竹取物語を読んでいたら
> いたづらに身はなしつとも玉の枝を手折らでただに帰らざらまし
という歌があり、これは松陰の辞世の歌にそっくりだ。
> たとえ死んだとしても玉の枝を取らぬままに帰ることはなかっただろうに
とでもなるか。つまり「帰らなかったかもしれない」が実際には「生きていたので帰ってきた」のである。
反実仮想である。同じ具合に
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
は
> たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしても大和魂だけは留めおくだろう
となるか。
事実に反することを言っているとしたら、「留め置きたい」かったが「留め置けなかった」というのが結論にならざるを得ないが、
他の用例などみると上の程度に訳しても良さそうな気がしてきた。
「たとひAともBまし」という用例があって、
「たとえAだったとしてもBしただろうに」または
「たとえAとなろうとBだろう」などと訳せばよいか。
> 梅が香を袖に移してとどめては春は過ぐともかたみならまし
梅の香りを袖に移して留めたので、たとえ春が過ぎたとしても形見になるだろう。
春が過ぎたころには梅の香りも消えてしまって形見にはならない、と反実仮想に訳すまでもなく、
逆接的な強い願望として訳せば良いのではないか、少なくともこの用例では。
> 住吉の岸におひたる忘草見ずやあらまし恋ひは死ぬとも
たとえ恋しくて死んだとしても見ないでいただろうか。
> 風だにも吹き払はずは庭桜散るとも春のほどは見てまし
和泉式部。
風さえ吹き払わなければ、庭桜がたとえ散ったとしても、(散った花びらが残っているので)春のようすは見ただろうに。
実際には風に吹き払われてしまったので、春のようすは見れなかったのである。
これは割とわかりやすい。
> 命だにはかなからずば年ふともあひみむことを待たましものを
命さえはかなくなければたとえ年を経ても逢い見ることを待っただろうに。
実際は命がはかないので待たなかった。
これもわかりやすいな。