竜田川と神奈備の杜

万葉集には「たつたがは」が一つも詠まれていないという宣長の指摘は大発見であった。
古今集ですでに竜田川が奈良の龍田山に流れる川であるという誤解が生まれていたのにもかかわらず。 その歌はもともと読み人知らずだったはずだが、 柿本人麻呂や平城天皇の歌であろうと推定されたのである。

題しらず 読人不知 この歌は、ある人、ならのみかとの御歌なりとなむ申す
竜田河 もみちみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ
題しらず 又は、あすかかはもみちはなかる
読人不知 此歌右注人丸歌、他本同
たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

ある人の説によれば、とこの頃はかなり消極的である。業平の歌

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
ちはやふる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

ただし、『伊勢物語』106番

むかし、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

こちらがおそらく古い形だろう。男とは業平、親王たちとは惟喬親王らと考えれば、
ぴったりくるのである。

神なひの山をすきて竜田河をわたりける時に、もみちのなかれけるをよめる
深養父
神なびの 山をすぎ行く秋なれば たつた河にぞ ぬさはたむくる

私はずっと、竜田山こと神奈備山は、京都と大和の往還の途中にあるのだと思っていた。 しかし、奈良であればともかくとして、京都から大和へ行く用事がそれほどあるとは思えない。 京都から奈良に行くには竜田山を通るはずもない。 それに対して京都から西国へ下っていく途中で必ず山崎は通るのである。 山崎はずばり地峡という意味である。 巨椋池から淀川が大阪平野に流れ出す地峡であり、 おそらくかつてはここに急流があった。

竜田川は今の水無瀬川だということを先に書いた。 そして神奈備山はその川の上流であったろうし、 神奈備の杜はこの川の流域の森であったはずだ。

秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる
貫之
年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ

これを見るに竜田川には港があったことになる。『土佐日記』

九日、心もとなさに明けぬから船をひきつつのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。
(中略)かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つつ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。ここに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて桜のさかざらば春のこころはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。(中略)こよひ宇土野といふ所にとまる。

十日、さはることありてのぼらず。

十一日、雨いささか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに相應寺のほとりに、しばし船をとどめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。

十二日、山崎にとまれり。

十三日、なほ山崎に。

十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。

十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。

というわけで、山崎から先は都から車を取り寄せて、車に乗り換えて移動したらしい。

山崎橋は桓武帝即位三年に作られたという。 八幡の宮とは男山の石清水八幡宮のこと。 相應寺というのは石清水八幡宮の対岸に位置した寺で今の離宮八幡宮。 男山八幡宮こと石清水八幡宮は清和天皇の御代に宇佐八幡宮を勧進したものであるという。 清和天皇は惟喬親王と同様に文徳天皇の皇子だから、渚の院も同じ頃に作られたということか。 平安遷都があってからこの山崎、男山、そして渚の院などは西国旅行の要衝となり、 竜田川の歌も詠まれ始めた。 ところが嵯峨天皇の御代にはすっかり和歌は宮廷から遠ざけられていて、 初期の竜田川の歌は誰が詠んだのかわからなくなってしまった。 それで奈良時代の歌と勘違いされたのだろう。

思うに竜田川(水無瀬川)が淀川に合流するあたりに山崎宿があり、 また山崎港などと呼ばれた港があり、 渚の院はそのすぐ側にあったのだが、惟喬親王が没落して、 貫之の時代にはすでに廃れていたのだろう。

後撰集

御春有助(みはるのありすけ)
あやなくて まだきなきなの たつた河 わたらでやまむ 物ならなくに

西国に派遣されるのに通る場所だったということだ。

しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すな言へりければ
藤原元方
竜田河 たちなば君が 名を惜しみ いはせのもりの いはじとぞ思ふ

岩瀬の杜は奈良にあるという。 ただ、このころにはすでに竜田川が大和にあることになっていたから、 単に詠み合わせただけかもしれない。

拾遺集

奈良のみかど竜田河に紅葉御覧しに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて
柿本人麿
竜田河 もみち葉ながる 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

これは古今集の歌の再録である。 かなり附会が進んだ形だと言える。

源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める
しろめ
いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし
山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにして、わかれ惜しみけるに詠める
源さね
人やりの 道ならなくに おほかたは 生き憂しと言ひて いざ帰りなむ
今はこれより帰へりねと、さねが言ひけるをりに詠みける
藤原兼茂
したはれて きにし心の 身にしあれば 帰るさまには 道も知られず

