中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。

小谷野敦 中島敦殺人事件

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

華国鋒

毛沢東は1893年生まれで1976年82歳で死去。当時の中国としては十分高齢なほうだっただろう。
鄧小平は1904年生まれだから、当時すでに72歳。
若いと言われた華国鋒も1921年生まれだから、当時55歳。
江沢民は1926年生まれなので、華国鋒と江沢民はほとんど同年代。
華国鋒は毛沢東の死後、四人組を追放して、最高権力者となるも、鄧小平と対立して事実上引退。しかし、2008年まで生きていて、実権はなくとも失脚したわけではなかったらしい。
鄧小平、江沢民、胡錦濤と国家主席が三人代わって、87歳まで長生きしたことになる。
なんか不思議な人だな。

『毛沢東の私生活』によれば、毛沢東が瀕死の床についていて、鼻から胃にチューブを通して栄養を送り込みたいと主治医の李志綏が提案したとき、華国鋒がまず自らチューブを通す実験台になったという。毛沢東の孝行息子的存在だったのだろう。李志綏は、華国鋒が毛沢東の後継者になったのは、適任だった、などと言っている。

周恩来は1898年、林彪は1907年、劉少奇は1989年生まれ。

トーテムとタブー

フロイトの『トーテムとタブー』を読み始める。

ここでタブーと宗教は区別されている。宗教とは神を崇拝することであって、タブーとは神よりも古く、より原始的で、理由付けのない禁忌を言うらしい。フロイトの時代には、世界中でさまざまな先住民や未開民族が発見され、分類された。それらの民族の多くには、宗教と言えるような組織的なものはほとんど見られず、タブーの方がより強く社会を制約している、とフロイトは観察している。

フロイトが言いたいことはつまりこういうことだろう。近親姦の禁止や族外婚の風習というのは、ほとんどすべての、まったく無関係な社会にも見られる。それは、男性のボスによる一族の女性支配に由来する。トーテムとは部族、血縁のことで、東アジア的に言えば、姓とか本貫のこと。姓は原初的には女系だった。なぜ古代、女系で姓が継承されるかというと、古代は女権が強く、女性が財産権を持っていたからだ、とはフロイトは考えない。むしろ逆。男のボスが横暴であって、妻や娘たちを独占するために、妻や兄弟姉妹間で姦通することを禁じるために、妻とその子孫たちはすべて同じトーテムに属することとし、トーテム内の姦通を禁じたのである。この理屈で言えば、一族の中で同じトーテムに属さない、つまり自由に姦通できるのは夫一人となる。男子が成長すると、自分のトーテムの外、つまり家族の外の女と結婚しなくてはならない。これが族外婚。Exogamy というものだ。

確かに、まったく未開の、何の言語もなく、決まりもなにもない社会にも、この理屈で言えば、トーテムは発生しうる。トーテムの発生には理屈がない。ただ単に横暴な男子と無力な女子供がいるだけだ。それが数世代か数十世代繰り返されるかは知らないが、そのうち、誰もその由来は知らないが、トーテムという社会制度だけが成立するというわけだ。

恐ろしくも非情、しかし説得力のある理論だ。余りこれまで見聞きしたことがないのだが。Wikipedia などには、

遺伝子上の欠陥を補う事で、子の遺伝的な多様性を増加させ、子の繁栄の可能性を高める。

とあって、確かに、古代人がその遺伝的な問題を経験的に知っていて、それゆえに族外婚が自然発生したというのが、通説だろう。しかし、近親婚による優生学的な弊害というのは、かなり緩慢なものであって、たとえば貴族や王族などが、何世代にもわたって同族と婚姻関係を結んだ場合にしか起こりえないのではないか。人口の圧倒的多数を占める庶民には、あまり関係ないはず。庶民、特に未開民族においては、早婚、雑婚、多夫多妻が当たり前であろうから、数世代もすれば遺伝子の問題などあっという間に解消してしまい、
問題にならないように思う。

このフロイトが発見した理論が今日ではほとんど忘れさられ、無視されているのは驚くべきことだ。

句点省略の異同について。

しつこくもまだ調べている。 中島敦『斗南先生』で比べてみる。 一つは「ちくま文庫」の『中島敦全集Ⅰ』。

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。

省いてない。 次に集英社文庫『山月記・李陵』の同じ箇所。

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている」と言い出した。

省いている。奥付には底本は筑摩書房『中島敦全集』とある。 もひとつついでに青空文庫の当該箇所、

「これから床屋へ行って来る。今、道で見てきたから場所は分っている。」と言い出した。

省いてない。底本は岩波文庫、親本は筑摩書房『中島敦全集Ⅰ』とある。 ま、ともかく、ある程度の「書式の修正」が加えられることがあるわけだから、 用心しないと、もともと著者が省いていたのか、校正で省かれたのか、わからぬわけだ。

