詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

詠歌一体

朦朧趣味を読み返してみると、やはり為家という人は、父定家には似ず、むしろ祖父の俊成に似て、素直なわかりやすい歌を詠む人であったように思う。丸谷才一は定家が好きで為家が嫌いなのだ。だからたぶん俊成もそんなに好きではなかろう。為氏は定家に輪をかけて幽玄チックな人だったらしい。どうも父より祖父が好きになるタイプらしいね、この家系は。だから趣味が代ごとに振動している。為氏の子・為世までくるとかなりもうへろへろになってる感じがする。

為家の歌論に「詠歌一体」というのがある。

和歌を詠むこと必ず才能によらず、ただ心より起これることと申したれど、稽古無くては上手のおぼえ取りがたし。おのづから秀逸を詠み出だしたれど、のちに比興のことなどしつれば、さきの高名もけがれて、いかなる人にあつらへたるやらんと誹謗せらるなり。

俊成・定家・為家・為氏という四代の歌風の変動を見るとき、上の主張はかなり意味深である。「比興」とは「他のものにたとえて面白く言うこと」とあり、つまりは、実景を詠まずに、作り事でおもしろおかしい歌を詠むこと、という意味であろう。まさに父定家や子の為氏はそういう歌を詠むのである。為家はゆえに祖父俊成のような素直な歌を詠みたいと言っているのではないか。しかしただ素直な歌を詠んでいても「上手のおぼえ取りがたし」つまり他人に評価されにくいから、稽古は必要だと。しかしあまり(定家や為氏のように)稽古しすぎると奇をてらいすぎていかんよと。

例に挙げている歌がまた興味深い。

紅葉浮水
藤原資宗
筏士よ 待てこととはむ みなかみは いかばかり吹く 山のあらしぞ

新古今に載る。ここで紅葉とは嵯峨野のことである。

月照水
源経信
住む人も あるかなきかの 宿ならし 蘆間の月の 漏るにまかせて

これも新古今に載る。この二つは題詠の心得のために例示したものであり、前者は題を読まないと何の意味かつかみかねる(おそらく上流で花か紅葉が散っているのであろうと予測されるが春なのか秋なのかはわからない)のだが、題をそのまま歌に詠むのはよろしくないと。後者は「月」は歌に出るが「水」はただ連想させているだけとなる。題に水とあるから蘆間からは月の光だけでなく、露も漏れているのだろう、ということになろうか。

其の所の当座の会などには、只今の景気ありさまを詠むべし。
たとひ秀歌なれども、儀たがひぬれば正体なきなり。

正論である。わざわざそれを言っているのは、正直に詠まず、作って飾って詠む輩が多いからだろう。

雪降れば 峰の真榊 うづもれて 月に磨ける 天の香具山

祖父俊成の歌だ。褒めている。確かにすばらしい。

見渡せば 波のしがらみ かけてけり 卯の花咲ける 玉川の里

相模。まあこれも実景の歌だわな。恋の歌は

しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものやおもふと 人のとふまで
うらみわび 今はまだしの 身なれども 思ひなれにし 夕暮れの空

が良いらしい。前者は有名だが後者は無名の歌だわな。今はまだ思いが通じていない恋だが、うらみわびて眺めるのに馴れた夕暮れの空、という意味だわな。確かに面白い。

日も暮れぬ 人もかへりぬ 山里は 峰のあらしの 音ばかりして

源俊頼。なるほど確かに良い歌だ。実に単純明快。ま、いずれにせよ、俊頼や俊成、家隆などは褒めているが、定家の歌が良いとはどこにも書いてない。これは愉快だ。暗に父の歌風を批判しているようにも見える。

敷島の道2

敷島の道の続き。

定家の「拾遺愚草」を拾い読みしてたら、飛鳥井雅経が自分の子・教雅の歩き初めに

あとならへ 思ふおもひも とほりつつ 君にかひある 敷島の道

定家かへし

敷島の 道しるき身に ならひおきつ 末とほるべき あとにまかせて

意味は分かりにくいのだが、雅経が教雅の歌の指南を定家に頼み、そのお礼に書道の手本を贈った、それに対して定家は雅経にならって教雅に歌を教えましょうと言った、ということらしい。

