敷島の道2

[敷島の道](/?p=13857)の続き。

定家の「拾遺愚草」を拾い読みしてたら、
飛鳥井雅経が自分の子・教雅の歩き初めに

> あとならへ 思ふおもひも とほりつつ 君にかひある 敷島の道

定家かへし

> 敷島の 道しるき身に ならひおきつ 末とほるべき あとにまかせて

意味は分かりにくいのだが、
雅経が教雅の歌の指南を定家に頼み、そのお礼に書道の手本を贈った、
それに対して定家は雅経にならって教雅に歌を教えましょうと言った、ということらしい。

歌の配置からみると、定家の子・為家が元服した後の話らしいから、
とっくに鎌倉時代に入っているが、承久の乱よりは前だろう。

どうも雰囲気としては「敷島の道」というのは「歌道」というよりも、
も少し広く漢学や仏教に対する、日本固有のことについての知識や学問や芸能、
つまり国学という意味で使われているような気がする。
まあ、国学の中心は、当時としては和歌だったわけだが、
神話とか神祇とか祝詞とか、歌物語など国文学全般、仮名文字の書き方、
大和心の使い方のようなものまでを包含していたかもしれん。

とか思いつつ広辞苑を調べるとどうやら初出は千載集の序らしい。
つまり定家の父俊成だわな。
よく調べましょう自分。
和歌に出た最初の例はしかし上に挙げた飛鳥井雅経と藤原定家の贈答歌かもしれん。

> 春の花の朝、秋の月の夕、思ひを述べ心を動かさずといふことなし。
ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉を争ふ。
敷島の道も盛りに興りて、心の泉いにしへよりも深く、
言葉の林、昔よりも繁し。

うーん。やはり「もろこし」に対する「大和」であり、
漢学に対する国学、という意味に使われている可能性は否定できないよね?
文脈的には「大和もろこしの歌言葉を争ひ」とは和漢朗詠集や新選万葉集のように漢詩と和歌を並列にあつかったようなものだよね。
俊成・定家・雅経には共通認識があったかもしれんが、
ちゃんと説明してもらわんとわからんよね。
つまり、俊成が作った言葉というより、
もともと和歌に限定されない「敷島の道」の用法があって、
それを俊成が和歌集の序に使ったかもしれんわけで。

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