反実仮想まとめ

「まし」「ましものを」「ましを」の使い方だがいろんなバリエーションがあることがわかったので、まとめてみる。

まず、一番確実でわかりやすいのは「AましかばBまし」または「AましかばBましものを」というパターンで、
「もしAだとしたらBなのだが」となる。
Aは今の現実をあえて否定し無視した別の仮定。つまり反実仮想。
現実はAではないので、Bが導かれることもあり得ない。

あるいは、Aはほぼあり得ない、可能性がありそうもない、絶望的な希望。
つまり反実希望。
実際にはAはありえないので、Bが実現することもない。

もし宝くじにあたったら遊んでくらせるのに、
もし私が宇宙人なら人間をこらしめてやるのに、
もし私が男なら私は女を捨てないのに(笑)のようなもの。
実際はAは単なる仮定ではなく好悪の感情が込められることが多い。
ファンタジー系の実現不可能な願望とか。
逆に強烈な嫌悪からくる拒絶とか。

> 山里に散りなましかば桜花匂ふ盛りも知られざらまし

桜の花が山里に散ってしまったとしたら花の盛りも人に知られることはなかっただろうに。
たわいない例ではあるが、実際には花は山里ではなく人目につくところで咲きそして散ってしまったので人に知られてしまった、ということ。
もちろん桜の花にわが身をなぞらえた比喩であって、
失恋かなにかが人目について知られてしまった、というような意味だろう。

> 暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせまし

暁というものがなければ、別れなどしないのに。実際には暁があるので別れもある。
最後に「や」が付くので反語的に「別れなどしようか、いやしない」と訳すとよいかも。

「Aましかば」だけのパターンもあるが、これは「よからまし」「よからましものを」「あらましものを」「うれしからまし」などが省略されたと見て良い。

> 春くれば散りにし花も咲きにけりあはれ別れのかからましかば

春が来て去年散った花もまた咲いた。別れというものがこのようなものであったなら(よかったのに)。

「Aましかば」の部分が単なる疑問形となった「AばBまし」というものも多いが、「AましかばBまし」とほぼ同じ。
互いに代用がきくと考えてほぼ間違いない。

> 恋せず人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る

冗長ではあるが「恋せざらましかば人は心もなからましものを」でも意味は同じわけだ。
もし恋をしなければ人には心もないだろう。
ふつうは恋の一つや二つはするので人には心がある、となる。

> 世の中に絶えて桜のなかりせ春の心はのどけからまし

世の中に桜がまったくなかったとしたら、春の心はのどかだろうに。
世の中には桜があるから春の心はのどかではない、という意味。

> 待てと言ふに散らでしとまるものなら何を桜に思ひまさまし

待てと言えば散らずにとまるものであれば、桜の花に対する思いがこれほどまさることもないのに。
実際には散るなと言っても散るので思いがまさる、という意味。

> うれしく忘るることもありなましつらきぞ長きかたみなりける

うれしい思いは忘れることもあるだろうが、辛い思いは長く忘れないものだ。

> 夢ならまた見るよひもありなまし何なかなかのうつつなるらむ

夢ならばまた見る宵もあろうが、どうして現実ではとうてい会うのがむずかしいのだろう。
「何」があるので疑問として訳してみた。
小野小町のなかなかおもしろい歌。
上の二例は、自分の当面の関心事とは正反対の場合を仮定しているので、反実仮想という範疇に入るのだろう。
別にふつうに「ありなむ」でも意味は通じるわな。
あるいは「ありやせむ」とか。

「Bまし」「Bましものを」だけのパターン。

> ひとりのみながむるよりはをみなへし我が住む宿にうゑてみまし

「ひとりのみながむるよりは」が架空の前提になっている。
女郎花を独りでながめるよりも、自分の家に上でみなで見ればよいのだが。
植えてないので実際には見れないのだが、しかし不可能な絶望ではない。
むしろじゃあ植えればいいだろと思う。
どうしても植えられない理由でもあるかのようだ。庭がないとか、家が狭いとか、借家なので大家さんに怒られるとか(笑)。