歌の配置からみると、定家の子・為家が元服した後の話らしいから、とっくに鎌倉時代に入っているが、承久の乱よりは前だろう。

どうも雰囲気としては「敷島の道」というのは「歌道」というよりも、も少し広く漢学や仏教に対する、日本固有のことについての知識や学問や芸能、つまり国学という意味で使われているような気がする。まあ、国学の中心は、当時としては和歌だったわけだが、神話とか神祇とか祝詞とか、歌物語など国文学全般、仮名文字の書き方、大和心の使い方のようなものまでを包含していたかもしれん。

とか思いつつ広辞苑を調べるとどうやら初出は千載集の序らしい。つまり定家の父俊成だわな。よく調べましょう自分。和歌に出た最初の例はしかし上に挙げた飛鳥井雅経と藤原定家の贈答歌かもしれん。

春の花の朝、秋の月の夕、思ひを述べ心を動かさずといふことなし。ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉を争ふ。敷島の道も盛りに興りて、心の泉いにしへよりも深く、言葉の林、昔よりも繁し。

うーん。やはり「もろこし」に対する「大和」であり、漢学に対する国学、という意味に使われている可能性は否定できないよね?文脈的には「大和もろこしの歌言葉を争ひ」とは和漢朗詠集や新選万葉集のように漢詩と和歌を並列にあつかったようなものだよね。俊成・定家・雅経には共通認識があったかもしれんが、ちゃんと説明してもらわんとわからんよね。つまり、俊成が作った言葉というより、もともと和歌に限定されない「敷島の道」の用法があって、それを俊成が和歌集の序に使ったかもしれんわけで。

蜀山人2

蜀山家集 全。狂歌のみをだいたい見繕ったもののようだ。これは便利。

弥生十二日舟にて隅田川にまかりけるに花いまだ咲かず
隅田川 さくらもまだき 咲かなくに 浮きたる心 花とこそ見れ

これはまともな歌。

春の日、芝のほとりにて
春の日も ややたけしばの 浜づたひ 磯山ざくら 見つつ飽かぬかも

これも良い歌。ていうか、一番良い出来ではないか。竹芝海岸の「たけ」を春が長けるの「たけ」にかけていて、「浜づたひ磯山ざくら」がうまく効いていて、最後は万葉調にしめている。やればできるじゃん、大田南畝君。まあ秋成の友人だけはある。こういう歌を江戸時代に蜀山人あたりが詠んでいるというのが、やはり近世の和歌もあなどれんよなあ。

磯山ざくらとは磯に咲く山桜のことだろうか。続後拾遺集に

心なき あまの苫屋も にほふまで いそやまざくら 浦風ぞ吹く

これはまあまあ良い歌。作者はネットで検索しただけだとわからん。国歌大観で調べんとな。

竹芝は当時どんな浜辺であったか。砂浜だったか。砂利か泥か、或いは磯か。今となってはまったく想像がつかない。

浜庇山といへる茶屋にて
しばしとて やすらふ芝の浜庇 ひさしくみれど 飽かぬ海づら
年の暮れに
衣食住 餅酒油 炭たたき なに不足なき 年の暮れかな

杏園詩集はところどころ面白いがうまく意味の通らない(解釈に自信のない)ところが多すぎる。たとえば隅田川を詠んだ詩で「南連両総北三叉」というのがある。両総は下総国と上総国だが、北の三叉とは何か。常陸、下野、上野であろうが、確証が持てない。

狂歌は「蜀山百首」と「千とせの門」が良い。あとはあまりできがよいとは思えない。「狂歌百人一首」は大嫌いだ。ただのパロディでつまらん、が、世間では一番知られているようだ。「めでた夷歌百首」も似たようなもの。「巴人集」「巴人集拾遺」は詠草にあたるか。数は多いが良いものは少ない。

蜀山人

蜀山人全集を読み始めたのだが、全五巻あり、そのどこかに狂歌がまとめて載っているわけでもない。連歌もあれば漢詩もある。当然のことではあるが和歌について論じている文もある。

杏園詩集の巻頭

日出扶桑海気重
青天白雪秀芙蓉
誰知五嶽三山外
別有東方不二峰

要するに日本は海に浮かぶ良い国だ、中国人は三山五嶽より外の世界は知らないだろうが、東方の日本には富士山がある、というような意味。「三山五嶽」は中国の名山で、蓬萊・瀛洲・方丈の三山と、泰山・衡山・華山・恆山・和嵩山の五嶽であるという。「五嶽三山」としたのは平仄あわせのためであろう。

