子母沢寛と司馬遼太郎

1967年に子母沢寛と司馬遼太郎が対談している。子母沢寛は1968年に死んでいるので最晩年だが、司馬遼太郎は44才、「燃えよ剣」や「殉死」など、初期の作品を書いたばかりの頃だ。司馬遼太郎ははたちくらいに子母沢寛の「新撰組始末記」を読んで、どうしてもこれは超えられないと思い、子母沢寛に会いに行って教えを請うたという。両者とも新聞記者から歴史小説家になったのだから似た境遇ではある。

「新撰組始末記」を改めて読むとこれは小説とかそんなものではなくて、大論文だ。これをおもしろがって読んだ人がいるとは思えない。ただ学術的、歴史的にはそうとう重要な本であろうとは思う。司馬遼太郎はしかしそもそもこんな小説を書こうなどと思ったはずはない。最初からもう少し色気のあるものを書こうと思っていたに違いない。それに、大正時代には生き証人に取材もできるが司馬遼太郎の時代にはできるはずもない。ただ謙遜して自分には書けないと言ったのではなかろう。司馬遼太郎はあまり謙遜するような人でもない。

対談は「幕末よもやま」というタイトルでそんな長いものではなく、しかも司馬遼太郎が勝手に一方的にしゃべっている感じ。ときどき子母沢寛も発言している、という程度。ほとんど新撰組と彰義隊の話で、龍馬の話でもしていてくれると面白かったのだが、司馬遼太郎が遠慮したのか。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。

ほんとうの秀歌

後撰集や拾遺集を読んでいるのだが、ほんとうの秀歌というのは、三代集、つまり古今・後撰・拾遺集のよみ人知らず、または人麿の歌にこそあると思うんだな。しかし現代日本人はまず、小倉百人一首から和歌に入る。そうすると、とんでもない駄作、まったく無名の歌人などの方が有名になってしまう。赤染衛門などはまだ良いとして喜撰法師などはまったくどうでもよい人だとしか言いようがない。このあたりが、和歌の感覚をいちじるしく混乱させているのは間違いない。

特に、後撰集や拾遺集の雑などに無造作に収録されたよみ人しらずの歌に実に良いものが多い。拾遺集には「雑春」とか「雑恋」などの巻もあってびっくりする。こんなものは、
他の歌集にはなかろう。たぶん、集めたことは集めたが編集しきれなかったのだろう。たとえばだけど、

ささがにの 空に巣がける 糸よりも 心細しや 絶えぬと思へば

蜘蛛の巣の糸よりも心細い、と言っているだけなのだが。次は、山田法師という、ごく無名の人

あしひきの 山下とよみ 鳴く鳥も 我がごと絶えず もの思ふらめや

「らめ」とか「らめや」って面白いな。

我が恋を 人知るらめや 敷妙の 枕のみこそ知らば知るらめ
秋なれば 山とよむまで 鳴く鹿に 我おとらめや ひとり寝る夜は

おもしろい歌だなあ。

過ちの あるかなきかを 知らぬ身は 厭ふに似たる 心地こそすれ

久しぶりに訪れた女性がなかなか会おうとしないので、自分の側に過失があって会ってくれないのか、嫌われてしまったような気分になる、という意味。

うつくしと 思ひし妹を 夢に見て 起きて探るに なきぞ悲しき

これもよみ人知らず。なんか似たような歌があったようななかったような。万葉集か。中務

忘られて しばしまどろむ ほどもがな いつかは君を 夢ならで見む

義経

司馬遼太郎全集をまた読み始める。「義経」の最初の方に、

武家は二流にわかれている。源氏と平家であった。その勢力地図もくっきりしている。源氏は東国に地盤をもって騎馬戦が強く、平家は西国に地盤をもって、海戦と貿易に長じていた。

