完結させないほうがよい。

最近は酒を飲んでも楽しくない。一人で飲むときなどは、缶ビール一本で飽きてしまう。人と飲んでいるときや外で飲む時は逆に飲み過ぎてしまってそれはそれで面白くない。

若い頃は気分を無理矢理盛り上げるために旨くも無い酒をがぶ飲みしたりもしたが、今はまったく逆で、人とトラブルを起こさないようビクビクしながら飲んでいる。そういう飲み方してちゃ、周りのノリについていけないし、面白いはずもない。私はもともと周りに合わせて盛り上がるってことが苦手で、適当に合わせて飲むことができないので困る。

谷川俊太郎とか宮沢賢治とか山之口貘とか萩原朔太郎とか中原中也とか、いろんな詩人がいるんだが、ああいうのはいったいどこが詩なのだろうか。萩原朔太郎にしても、彼の和歌は私にはまあわかるのだが、詩はなんともいえない。谷川俊太郎も「はなののののはな はなのななあに」などは面白いとは思うけど、それ以外のはどうも大したことはない。宮沢賢治も、一日三合の飯で我慢しとか、面白くなくはないけど、だからなんなのだと思う。それを言ったら「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」なんかも、だから何が面白いのかということになる。糸井重里の「インテリげんちゃんの夏休み」なんかも、面白いといえば面白いのかもしれないが、だからなんなのだという気もする。

俵万智も、あれは不倫の歌だから面白いのだが、それ以外は、面白いのは缶チューハイくらいで、なんということもない。

岡本太郎が書いた文章は面白いと言われて読んでみたが、あまり関心しない。結局面白けりゃいいじゃん、みんなが良いと言うのは良い、と言っているだけのように思える。日比野克彦の文章なんかは私にはどうしようもないものにおもえる。しかしなぜだか知らないが岸田劉生の文章は良い。

でまあ、今挙げた人たちの中で100年後、200年後まで残るのは正岡子規と俵万智くらいかなと思うのだが、どうだろうか。たぶん香川景樹や頓阿は残るだろう。吉田類の俳句なんて10年ももつまい。あんなデタラメな漢語を並べただけの俳句をなんでまたありがたがるのか。ただのしゃれなのか。

文章のうまい人、歌のうまい人というのは私の中では確実にいるのである。正岡子規や樋口一葉はうまいほうだと思う。ただし樋口一葉にはあんまり整ってない詠草のような歌が多い。土屋文明が正岡子規や伊藤左千夫の歌を『短歌入門』でとりあげていろいろ解説しているのだが、土屋文明という人はほんとに歌のよしあしがわかっていたのだろうか。

折口信夫も読んでみたが、何を言ってるのかさっぱりわからん。小林秀雄の悪文をつまらなくしたような文章だ。和辻哲郎は、なるほど言いたいことはわかるが、それがどうしたという感じ。寺田寅彦を文系にしたという感じだ。

竹久夢二と夢野久作はなんか似てて間違う。夢野久作の書く文はなかなか良い。たとえば「眼を開く」など。

斎藤茂吉はごくまれに正気に戻ったように良い歌を詠むことがあるのだが、普段はどうしようもなくくだらない歌ばかり詠んでいた。良い歌もあるから一概にダメとは言えないが、ああいう人がいるせいで、世間の人は良い歌と悪い歌の区別がまったくつかなくなってしまったように思う。

たとえば茶道具なんかを骨董の目利きたちがあれが良いこれが良いと言っているのは、彼ら身内の間ではそういう違いがあるというだけで、私からみたら竹のヘラなんてものは茶をかき混ぜられればそれで良いようにしか思えない。おんなじことは和歌にも言えるのかもしれない。私には全然違って見える歌も人からみればどれも似たり寄ったりなのだろう。ただ和歌に関していえば単に竹のヘラのそり具合曲がり具合とは全く違う、本質的な違いがあるように、私には思えるのだ。

『関白戦記』はあれでとりあえず完結しているからいいんだが、『エウメネス』は全然完結してないのに50万字を超えてて、特にむりやり完結させた『エウメネス6』の出来が悪い。『エウメネス5』までにしておいて、『エウメネス』は未完成、ということにしておこうか。うん、完結させないほうが良いような気がしてきた。できないことを無理にできたことにするより、できないままでほったらかしておいたほうが良いのかもしれない。

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