押韻平仄ともにきちんとしている。こういう詩を作るからにはまじめな人だと思う。まあ普通の御家人だわな。旗本ではない。武家で役人だから、当たり前といえば当たり前なように漢文が多い。

「めでた百首夷歌」というのがある。蜀山人も「狂歌」とは言わず「夷歌」と言っているところが興味深い。ただし「狂歌百人一首」とか「狂詩」などと言っているものもある。「夷歌」はもとは「あづまうた」と訓んだのではなかろうか。

鎌倉の 海より出でし 初がつお みな武蔵野の はらにこそ入れ

蜀山百首の中の一つ。

武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

を思わせる。「武蔵野の原」という慣用句もある。「原」に月が入るのと、「腹」に鰹が入るのをかけているわけだ。かなりひねった歌だ。

世の中は 我より先に 用のある 人のあしあと 橋の上の霜
今さらに 何を惜しまん 神武より 二千年来 暮れてゆく年

同じく蜀山百首。

あなうなぎ いづくの山の いもとせを さかれてのちに 身をこがすとは
世の中に たえて女の なかりせば 男の心 のどけからまし

うーん。

富士のねの 表は駿河 裏は甲斐 前は北面 のちは西行

西行が出家する前は北面の武士だったことを知らないとわからないしゃれだわな。

いたづらに すぐる月日も おもしろし 花見てばかり 暮らされぬ世は
寝て待てど 暮らせどさらに 何事も なきこそ人の 果報なりけれ
世の中は いつも月夜に 米の飯 さてまた申し 金のほしさよ

これは「それにつけても金のほしさよ」の原型だろうか。

呉竹の 世の人なみに 松立てて やぶれ障子を はるはきにけり
世の中は なにか常なる 飛鳥山 きのふの花は けふさくらん坊
遠乗りの 馬二三匹 隅田川 疲れたりとも 花につなぐな
黒髪も いつか素麺 としどしに 七夕のうた 詠むとせしまに

普通の和歌もあるはずだと探してみるが、

隅田川 堤の桜 咲く頃は 花の白波 寄せぬ日ぞなき

普通だ。うっかり普通の和歌を詠んだという感じ。

あらたまの としのはじめの 初声は 春駒よりも ましらふの鷹

ましらふは「真白斑」。

鳥が鳴く 東の日枝の 山桜 咲くやゆたかに にほふ春の日

「鳥が鳴く」は「東」の枕詞なのでしゃれではない。「東の日枝」とは要するに上野の東照宮のこと。さすがに江戸っ子の幕臣、家康をネタに狂歌は詠めなかったようだ。

たらちねの 手織りの羽織 常に着て 綿よりあつき 恵みをぞ思ふ

「ある人母の手織りの羽織の裏に歌を請う」とある。これまたふざけるわけにはいかない。

この春は 八重に一重を こきまぜて いやが上野の 花ざかりかな

どうして一ひねりしたがるのかなこの人は。普通に詠めば良さそうなものだ。この歌も、

この春は 八重に一重を こきまぜて 上野の山の 花ざかりかな

とかすれば普通に和歌になる。「こきまぜて」は歌語である。ただの口語ではない。ただ上のようにするとあまりにも普通である。つまらなく陳腐である。蜀山人も自覚していただろう、自分がまじめな歌を詠むと陳腐なありきたりの歌になってしまうことを。だからついオチをつけてしまいたがるのではなかったか。もともと狂歌を詠むのは得意だったからいつの間にかそちら専門ということになった。もとはまじめな人なのだ、おそらくは。ものすごく勉強した人だから、つい昔の歌をもじってしまう。しかし自分のオリジナルの歌がなかなか詠めない焦り。おそらく私生活もごく平凡な人だっただろう。波瀾万丈からは遠い、江戸後期のいたって平和な江戸市中の暮らし。漢詩や漢文だとまじめくさっていても別に変じゃないが、古文であろうとも日本語でまじめなこと言うと照れくさい。ついふざけたくなる。親父ギャグ言いたくなる気分。そういう気持ちだろうと思うが。