というのだが、はて、確かに平清盛は「西国に地盤をもって、海戦と貿易に長じていた」と言えるが、平治の乱ののちは圧倒的に平氏の天下であって、東国にも平氏と源氏が割拠しており、源氏が東国に地盤を持っていたとは言い難い。たとえば頼朝が預けられた伊豆の北条氏も平氏側だし、関東にも平広常などがおり、頼朝挙兵のときにも大半は平氏側だった。明らかにおかしな記述だ。まあそんなことにいちいち目くじらを立てるまでもないのかもしれんが。しかし、頼朝が源氏の地盤の関東で挙兵したから簡単にことが成った、と思われては困るのだ。

しちすつの濁音のこと

司馬遼太郎が「歴史を紀行する」に

坂本竜馬は生涯、どの土地のたれに会ったときでもまる出しの土佐弁で押し通したという。おかしければ本居宣長の「玉勝間」を読め、というところであろう。そこでは土佐人の発音の正確さについてほめて書かれているのである。

とあるのだが、これは玉勝間に

土佐の国の言には、「し」と「ち」と、「す」と「つ」の濁り声、おのづからよく分かれて、まがふことなし。さればわづかにいろはもじを書くほどの童といへども、この仮字をば、書き誤ることなしと、かの国人かたれり

とある。別に褒めているというほどではなく、土佐人から伝え聞いたという程度のことだろう。まして「土佐弁こそ日本語」などと主張しているわけではない。もし古典文法を比較的正確に残しているものを「日本語」と言うのであれば、九州弁などには下二段活用が完全に残っている。高校で古文の教師が下二段活用を教えながら、自分たちの普段話している方言がまさに下二段活用であることにまるで気が付いてない。まあそれが高校教育の限界というものだろうが。

たとえば、九州弁で「おじいさんが死なした」と言う。「死ぬ」の未然形「死な」に尊敬の助動詞「す」の連用形「し」がついて、過去の助動詞「た」がついて「死なした」となっているのだが、こういうことを古文の時間に教えてくれる教師がどれほどいるだろうか。

たとえば、「ら」抜き言葉というのがある。「行かれる」「来られる」を「行ける」「来れる」という。しかし九州弁では「行かる」「来らる」と言う。古文のラ変活用そのままである。

歴史的仮名遣い

思うに、江戸時代の人は、かなりいい加減な仮名遣いで文章を書いていたわけだ。上田秋成は生涯を通してへんてこな仮名遣いだった。宣長は30才くらいまではへんてこだった、だが、賀茂真淵と出会い国学を学ぶようになって、ようやくまともな仮名遣いになったようだ。

小林秀雄は生涯きちんとした歴史的仮名遣いで書いた。まあ、明治の文筆家なんだから当たり前と言えば当たり前だわな。明治天皇の歌も完璧な古典文法で書かれているが、しかしそれは我々の目に触れる段階でそうなっているというだけであり、詠草もまた完璧であったかどうかは知りようがない。しかし、孝明天皇の御製にはかなりあやしいものがある。

丸谷才一は「後鳥羽院」よりも後から歴史的仮名遣いで書くようになった。49才以後ということになる。かなり遅い。

こうして見ていくと歴史的仮名遣いというものは、「明治仮名遣い」と言っても良く、歴史的にはかなり短い期間にしか、完全には行われなかったのだ。なぜ明治になってこうなったかと言えば、おそらく真淵と宣長による国学の基礎付けがあり、それに基づいて日本全国均質な国語教育というものが成立したからに違いない。歴史的仮名遣いと言っても歴史的にはかなり浅いものだったのだ。実際、21代集ですら、原文にはかなりおかしな仮名遣いがあるしな。

ははあ。なるほど。宣長は契沖仮名遣いというものを修正して歴史的仮名遣いを復興させたわけだ。やはりこの「復古仮名遣い」を「発明」したのは宣長だったわけだ。


丸谷才一が歴史的仮名遣いで文章を書くようになったのはいつからですか。またそれはなぜですか。「エホバの顔を避けて」の頃は違いましたよね。

指摘の通り、処女作『エホバの顔を避けて』(1960年)の刊行当時は現代仮名遣いが用いられていました。

丸谷才一が表記を切り替えた時期と、その背景にある理由は以下の通りです。

切り替えた時期

  • 一時期の例外を除き、1974年以降に完全定着デビュー初期(1960年代初頭)は歴史的仮名遣いと現代仮名遣いが混在していましたが、1966年から1974年にかけては主に現代仮名遣いで執筆していました(『笹まくら』や『年の残り』など)。しかし、1973年〜1974年の評論『後鳥羽院』の発表頃から決意を固め、1974年以降の作品(小説・評論・エッセイ)から歴史的仮名遣いを全面的に採用するようになりました。

