新類題和歌集2

角川の新編国歌大観の新類題和歌集をだらだらと読んでいたのだが、 後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父) などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、 通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、 勅撰集には当たらないとされているのだが、 私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。 21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。 後水尾院の歌は確かに良い。

梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。 しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。 皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。 武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、 幸仁親王がただ幸仁、 太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。 普通勅撰集には官職名を添えるものだ。 藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、 藤原定家が権中納言定家となるようなもので、 中には官職しか書かれない場合もある。 実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。 親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。 霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。 そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。 和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、 どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、 近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。 windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。 なんとかしてもらわないと困るのだが。

和歌とプロパガンダ

伊東静雄の詩を読むと、 当時の日本人の昂揚と、そこから突き落とされた絶望が刻まれていてつらい。 伊東静雄は戦前はドイツ語訳風な漢語調の硬派な詩を作った。 しかし戦中は大和言葉で詩を作った。 戦後、ふつうの話し言葉で詩を書くようになった。

伊東静雄もまた国粋主義に振り回された一人だった。

国威高揚のための国粋主義は極めて危険だ。 大和言葉もファナティックな思想の道具とみなされてしまった。 非常に不幸なことだ。 上田秋成も本居宣長も大和言葉や和歌がプロパガンダに使われるとは思ってもいなかっただろう。

私の祖父も戦中に大和言葉で和歌を詠んだ。 伊東静雄とまったく同じだと思った。 戦争だから和歌を詠むというのはあまりにも悲しい。 戦後和歌が忌避され、醜悪な現代短歌が生まれたのは、和歌をプロパガンダに使ったせいだ。

ツイッターでわざと歴史的仮名遣いを用いたり、 天皇は万世一系でうんぬんと賛美したりするのを見るのはつらい。 我々は一度挫折と失敗を経験したのだからそこから学び、その経験を活かすべきではないのか?

和歌の詠み方

和歌の詠み方に関するメモ というものを読んだ。 なるほど確かによくまとめてある。 だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。 頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。 これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。 実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、 知っておくべき歌論というのにすぎない。 歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。 現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。 まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。 その選択をしなくてはならない。 現代短歌にも良いものはある。 たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。 私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。 現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、 アララギ派(万葉調)が好きなのか、 それとも桂園派(古今調)が好きなのか、 どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。 古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。 五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。 それは必要条件に過ぎない。 古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。 敷島の道である。 和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。 国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。 国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である (左翼は国学が嫌いだ)。 国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、 そのどちらもよくない。 古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。 古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。 韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。 用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。 言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。 奈良調以前の言語ではそれが難しい。 あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。 この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。 そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。 奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、 文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。

奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。新しい言葉を造ることは凡人には無理である。なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、 なんでもかんでも「り」を使うのではなく、 状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、 それが平安朝の大和言葉というものだ。 平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。 俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、 用言の組み合わせに無頓着だからだ。
正岡子規もそこがよくわかってない。 なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。 もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。 外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。 しかし普通は使わない。 純血主義というのとも少し違う。 平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。 春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。 情と詞と体に書いた通りなので繰り返さないが、 今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、 と私は思う。 古い心を古い言葉で歌ったり、 新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。 たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。 赤染衛門の歌が非常に役に立つ。 当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、 彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。 ただの偶然だろう。 浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。 少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。 参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。 あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。 そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。 それが風体というものだ。 ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。 そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。 まず何かに心が動かねばならない。 つまりは写生だ。 実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、 限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。 外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、 新しい可能性がある。 心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。 それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、 みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。 すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。 このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。 だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。 上田秋成などは実に巧みだった。 要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、 ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。 本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、 まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。 美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。 そんなものはすぐにばれる。 感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。 美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、 定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に

みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。「反る」は「せる」。安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。 このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。 将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。 光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、 実景を詠む人はいなくなってしまった。 いたとしても頼朝くらいだが、 頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。 佐藤は藤原氏である。 関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、 秀郷は下野の人である。 下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、 白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、 と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。 それとも何かの仕事か。 二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。 しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、 頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。 頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。 結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、 頼朝はよく彼を通したと思う。 西行は明らかに頼朝の敵である。 西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

美知乃久能みちのくの 安太多良末由美あだたらまゆみ 波自伎於伎弖はじきおきて 西良思馬伎那婆せらしめきなば 都良波可馬可毛つらはかめかも

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、 あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。 安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。 「めかも」は反実仮想だわな。

情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。 風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。
割註があり、

求人之未詠之心詠之 (人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む)
詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。 ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

