と言っている。なるほど、なんでもない時代ならなんでもない時代として淡々と描写すれば良いのではないか。あるいはそれこそ水戸史観を司馬史観とやらで置き換えれば良いではないか。まあ、新田次郎などはそれをやろうとして、派手に失敗しているし、吉川英治も中途半端にやろうとして適当にごまかしているがな。歴史家か歴史小説家が、ある特定の時代を取り出して、なんでもない時代、なにもなかった時代などというのは怠慢に過ぎない。 プロじゃない。そもそもなにもない時代なんてものがあるはずがない。逆に、なにもかもおもしろかった時代というのも幻想に過ぎない。

南北朝時代と応仁の乱の時代は、時期的にも近接していて、非常に良く似たものだっただろう。どちらも、ほんとうの歴史というものは、ごたごたしただけのものだ。司馬史観というが、幕末や安土桃山時代ばかりとりあげて、武士の、日本史の暗黒の歴史、つまらなく、ごたごたどろどろした部分はほったらかして、それじゃただミーハーなだけではないか。頼山陽の立場で考えれば、彼はまあ彼の生きた時代なりに、日本の通史を書こうとして、武士の良いところも悪いところも全部彼なりに最初から最後まで書いてみた。さらに日本政記やら日本楽府も書いた。そして彼は彼なりに、日本に武士がおこった所以を説明してみた。藤原氏による国家の私物化、武家による簒奪(或いは王家の傀儡化)、さらに北条氏という、天皇家でも貴族でもない階級による一時的な「善政」と崩壊。長引く混乱の中で荘園制から守護大名、戦国大名への変遷。そして封建制の完成。すべては連続的にかつ必然的に起こってきたこと。だが、司馬遼太郎は日本の歴史をつまみ食いしただけだ。彼が、宋学とか、水戸史観とか、そういうものを嫌っていたのはわからんでもないが、
それもまた武士の思想なのであり、それをどうにかこうにか自分なりに消化しなくては武士を描写することなどできまい。

思うに、太平記がただのつまらない歴史だと言うのであれば、史記に描かれた項羽と劉邦の話だって、脚色を取り払えば、ほんとうの歴史はごくつまらないものだっただろう。安土桃山にしろ幕末にしろ、史実が明らかになればなるほど、ふつうのごくつまらない事実の積み重ねに還元されるだけだろう。そんなことは当たり前のことなんじゃないのか。歴史小説を書くには何かの脚色が必要で、だから司馬史観などと言われるのではないのか。