歴史的仮名遣いを選んだ理由

  1. 国家(政治)による言語介入への批判戦後の「現代仮名遣い」や「当用漢字」といった国語改革は、国家権力が強引に定めた政策であり、本来文化的に醸成されるべき言語に対して政治が不当に介入したと考えたためです。
  2. 古典文学・日本文学の伝統との途絶を防ぐため表記を現代音に近づけて変えてしまうと、過去数百年〜一千年の古典文学(平安〜明治・大正の文脈)が読めなくなり、文化的な継承が断絶してしまうという強い危機感がありました。
  3. 日本語の論理的・形態的な整合性例えば、「思う」の活用(思は・思い・思う・思ふ…)に見られるように、歴史的仮名遣いの方が語幹や語頭・語尾の規則性が論理的に保たれており、表記システムとして優れていると主張しました。
  4. 視認性と美的な理由漢字の字形(正字体)や旧仮名遣いが持つ文字通りの「文字づらの美しさ」や、視覚的な識別しやすさ(同音異義語の区別など)を重んじたためです。

なお、丸谷才一の仮名遣いは純粋な古典通りの旧仮名遣いと全く同じではなく、読者への読みやすさを考慮して一部アレンジされた独自の歴史的仮名遣い(例えば濁点打鍵の統一など)を工夫して用いていたことでも知られています。

宿坊

司馬遼太郎は、祇園という町が挙げて長州を贔屓にしていたというのだが、ちょっと妄想入ってるんじゃないか。長州征伐で京都から排除されてもかまわず匿い続け、鳥羽伏見の戦いで長州の紋の入った旗を見て涙を流して喜んだとか。まあ、そんな人も居たかもしれないが、京都人全体がそうというのは余りにこじつけが過ぎないか。

確かに、幾松・君尾などの芸妓が居たがそれらが有名なのはたまたま維新が成功して、
政府要人の正妻や妾となり、明治・大正の頃までそれらの芸妓が生き残っていて、講談などにおもしろおかしく採られたからだろう。負けた側の記録はその反対にほとんど残らないだけのことだろう。長州以外の連中も祇園で遊んでいたに違いないし、長州だけが贔屓にされていたはずもないのではないか。

勤王芸者
近代デジタルライブラリーで読める。このjpeg2000のデジタル文書だが、1920×1200のモニターで、ブラウザ全画面表示で拡大率50%で読むとそこそこ読める、しかしもっと楽な読み方がありそうなもんだ。

侍に勤王佐幕あれば芸妓にもその客種によって勤王佐幕あったもので、長州の侍に馴染があれば、長州だけで座敷が忙しく、薩藩ならば薩藩の座敷だけで良い加減に忙しいものであったから、自然客贔屓により、勤王党の芸妓と幕府方の芸妓が出来ていました。

まあ普通はそうだろう。佐幕派では徳川一橋、会津などが綺麗に遊んでいたという。

長州の縄手魚品、薩摩は末吉町の丸住、土州が富永町の鶴屋、新撰組は祇園の一力、

などが馴染みの店、つまり「お宿坊」であったという。


追記。勤王佐幕という言い方は変だ。これは勤王かさもなくば佐幕、と言いたいのだろうが、実際には、佐幕派のほぼ全員が勤王であったはずだ。このあたりからして司馬遼太郎がものすごい偏見を持っていることがわかる。

宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。

ドナルド・キーン3

ドナルド・キーンの「足利義政」を読んだ。ハードカバーだが、文章量はさほどない。それをさくっと読んだ感想だが、やはり、この人自身が、義政の東山文化にしか興味がなく、というか東山文化に興味をもったために義政に行き付き、その施政に疑問を持ち、いろいろ調べてみたが、西洋的な為政者のイメージとあまりに違っていてわけわからん、というのが結論らしい。