集英社文庫は他の箇所も徹底的に省いている。中島敦という人は面白い人で、省いたり省かなかったり。 律儀に必ず省くとか省かないとか決めずに書いている。 それにはある種の法則性というかポリシーがあるのだろうと思うし、実際、私もそんな書き方をしているように思う。

ふと気づいたのだが、

その「お髯の伯父」(甥たちはそう呼んでいた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。

のように、丸括弧の最後に句点を打っている箇所がある。なるほど、ここは打ちたくなる箇所ではあるが、私なら打たないだろうと思う。

句読点の省略と新聞社について

思うに、夏目漱石が最初に作品を発表したのは朝日新聞であり、森鴎外は読売新聞だ(追記: 漱石が最初に小説を発表したのはホトトギス、明治38年。鴎外が小説に関する論文もしくは戯曲の翻訳を発表するようになったのは読売新聞で明治22年、最初の小説『舞姫』を発表したのは国民之友)。司馬遼太郎ももとはと言えば産経新聞の社員。このように、新聞社関係の人間は、カギ括弧の終わりの句読点を省く傾向がある。

一方、永井荷風や中島敦らが最初に活動したのは文芸誌か同人誌であろう。

新聞社では活字を節約するために、句読点の省略ということをやった可能性が高い。せこいが年間で0.何パーセントか、コストを削減できたに違いない。逆に文芸誌や同人誌などは、たかだか句読点の一つや二つ省いたからと言って、採算がどうこうなるというわけではなかっただろう。学者の文章というのも、やはり、句読点を省かなかったのに違いない。

子母沢寛も松本清張ももとはといえば新聞社の人間である。そして、新聞社というは、影響力が大きいものであって、そのために句読点が省かれるようになった、また、みながそれを真似するようになった。

そんな気がする。

もしそうだとすれば、今の時代に句読点をいちいち省略するのは、ばかげたことだと思う。

『墨東綺譚』を読むに、やはり句点は省かれていない。「そうか。」「今晩。」「ご存じ。」など、短い会話文でも、かならず、省略しない。短くても改行する場合が多いが、いつもではない。朝日新聞に掲載されているが、永井荷風は当時すでに文豪だったから、句読点を削られるようなしうちはなかったのに違いない。やはり、初期の頃の執筆の癖というものが、その後もずっと残り、途中で変わることはない、と考えるのが自然だろうよ。

追記。文芸作品に限れば句読点を省くか省かないかなどということは些細なことかもしれないが、新聞に掲載するのは文芸だけではないから、活字の節約ということは大きな意味がかつてはあったに違いない。文体も簡潔にし、改行もできるだけしない、などということがあったかもしれない。

『墨東綺譚』は最初私家版だったらしい。

同朋町

江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。

で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。

ナポレオン打ち切り?

原稿アップ。ありがとうございます。

あれっ。それって今月で連載打ち切りってこと?雑誌は見てなかったけど、単行本はかかさず買ってた俺様の立場は。まだ、皇帝にもなってないよね。確かエジプトに遠征したところくらいでは。あーあ。まあ、日露戦争物語も日清戦争までで打ち切りになったしなあ(笑)

自分的に今年一番のがっかりニュースです。はっ。まてよ。こうなることを予想して、最初にアウステルリッツの三帝会戦を描いたのでは。はうう。

ヴィンランド・サガが終わらないことを祈ります。麗島夢譚は・・・コメントしづらい。

大いなる助走

久しぶりに読み直してみたのだが

あなたも小説を一度書いて見られたらおわかりになろうかと思いますが、小説を書いている間というものは小説の世界へのめりこんでしまって現実がどうなろうと知ったことじゃなくなるんです。小説をよくする為には利用可能な現実の出来事をすべてぶちこんでしまって、それが日常生活に及ぼす結果や我が身にはねかえってくる報いなど、たとえ馘首になろうがどうなろうがどうでもよくなってしまうんです。

いやー。無理無理(笑)。絶対無理だからそれ。書けないものは書けないよ。同人誌書いてる学生じゃあるまいし。ビデオ公開しちゃった海上保安官じゃあるまいし。

はっ。まんまと釣られた。

しかし、今でも、20代の、しかも女性作家に、私小説というか暴露小説まがいのものを書かせて、それを持ち上げる傾向はあるよねえ。いかがなものかと思うが。つまり、それ以外に話題性というか、インパクトのある小説が無いのがいけないんでしょうけど。

小谷野敦『私小説のすすめ』も、

多くの有名作家が私小説からスタートしたのだ。しかも、文学的才能がなくても書け、誰もが一生のうち一冊は書きうる小説

などと言っているということは、作家は一生に一度しか書けないような私小説を(まだろくに人生経験もない若い頃に)書いてデビューして良い、と言っているわけだから、『大いなる助走』に出てくる主人公の市谷みたいな暴露小説を書いてよいと、そそのかしているようなものだ。うーん。どうなのかねそれは。

宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。