これらは古今集に出てくる、
京都から筑紫へ旅立つ人を見送りに、山崎から神奈備の杜で別れを惜しんだという一連の歌。

源実(みなもとのさね)は嵯峨天皇の曾孫。昌泰三(900)年没。 嵯峨天皇第六皇子・源明(あきら) – 長男・源舒(のぼる)– 三男・源実。 宇多天皇から醍醐天皇に代替わりする頃に死んでいるから、 おそらく古今集が編纂されている最中に収録された歌なのだろう。

「しろめ」は謎だが、山崎宿あたりにいた遊女ではなかろうか。

雲居に紛ふ沖つ白波2

雲居に紛ふ沖つ白波再説

高橋睦郎「百人一首」p.152

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通。

詞花集「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」

保延元(1135)年4月の内裏歌合で詠まれたものであるらしい。 新院とはここでは詞花集の勅撰を命じた崇徳院で、位におはしましし時とは在位中(1123-1142)という意味。 ま、ともかく 1135年のことと考えてよいだろう。

忠通は藤原忠実の長男。 忠実の次男が頼長。 この三人と、 本院(白河)、新院(鳥羽)、天皇(崇徳)が絡んだ複雑な政争を詠んだものだと高橋睦郎は言う。 はてそうだろうか。

1135年当時、白河院はすでに崩御(1129)している。 なので、崇徳天皇が在位中で、鳥羽院が院政を敷いていた状態。 崇徳天皇が鳥羽院によって近衛天皇に譲位させられるのは1142年のこと。 しかし近衛天皇が生まれるのは1139年だし、 頼長は1120年生まれ、1135年でまだ15才にすぎない。

でまあ、1135年当時どのような政争があったかといえば、 鳥羽院は(祖父の白河院から押し付けられた中宮待賢門院藤原璋子を嫌っていて?) 1133年に忠実の要望をいれて忠実の娘(つまり忠通と頼長の姉)高陽院藤原泰子を入内させる。 泰子は当時すでに39歳でのちに皇后になっている。 まあこういう例は珍しくない。 皇子を産んでもらうというのでなしにただ形だけ有力者の家から皇后を立てる。

また1134年から美福門院藤原得子(近衛天皇の生母)が鳥羽院の寵愛を受けるようになっているが、 この時点で美福門院の影響は考えなくてよかろう(得子の父・長実は生前は正三位・権中納言だから大した公家ではない。藤原定家くらい)。

つまり、この時期は鳥羽院と忠実の全盛期であって、 忠通が崇徳天皇になにやら怪しげな、諫言めいた歌を奉るなどということに、 ほとんど何の意味もない。

のちに頼長と崇徳院が組み、忠通が後白河天皇と組んで保元の乱が起きたが、 それは1156年、21年後のことなのである。 その保元の乱のイメージでこの歌を鑑賞するというのは、 後代の人にありがちなこじつけというしかない。

同著の中で、

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

の「来ぬ人」は後鳥羽院、待つ海女は定家だとみなしているのだが、 これもひどいこじつけだ。 また

待賢門院璋子と北面武士佐藤義清(西行)の十七歳違いの例もあり、

式子内親王の忍ぶ恋の相手は定家ということも、「考えられないことではない」とする。

そのほかあげればきりがない。 また高橋睦郎という人がそういう人だから仕方ないのかもしれないが、 ギリシャやローマやそのほか西洋の話にいちいち絡めてくるのが邪魔というよりない。 またこの人も「王朝を埋葬」したい人らしい。 確かに定家は朝廷から幕府に実権が移った時代に生きた人だから、 定家や百人一首を王朝の鎮魂歌とみなしたい気持ちはわからんでもないし、 実際そのように後世考えられるようになった。 後鳥羽院と順徳院の歌が末尾に付加されたのはその意味にちがいない。 しかしそれは定家とは直接関係ないことだ。