思うにドナルド・キーンは明治天皇を褒めすぎで義政をけなしすぎ。確かに明治天皇は偉大な人で、外国人から見ても日本人から見ても驚嘆すべき存在なのだが、ここまで褒めるのは何か偶像視しているようで違和感がある。明治天皇は偶像ではない。実在した生身の君主だ。逆に義政も悪政者の偶像ではない。

たぶん、ドナルド・キーンという人は、明治天皇と義政以外の日本の為政者は描けない人なのだろう。事実、彼は義教を義政の父として紹介しているのだが、実に平板な、恐怖政治を敷いたために暗殺された人、みたいな描写になっている。なんとも観察が浅すぎる。そんな文章なら大学生のレポートでも書くだろう。極端な例をさらに誇張して書くことしかできないのであれば、日本の歴史に現れたさまざまな功労者たちをどうやって顕彰できようか。日本史全体の流れをどうやってとらえられようか。そういうつまみ食い、文脈を無視した切り出しは許せない。

日本外史は、そうはなってない。将門・純友の乱から始まり、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、源平合戦、承久の乱、建武の新政、南北朝の争乱、と読んでいくうちに、頼山陽が主張したいテーマというものが一本につながってわかってくる。なぜ天皇は失政を繰り返したのか。なぜ武家政権が起こったのか。なぜ武士らが皇位の継承や領国支配に干渉せねばならなかったか。もちろん個々人の活躍もあるのだが、日本外史が主張したいのはその日本史のコンテクストというものだ。しかしつまみ食い派の司馬遼太郎やドナルド・キーンにはその観点はない。そしておそらく、今の日本史教育にもそれはない。

なるほど、キリスト教やイスラム教では貧民に施しをする喜捨の習慣がある。美徳と言ってもよいかもしれん。しかし、内村鑑三も言うように、彼もキリスト教徒だが、一万円の金を一万人に一円ずつ配るよりは、その一万円の金で新しい事業を興した方が世の中のためにはなるだろう。その一万円が雇用を生み産業を生んだら何百万円の価値に増えるからだ。目の前の貧民に施しをしなかったから悪人であるというのはあまりにも短絡的ではないか。

内村鑑三の意見はエントロピー的にも正しい。一円の金を集めて一万円にするにはたいへんなエネルギーが要る。或いは、金儲けという才能、或いは運が要る。しかし一万円を一円ずつばらまくのは極めて簡単だ。労力は要らない。運も要らない。そしてばらまいたものは二度と戻っては来ない。仮にその一万円の投資が失敗しても、誰かにその金は渡っているのだから、世の中全体として無駄になったわけではない。

私なら知人で困っている人(かつ好意を持っている人)には何らかの援助をすることもあるかもしれんが、マスコミやら慈善団体を通じて寄付や募金をするということはしないと思う。自分のお金がどう使われるか、どんな人間に渡るのかコントロールできないのだから。

司馬遼太郎にしても、海軍を褒めすぎて陸軍をけなしすぎ。実際には海軍にもいろんな暗部恥部があったに違いない。陸軍とそれほど大した違いはないはず。なるほど東郷平八郎は偉大な提督だったかもしれんし、乃木希典には致命的な欠点があったかもしれんが、トータルで見たときに、組織として、陸軍と海軍のどちらかが悪でどちらかが善、という描写をするのは極めて危険だと思う。もし彼が単なる娯楽小説として書いているならばともかく、第二次世界大戦の敗北の遠因を分析しているつもりだとすれば、明らかに間違っていると言えよう。それは、幕末や戦前の危険思想家とどれほどの違いがあろうか。

ドナルド・キーン2

続き。ドナルド・キーンは

宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。ここで、いくつか認識に誤りがある。まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。また、日記にはほとんど漢文調のものもある。享和元年日記など。「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、不自然なものに思えるだけではなかろうか。心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。ただそれだけだと思う。