疑問の助詞が混じると不可能性が減り、不確実さが増す。
単なる希望や、のぞみのありそうな希望に近づくようだ。

> 秋の野に道もまどひぬ松虫のこゑするかたに宿からまし

秋の野で道に迷ったので、松虫の声のする方に宿を借りたいのだが。
宿はあるかもしれないしないかもしれない。

> いづくにて風をも世をも恨みまし吉野のおくも花は散るなり

これも「いづくにて」が付くことによって、不可能ではなく不確定、疑問になっている。
吉野の奥でさえ花は散るのに、いったいどこで風や憂き世を恨めばよいのだろうか。
「いづくにて風をも世をも恨みばや」でも良さそうなものだが、
この定家の歌は、定家というのは仏教的諦念というか無常観というかそういうものが、
西行と同じくらいに強い傾向があるのだが、結局生きてこの世にいる限りどこへ行こうと世を捨てて世を恨むなどということはできない、
というのが結論なわけであり、
不可能の形をとった疑問のような結局は不可能、ということを表したいのだろう。
だから「ばや」ではなしに「まし」が使われている、と考えると納得がいく。

「AともBまし」。
「とも」と組み合わさると「ば」「ましかば」のような単純な反実ではなくて、
逆説的な強い願望と解釈した方が良い用例が少なくない。
つまり、「たとえAだとしてもせめてBであってほしいのだが」と訳すとぴったりくるパターン。
Aは受け入れねばならないつらい現実、或いは譲歩可能な条件。
Bはぎりぎり叶って欲しい願望。
もともとの「まし」の意味合いを考えれば強い意志というよりは、
実現が怪しく疑わしいが切実に望む感じではあるまいか。

> 梅が香を袖に移してとどめては春は過ぐともかたみならまし

たとえ春は過ぎても形見になって欲しいのだが。

> 片糸の思ひ乱るる頃なれやことづてすともあはましものを

六条修理大夫。たとえ伝言を頼んででも逢いたいのだが。

> 急ぐともここにや今日も暮らさまし見て過ぎがたき花の下かげ

たとえ急ぐとしてもここに今日も暮らしたいのだが。
上、三例、いずれもどのくらい不可能性が高いのか、定かでない。
急ぐというのがとても緊急であれば限りなく不可能に近い、とも言えるし、
ことづてするのが事実上不可能なのかもしれない。
いずれにしても不可能性が限りなく強い事案に対してその逆を強く願望する、と理解すべきだと思う。

> 春浅き飛ぶ火の野守り点けずとも雪間の若菜まづやつままし

春が浅く、たとえ野守が飛ぶ火に火をつけなくとも、雪間の若菜をさっそくつんでみたいのだが。

> 散りぬとも面影をだに山桜忘れぬほどや花になれまし

たとえ散ってしまったとしても、山桜のおもかげを忘れないほどに花に馴れておきたいのだが。

用例探しはこれくらいで十分だろうか。結論として

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

> たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしてもせめて大和魂だけは留めおきたいのだが

と訳すのが正解、ということになろうか。
「身が武蔵野の野辺に朽ちてしまう」というのがまだ実現してないが、
近い将来確実に来ることの仮定。
たとえそうだとしても、
とどめ置きたいものだ、ということになろう。
「必ずとどめ置くぞ」というような固い決意ではあり得ないだろう。
そういう用例は、探せばあるのかもしれないが、一般的ではない。
吉田松陰のような人がそんなトリッキーな和歌を詠むとは思えない。

もっと複雑で、「CばAともBまし」という形もあって、
「とも」が薄まり、
上の逆説願望よりも反実的要素が強く、
「もしCならばたとえAだとしてもBだっただろうに」
となる。このパターンは割と多い。和泉式部とか。

> 待つ人のなきよなりせ聞かずともあめふるめりと言はましものを

待つ人が居ないならば、たとえ聞かれなくても、雨が降るようだと言っただろうに。
実際には待つ人がいるので聞かれてから言った、ということか。
待つ人のあてがないので振るとは言いたくなかったということだろうか。よくわからん。