たれをかも 仲人にせん 高砂の 松もむかしの 茶飲みともだち
豆腐売る 声なかりせば 朝顔の 花のさかりは 白川夜船

狂雲集

一生受用米銭吟
恥辱無知攪万金
勇色美尼惧混雑
陽春白雪亦哇音

狂雲真是大灯孫
鬼窟黒山何称尊
憶昔簫歌雲雨夕
風流年少倒金樽

まだ良く調べてないのだが、一休の漢詩集。wikiによればこの中に

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

という和歌があってこれのみが、一休の真作と認められているらしい。

まあ、和歌はともかくとして漢詩の方はどうやらかなりきっちり作られた七言絶句で、韻を律儀に踏んでるし、平仄もまともである。かなりの使い手と言っていい。内容がかなり破戒的だから韻律的には完璧を期したか。

ググってみた感じでは、流通している本が書き下しのものばかりのようで、群書類従にオリジナルがあるそうだから今度見てみなくては。群書類従は大きな図書館にはたいていあるから助かるわな。日本外史も書き下ししか出回ってないが、それはそれとして、漢詩は白文がないとどうにもならんわな。

古今夷曲集

一休の和歌は「古今夷曲集」などにかなりの数採られているのだが、真作なのか。これに採られている西行、慈円、道元、沢庵の和歌というのも同様だ。中には松永貞徳や木下長嘯子のような普通に有名な歌人も混ざっている。鎌倉時代の西行や道元や慈円、室町時代の一休の真偽はあやしいとして、貞徳、長嘯子、沢庵は同世代の人だから真作かもしれん。うーん、油断がならん。

「古今夷曲集」は生白庵行風という僧が編んだ日本初の狂歌集だということで、それはそれなりに貴重なものだ。行風は後水尾天皇とだいたい同世代、江戸初期の人。「後撰夷曲集」「銀葉夷歌集」などの歌集も選んだようだ。

和歌は情淳にして風情をかざり、夷歌は俗語をもきらはず、心ただしく理にかなふをもはらとせり

なかなか良いことを言っている。もともとは狂歌とは言わず、夷歌と言ってたというところが興味深い。一休の号が狂雲であるので、もしかするとその影響で狂歌と呼ばれるようになった可能性もあるわな。

少なくとも行風自身の名がついている歌は真作だと考えてよかろう。貞徳の歌が割と多いのは直接の知り合いだったからかもしれん。

一休

餅つかず しめかざりせず 松たてず かかる家にも 正月は来つ

うーん。どうなのかこれは。

行風

ともすれば 花の顔さへ 打ちちらす 風の手ぐせを 直してしがな

これは、たしかに狂歌ではあるが、ぎりぎり和歌と言えなくもない。できも悪くない。

行風

野にたてる 夜風ひきてや 撫子の はなたれたりと 見ゆる朝露

これも斬新で良い。風邪引いてはなを垂れるとかけているわけだ。

長嘯子

人ごとに 腰折れ歌を 詠みおきて あたら桜を 杖にこそつけ

ひどい歌だな。

海老の絵に詠める
沢庵
いかばかり えびを取り食ふ 報いあらば つひには老いの 腰やかがまん

宗祇

ものごとに たらぬたらぬと 思ふこそ まよふ心の 作りやまひよ

本物なのか。ばかばかしいな。

布袋絵の賛に
沢庵
この袋 あけてみたれば 何もなし 何もないこそ 何もありけれ

法然

口にある 南無阿弥陀仏の 味はひを 自力の人は 食ひ知らぬなり

法然

ありがたや 障りのおほき 女人をば 弥陀ひとりこそ たすけましませ

本物なのか。

弘法大師

今ははや 後世の勤めも せざりけり 阿吽の二字の あるにまかせて

良く出来た偽物だな。

一休

作りおく 罪の須弥ほど あるなれば 閻魔の帳に 付けどころなし

一休

嘘をつき 地獄に落つる ものならば 無き事作る 釈迦いかがせん

一休

すぐなるも ゆがめる川も 川は川 仏も下駄も 同じ木の切れ

一休

たぞにたぞ たぞたぞにたぞ たぞにたぞ たぞにたぞとて 何もなきかな

おまえは誰だといろんな人に問い詰めた結果何もなかったということか。

うーん。釈教歌がやたらと多いな。ありがたく使わせてもらうか。

赤染衛門

赤染衛門集を一通り読んだ。実に不思議な歌を詠む人だ。普通、歌とは、花鳥風月や春夏秋冬、恋や別れなどの、浮き世離れしたことを詠むものである。ある意味やんごとなき、高尚なものであるという認識がある。西行も「花鳥風月に感じて三十一文字をなす」というような言い方をしている。紀貫之が屏風歌職人であったように、古今集の時代から歌は「文芸」であると考えられていた。当たり前のようだが、当たり前ではない。万葉時代には歌は芸能、芸事というよりは、娯楽とか、余興に近かったはずだ。今で言えば歌謡曲に近い。江戸時代の都々逸には近いだろう。狂歌と言ってしまうとまた違う。ある意味漫才や落語にも近かったと思う。

