ふと思ったのだが、吉田松陰の留魂録冒頭の
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
ここで「まし」というのは通常は事実と反することを想像したり希望したりするものなので、
「まし」を古典文法どおりに解釈すれば「たとえこの身がくちても私の魂をとどめおけたら良いのに(実際には留めることはできない)」
となる。
しかし通常は
「この身がたとえくちても魂は留めおくぞ」
のように解釈されるだろう。
「たとひ・・・とも」はふつう逆接的に解釈されるからだ。
この、「たとひ・・・とも」と「まし」はあまり相性が良くはない。
逆接と反実仮想は素直につながらない。
いろいろ悩んだが、うまくなじませるため
> この身が武蔵の野辺に朽ちたあとにも、私の大和魂はとどめておきたいのに。いやたとえ身は朽ちても魂だけはきっと留めてみせる。
ややくるしいが、歌全体を「たとひ・・・とも」による強い希望とし、
その中に「まし」は、未来への不安やためらい、自分の欲しない未来を否定したい強い希望として反語的に挿入されているという重層構造に解釈してみたわけだが。
「まし」は通常なら「もしこうだったならこうするだろうに、しかし実際にはできない」という形になる。
たとえば
> もしわれに死ぬまで足れる金あらば明日よりつとめやめましものを
> ひとしげくことまたしげきみやこよりのがれましかばうれしからまし
のように。だが、
> もし身が朽ちなば魂を留め置かましものを
では意味をなさない。身に朽ちて欲しいわけではなく、たとえ身は朽ちてもせめて魂だけは残したい、と言いたいわけだから。
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かばや大和魂
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かなむ大和魂
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めて置かむ大和魂
とか、或いは多少口語調だが
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きたし大和魂
などだとすっきりする。
だが「まし」にはある心理的な屈折がないわな。
「まし」を生かすとすれば、字数合わせは難しいが、
> 身が武蔵の野辺に朽ちしのちまで 大和魂だに 留め置かましかば うれしからましものを
とでもなろうか。
「たとひ・・・とも」「まし」という文法的な危うさが普通でない感じを出していると言えば言える。
しかし普段の詠歌でそういう冒険をするかというと、難しい。
「まし」とか「ましものを」「ましかば・・・まし」は難しいから、つい無難な使い方しちゃうよね。
古典的な用例だと、
> 見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし
他が散ったあとに咲けば良いのに。
これは事実に反することを想像して、そうなってくれたら良いのにと希望している。
普通の使い方。
> うぐひすの谷よりいづるこゑなくば春来ることを誰か知らまし
これなんかは反語的に使われている。
誰が知るだろうか、誰も知りはしない。
事実に反することを想像し希望しているといえば言える。
> 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
これも事実に反することを想像し希望している。
> いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。
源氏物語によく出るパターンだが、
訳としては「どうしたらよかろうか」だが、「いかにせむ」とどう意味が違うのか説明するのは難しい。
ああしようか、こうしようか、どうしようか、というように、ひとつに定まらず、
いろいろとできるかどうかわからないことを仮定し想像しながら悩んでいるときに使うのかもしれん。
> ほにはいでぬいかにかせまし花すすき身を秋風に捨てやはててん
小野道風。
迷い、ためらいの例。
> あらはれて恨みやせまし隠れぬのみぎはに寄せし波の心を
小式部内侍。少し面白い歌。
> 六条前斎院にうたあはせあらむとしけるに、みぎにこころよせありとききて、小弁がもとにつかはしける
と詞書にあるので、歌合わせは右と左に分かれて戦うが、水際(みぎは)に右をかけて、右をひいきにしているというので恨んで、という意味になる。
わけがわかるとかえってつまらんな。