> 霞だに立ち遅れせ新しき春の来るとも知らずぞあらまし

もし霞が立つのでさえ遅れたならばたとえ新しい春が来たとしても知らないでいるだろうに。
実際には霞がたったので春が来たことを知った、となる。

> わかるべきわかれなりせ思ふとも涙の道にむせばましやは

「やは」が付いているので反語的に訳し、
もし当然別れるべき別れだとしたらたとえ思いつづけていたとしても涙にむせんだでしょうか。
ややこしいな。別れるべくして別れるのであればこんなに泣くことはなかっただろうという意味だろうな。

> ときはなる峯の松原春くとも霞たたずいかで知らまし

これも「いかで」が付くので反語的に訳し、
峯の松原は常緑なので、たとえ春が来たとしても、霞が立たなければ、春が来たことをどうやって知るだろうか。
いやはやややこしい。

補足。
「まし」は助動詞「む」から来ているのはまあ間違いなく、
「む」は単なる推測のようなものから強い願望まで意味する。
したがって「まし」が「のどけからまし」のように単なる推測として訳せば良いこともあるが、
「やどやからまし」のように願望として訳すべきときもある、ということだろう。
だから「AともBまし」は願望として訳して正解なのだ。

さらに補足。
「ば・・・まし」や「とも・・・まし」などの用例は古語辞典にも載ってない。
少し困った。

さらに補足。
「もしCならば、たとえAだとしても、Bしただろうか、いやしない」などという複雑な文法構造の歌を31文字で詠めるというのは驚異。
高度な修辞技法と重層的なオマージュによって屈折した心理を短い詩形に読み込むのが和歌。
しかし俳句にはそれは無理だ。
俳句は文法をあらかた捨てた。
正岡子規の

> 敦盛の鎧に似たる桜哉

を例に挙げるまでもないが(余談だが、しだれ桜が全体に釣り鐘のように垂れていて、鎧直垂のように見えるという意味かと思ったのだが、須磨で詠んだ句らしく「敦盛の鎧に似たり山桜」「敦盛の鎧に似たる山桜」の形もあり、では山桜を詠んだかとも思うが、題が「糸桜」つまり「しだれ桜」だからややこしい)、
いくつかの名詞、あとは形容詞か動詞が一つかせいぜい二つ。あとは助詞。
俳句には圧倒的に助動詞が少ない。
助動詞の役割の重さというのが和歌と俳句の違い。
助動詞が生きるには17文字3句では足りず31文字5句が要る。

今の短歌というのは俳句をのばしたようなもの、冗長な俳句のようなもので、
17文字で足りないから31文字にしたようなものが多い。
一度、和歌から俳句になるときに捨てたものをもう一度学び身につけるのはおそらく不可能。
俳句のような「単純明快な文形」をただ文字数を増やしただけでは「高度な修辞技法と重層的なオマージュ」には出来ない。
ただ文字数を増やすだけだとリフレインくらいにしかならない。「塔の上なるひとひらの雲」とか「針やはらかく春雨のふる」とかがそう。
あるいは上の句と下の句が別々の俳句になっているがごとき。

さらに追記。
「まし」はもともと事実と反することを述べるが、
「や」「か」「やは」「かは」「いかに」などの疑問や反語の助詞などが付くと意味がそちらにひっぱられて、
もともとは「あるとよいのに」という諦めにもにた境地だったのが、
「ありえるかもしれないよね」「ないといえるだろうか、いやある」のような意味になる。
「とも」がつくと「あるとよいのに」が「ありたいのだが」まで変わってくる。
このように組み合わせによってはかなり本来の意味から離れた使い方をする、
ということが用例を調べることでわかってくる。
おそらく「あるとよいのに」「ありたいのだが」くらいまでが安全圏で、
「きっとあるぞ」とか「かならずある」「ゆめうたがうことなかれ」などと訳すとやり過ぎなのに違いない。

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