不論古今遠近、見宣歌可效其体 (古い新しい、遠い近いをあげつらわず、良い歌を見て、その体に倣うべし)

情と詞の関係はつまり古今集仮名序 「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」 と同じである。 真名序の 「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」 とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に 「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。 油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、 今では古典的な画材である。 だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。 アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。 新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、 古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。 まあそれはそれでいい。 新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。 しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。 今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、 和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、 広学多聞を事とすべきにもあらず。 ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。 また、

いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、 よまぬ上はただ知らず。 よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、 これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。 でまあ為世は割とまともな人だなと思った。 むしろ為兼の歌論はひどい。 歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、 歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、 「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。 「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、 ただ「体」とも言うのだが、 これがよくわからない。 古今集真名書にも出てくる。

華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

文琳巧詠物。然其近俗。如賈人之着鮮衣。

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。 いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而甚鄙。如田夫之息花前也。
大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。 あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、 景樹がそれに反論を試みたものである。 四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。 古今集をまねてはいけない。 実朝のような歌を詠め、などと言っている。 正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。 子規がまねたわけだが。 景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。 その理由がつらつら書いてあり面白い。 適当に意訳すると、

人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。 その古人の偽りなきにならうのである。 ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、 古人のように真心を歌ったのではない。 後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、 ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。 卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。 漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、 ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、 万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、 それを言うのだろう。 実際実朝の歌をまねしてはならない。 ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。 景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。 歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、 まず正岡子規に叩かれ、 それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、すっかり悪者になってしまった。 それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、景樹の言うことはまったくもって正しい。 実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、 実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、 そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、 そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、 まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。 それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、 そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。 これまた面白いので引用しておく。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。知らんな。昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

苔よりも雪の花咲け塚の上
五月雨やある夜ひそかに松の月
つちくれにうごく物みな蛙かな
世の中は三日見ぬ間に桜かな
かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。 都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。 江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、ただ古き世にのみかへらんとす。そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、 ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。 「短歌」という呼び名は間違っていないが、 「和歌」を短歌というようになって、 「やまとうた」というニュアンスが失われた。 大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、 五七五で季語を入れれば俳句、 季語が入ってなければ川柳、 五七五七七と少し長くすれば短歌、 そんなふうな位置づけになってしまっている。 単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。 「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、 形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。 「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、 私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。 ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、 今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。 和歌には和歌のけじめがあると言っている。 「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。 同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、 蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。 真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。 古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。 私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。 和歌にはすでに定型詩という制約がある。 そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。 定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。 時代考証ができなくて歴史物など書けない。 それと同じではないか。

思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。 それが普通の人にはなかなかできぬ。 景樹の言いたいことを代弁してみると、 中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。 ラテン語が共通語であった。 日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、 古今集や源氏物語がその規範であった。 景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、 大和歌だったのだと思う。 景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。 平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。 完全な和語である。 きちんと使い分けている。 古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、 歌を詠むことができる。 そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。 しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。 俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。 ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。 それが良くない、と私は言いたい。 それはルール違反だ。 短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。 和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、 伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。 ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。 新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。 ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。 なじみ深いから新語は造りにくい。 だがそこはなんとかしなくてはならない。 香川景樹や上田秋成をみよ。 宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。 みんな感覚で批判しているだけだ。

鉢木

鉢木という謡曲がある。

のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。 世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。 このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた

ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。 夫を見送る女の歌であるという。 夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。 という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。 おほいまうちぎみとは、時平のことか。 明らかにひるめの歌から派生している。 というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成

こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範

道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、 自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家

駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。 俺がいない間に浮気するなよ、と。 俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、 為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、 そのかげさえ無い、という意味かもしれん。 いや、それが案外正解かもしれん。 「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。 新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。 おそらくは俊成の歌を踏まえて、 佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、 そんな景色すらない、 ということを言いたかったのではなかろうか。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

漫吟集

契沖の「漫吟集」なんだが、これ読むのはかなり骨が折れる。たまに秀歌が混じるが他は凡作としかいいようがない。数が多くてきちんと分類されているから、読んでいるとだれる。全体的に退屈と言われても仕方ないと思う。