彼女の時代、歌と話し言葉にはほとんど違いが無い。

赤染衛門が「発掘」されたのは後拾遺集であるが、彼女の時代はそれより少し前の、藤原道長や紫式部の時代である。この時代までは、こういう素朴で野卑な歌を詠む人はざらにいたのだろう。しかし身分が低すぎて、自分で歌集を遺したりしない。そういう歌をわざわざ蒐集する人もいない。だけど、赤染衛門は大江匡衡の妻だったから歌を記録してもらえた。さらに後拾遺集の選者は変わり者だったから、和泉式部や相模などの、普通の勅撰集の選者ならば選ばないような歌を選んだ。或いは白河天皇がそういう趣味の人だったかもしれない。祇園女御と出会う前からそういう人だったのかもしれない。いくつかの偶然が重なって赤染衛門の歌は奇跡的に後世に残った。

やまとごころにも書いたが、後拾遺集

乳母せんとて、まうで来たりける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける
大江匡衡
はかなくも 思ひけるかな ちもなくて 博士の家の 乳母せむとは
かへし
赤染衛門
さもあらばあれ 大和心し かしこくば ほそぢにつけて あらすばかりぞ

有名な話である。匡衡は学者である。博士である。一方赤染衛門はおそらく浪速の肝っ玉おばちゃんみたいな、地頭(じあたま、ね)はすごいが、教養はもともとない人だっただろう。だから上のようなやりとりが生まれた。漫才のようなものだ。現代人がそのニュアンスを感じとることは絶望的に不可能だろう。つまり、当時の雅語は現代人でもある程度理解できる。しかし当時の自然な話しぶり語り口で赤染衛門のような歌を詠むのは、現代人にとっては自然どころではない。超絶技巧である。後世、歌語が口語から遊離してしまうと、歌語は人々にもはや教養としてしか理解できなくなってしまう。教養であるから技巧によって、理屈によって歌を詠むことになる。理屈抜きで自然に歌を詠むなんてことはできない。それは技巧ではない。超技巧である。理屈が理屈でなくなるまで技巧をこらし技巧を極めて初めて到達できる、天衣無縫の境地。

「やまとごころ」という言葉が大鏡や源氏物語に出てくるように、そして赤染衛門以外の人がほとんど歌に使ってないように、「やまとごころ」は雅語ではない。たぶん庶民が使う話し言葉だった。学問をして身に付ける漢才とか、花鳥風月をもてあそぶ雅びな教養とは違う。それこそ「浪速の肝っ玉」それが「やまとごころ」だったはずだ。

江戸後期になると小沢蘆庵が「ただごと歌」というのを始める。良寛もそれに近い歌を詠む。小沢蘆庵に影響を受けた香川景樹も、地下らしい素朴だが力強い歌を詠む。庶民が歌を詠み始めた証拠であろう。庶民の歌が復活するまでに、赤染衛門から七百年もかかったのだ。

赤染衛門が珍しいのではない。現代人にはそう見えるだけなのだ。彼女の時代には彼女のような庶民の歌の方が圧倒的に多かった。しかし後世に遺されたのは一部の貴族が詠んだ歌だったのだ。

踏めば惜し 踏まではゆかむ 方もなし 心づくしの 山桜かな

千載集に載った、ぎょっとするほど美しい歌だが、勅撰集には何千という赤染衛門の歌の中でもこういう特に歌らしい歌しか採られていない。つまり、浪速のおばちゃんがごくまれにがらにもなく上品な言葉をぽろっと言ったりする。それをわざわざ拾い上げて勅撰集に入れた。俊成はもちろんわかった上でそうした。しかし俊成より後の人はもうわからない。在野の、庶民的な歌人はまもなく絶滅してしまうからだ(俊成や西行は赤染衛門にかなり近いタイプの歌人だったと思う。感覚的直感的に歌を詠む人、ただし洗練された教養を身に付けているが)。赤染衛門というのは、とても雅びな女流歌人のように思ってしまう。たぶんそれは赤染衛門の実態ではない。

やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

後拾遺集に採られ、百人一首にも採られたこの有名な歌。風流きわまりない。しかしそれは赤染衛門の実像ではない。なんという大誤解!真淵は「やまとごころ」という言葉を国学的に読みかえた。近世や現代の人はこれほど古代や中世のことがわからんのだ。

恋の歌をみると良くわかるとおもうのだが、彼女の場合剽軽な詠み口に味があるので、よくよくみると深みがない。ひねりがない、とも言える。

この世より 後の世までと 契りつる 契りは先の 世にもしてけり

この歌など、ただの頓知だ。ぞんざいに言い放っている。歌という感じがあまりしない。と、考えると他の、百人一首の歌なども同じような調子に思えてしまうのだ。和泉式部の

あかざりし 君を忘れむ ものなれや ありなれ川の 石は尽くとも

あるいは実朝の

かもめゐる 荒磯の州崎 潮満ちて 隠ろひゆけば まさる我が恋

のような気の利いた比喩や暗喩表現は、赤染衛門には見られない。情景描写も見事だが、ただ見たままをうまく歌ったとも言える。和泉式部もあんまりもって回った表現はしないが、赤染衛門に比べれば多少の技巧はある。

都にて あひ見ざりしを つらしとは とほき別れの 後ぞ知りける
忘れじと かたみに言ひし 言の葉を たがそら言に なして良からむ
つらしとも 思はぬ人や 忘るらむ 忘れぬ我は なほつらきかな
忘れなば 我も忘るる わざもがな 我が心さへ つらくもあるかな
起きて伏し 伏しては起きぞ 明かしつる あはれやすぐや 人は寝つらむ
飛鳥川 淵こそ瀬には なると聞け こひさへふなに なりにけるかな

飛鳥川は淵が瀬になるほど流れが激しくて変わりやすいが、ならば鯉(恋)も鮒になるだろうと。 単なるだじゃれである。

我が歎く 心のうちを 記しても 見すべき人の なきぞかなしき

とりよろふ

「とりよろふ」は万葉集に「大和には群山あれどとりよろふ天の香具山」という形でしかでてこない。岩波古語辞典はあっさり「不詳。気持ちや生活のよりどころとする意か」とある。「とりより」から派生したのは明らかであり、こちらは用例が多い。原義は「手づるをつかんで近くに添うこと」、らしい。「うつり」に反復・継続の接尾語「ひ」がついて「うつろひ」となるように、「とりより」に「ひ」がついて「とりよろひ」。

そうしてみると、大和にはいろんな山があるが、それらの山々がとりよろふ天の香具山、つまり、大和の山々の中でも、中心的な位置、存在、代表であるところの天の香具山、となるだろうか。天の香具山自体は、高くもなく、平凡な山であるが、その名の通りに何か特別な意味を持つ山である、ということだろう。

忘れ草 忘れな草と とりよろふ 野の八千草に まどひぬるかな

はて、これは誰の歌であったか。あれ? わからんぞ。あ、わかった。やはり自分で詠んだのだ。

とりよろふ 天の香具山 よろづよに 見るとも飽かめや 天の香具山

宣長の歌だが、単なる枕詞のように使ってあるな。

日の本や こまもろこしと とりよろふ よろづの酒を 飲みてしやまむ

これは私の歌なのだが。こんな使い方していいのだろうか。

うーん。不適切な気がしてきた。

真白嶺と芝山

最近また和歌を詠もうと思いリハビリしてる。

しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の真しらね

しもふさと むさしを分くる すみだ川 かへり見すれば 富士の芝山

のどちらがよいか悩んでいる。「真しらね」は「真白嶺」だが、どうも不思議と用例が少ない。秋成の歌に

箱根路の 雪踏み分けて 真しらねの ふじの高嶺を 空にみるかな

というのがあるが「富士の真白嶺」とやった人はまだいないらしい。かたや、「富士の芝山」というのは万葉集に出て、便利とみえて、その後もいろんな人が使っている。加藤千蔭

あづま路に まづくる春の 日の影を 雪に待ちとる 富士の芝山
うらうらと 富士の芝山 霞む日に 田子の浦舟 ゆたに漕ぐみゆ

明治天皇の歌にも

あづまにと いそぐ船路の 波の上に うれしく見ゆる ふじの芝山

とあり、昭憲皇太后の歌にもあったはず。どっちがいいかね。