菅の根に 雪は降りつつ 消ぬがうへに 冬をしのぎて 春は来にけり

悪くない。「菅の根の」が「長き」にかかる枕詞だと知っていればすんなりわかる。古今集の

奥山の 菅の根しのぎ 降る雪の 消ぬとかいはむ 恋の繁きに

の本歌取りだわな。

うぐひすも 鳴かぬかぎりの 年のうちに たが許してか 春は来ぬらむ

これもまあ、悪くない。「たが許してか」が珍しい。

宿ごとに いとなみたてし 門松の まつにかならず 春は来にけり

どうやらこれも本歌取りらしい。藤原顕季

門松を いとなみたてる そのほどに 春あけがたに 夜やなりぬらむ

ときどきすごく良いのがある。

ねや近き 葉広がしはに 音立てて あられし降れば 夢ぞやぶるる

「夢ぞやぶるる」が良く効いている。

軒ばなる 蛛のいがきは 知らねども 山の嵐に 夢ぞやふるる

なんとこの正徹の歌の本歌取りらしい。

踏めば消え 消ゆれば摘みて 春の野の 雪も若菜も 残らざりけり

少し面白い。

立ち出でて 涼むそともの 木陰より かへりもあへぬ 夕立の空

木陰で涼んでいたら夕立がふりそのまま雨宿りした。なかなか良い歌。

しづのをが 刈りにし跡の 日だに経ず 一つに茂る 野辺の夏草

「一つに茂る」が面白い。

池の上の 菱の浮き葉も わかぬまで 一つに茂る 庭のよもぎふ

この良経の歌の本歌取りか。

おほかたの 常は水無き 山川も 石さへまろぶ 五月雨の頃

「石さへまろぶ」が斬新。

春雨は 今年のみやは 花散らす 昔をかけて 今日は恨めり
霜の上に 寝るここちして 夏の夜の 床に影しく 月ぞ涼しき
なには潟 堀り江にのぼる ゆふ潮の 限り知らるる 朝氷かな
水のおもに 散りて浮かべる 木の葉より まさりて薄き 朝氷かな
諏訪の海の こなたかなたに あひおもふ あまもこほれば かちよりぞ行く

少し面白い。

続後撰集

続後撰集 だが、西園寺入道前太政大臣というのが西園寺実氏で、単に前太政大臣というのが若死にした九条良経であろうか。この二人は太政大臣だから入選が多いのだろうが、非凡な歌もあるようなので、よく調べてみる必要がある。定家がダントツに多いように見えるが、定家は巻頭・巻末には一つもないのにたいして、俊成はなんと春上巻頭、春中巻末、春下巻末、夏巻末、冬巻末に置かれていて、別格の扱いを受けていると言ってよい。

年のうちに 春たちぬとや 吉野山 かすみかかれる みねのしら雪

これはまあ巻頭歌なんでこんなもんだろうが、

つらきかな などてさくらの のどかなる 春の心に ならはざりけむ
ゆく春は 知らずやいかに 幾かへり 今日のわかれを 惜しみきぬらむ
鳴る滝や 西のかは瀬に みそぎせむ いは越す波も 秋や近きと
なかなかに 昔は今日も 惜しかりき 年やかへると 今は待つかな

そうそう。これが俊成。平明で抒情的で優美。さすがに為家はわかっている。でもなんで「西の川瀬」なんだろう。深い意味はないのか。たまたま滝の下流が西だったのだろうか。てことは東山だろうか(追記。鳴滝とは京都の西、嵐山のことであろう。愛宕山の中腹に鳴滝という地名がある)。

思うに、定家は俊成の子だから、俊成のような素直な歌も割と詠んでいる。為家はわざと父のそういう歌ばかりみつくろったのではなかろうか。たとえば

こころあてに わくともわかじ 梅の花 散りかふ里の 春のあはゆき
あとたえて とはれぬにはの 苔の色も 忘るばかりに 花ぞふりしく
小倉山 しぐるる頃の あさなあさな 昨日はうすき よものもみぢ葉

など。あまり定家らしくない(追記。いや、かなりひねくれていると解釈することもできる)。「見渡せば花も紅葉もなかりけり」とか「駒とめて袖打ち払ふかげもなし」みたいに、ひねくれてもいないしいじけてもないし世をはかなんで落ち込んでもいないし、モノトーンでも幽玄でもない。いわゆる、素直な「優なる姿の歌」である。俊成の歌に似ている。

後鳥羽院ほか、順徳院、土御門院など、承久の乱で流された人たちの歌が多いほか、選者の為家、為家の子の為氏の歌も若干入る。

はる風の ふかぬ世にだに あらませば 心のどかに 花はみてまし

これを入れているのもうれしいよね。これ宇多上皇の歌なんだよね、醍醐天皇に間違われてるけど。

ざっと見ただけだが、センスの良い歌の選び方だと思う。さらに詳しく読んでみる。