父の歌など

柳田国男『故郷七十年』「父の歌など」

はかなくも 今日落ちそむる ひとはより 我が身の秋を 知るぞかなしき

ここで父とは柳田国男の父・松岡操のこと。彼もまた桂園派の歌人であった。

「ひとは」とは普通に考えれば「一葉」なのだがこれには「一歯」がかけてあり、
秋の葉が落ちるように自分の歯も抜け始めたということが言いたいのである。

奥山は 住み良きものを 世に出でて 立ち舞ふ猿や 何の人まね

これらはどちらかと言えば狂歌に近いけれども、こういう皮肉で自虐的な、人を馬鹿にしたような歌というのも香川景樹と桂園派の歌の特徴といえる。

夜光る 白玉姫を 見てしより 心そらなり つちは踏めども

山なしと 聞く武蔵野の 夏の夜に 吹くやいづこの 峰の松風

これらは景樹が京都から江戸に下って浅草に私塾を開いた頃の歌であるという。

私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の残り火に肌ふれることができたのであつた。

ついでながら近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

後になつて落合直文や与謝野鉄幹らが出て来て盛んになつたのは、時代の機運に乗じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。関東においても千蔭が力を揮つた時代よりも、歌は良くなつてゐる。

加藤千蔭や村田春海というのは賀茂真淵の影響下にあった(つまり万葉風の)江戸歌壇の歌人らであり、景樹はわざわざ本拠地京都から江戸に下って彼らに勝負を挑んだのだが、結局京都に戻り天保年間に亡くなった。柳田国男が真淵よりも景樹のほうが歌はましだったと擁護しているのがおかしい。落合直文や与謝野鉄幹、そして続く正岡子規らもあきらかに真淵のますらをぶりを継承している。柳田国男が正しく江戸文化、とりわけ桂園派を理解し、その擁護者であったことを示す文であるといえる。

柳田国男はある意味私に良く似た人である。彼に関する誤解は、彼自身というよりも、彼の言葉を引用して、それを自説に都合良く解釈する人たちのせいのようだ。

故郷七十年

大塚英志『キャラクター小説の作り方』の続きなのだが、 この中に「柳田国男による古典文学批判」として出てくるのは、 「頓阿の草庵集」というごく短い文であり、 『定本 柳田国男集 別巻3』に載っている。 この『別巻3』は『故郷七十年』『故郷七十年拾遺』からなっていて、 柳田国男が神戸新聞の求めに応じて、口承で残した自伝であるという。 序に昭和三十四年とあるから、1959年、柳田国男84歳、死去する3年前に出版されたことになる。

明治20年というから、柳田国男が12歳の時に、 彼は故郷の播州を、兄・井上通泰とともに離れる。

私は早熟で子供ながらに歌をやつてゐた。私の家に鈴木重胤の「和歌初学」といふのがあり、四季四冊のほかに恋、雑の上・下など七冊になつてゐた

などとあり、香川景樹の

しきたへの 枕の下に 太刀はあれど 鋭(と)き心なし いもと寝たれば

が引用されている。 12歳にして景樹のこの歌を暗唱していたとは確かに早熟である。 鈴木重胤は江戸時代の国学者というか、平田篤胤系の神道家のようである。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

和歌と詩

詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。

詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。 或いは押韻がある。 そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。 中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。 この四行を核として普通はもっと長く続く。

ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。 最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。 しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。

日本語には基本的には母音の長短は無い。 強弱はあるが、しかし和歌では無視される。 則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。

押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。

つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。 他の詩形と比べてみるとそれが如実である。

和歌は詩というよりはパズルである。 短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。 その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。

和歌は完全な文法をそなえている。 名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。 そして完全な修辞を駆使できる。 暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。 言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。

日本にも歌謡はあったわけである。 和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。 さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。 俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。 少なくとも普遍的概念としての詩ではない。 俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。 俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。 逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。

和歌の本

和歌の本にはある一つの定型がある。 歌人の評伝と歌の解釈からなるのが普通。 ところが今回私が書こうとしたのは、 禅と、和歌と、武士というおよそ三つのテーマがあって、 それらが渾然と絡まりながら発展していく、 その中心には定家があり、承久の乱がある。

こういう本は、普通、和歌を学びたいと思っている人が読んでも、 関係ないことばかり書かれていて読めない、ということになる。 承久の乱について読みたい人には関係のない禅や和歌の話が多すぎるということになる。 禅についてもそうで、読者はすでに禅についてのある種の先入観を持って禅の本を手にとるのであり、 それが栄西とか定家とか泰時のことばかり書いてあるとなんじゃこりゃと思うだろう。 禅の本が読みたい人はふつう道元にしか関心がない。 そこを敢えてはずすのが私の本の書き方というか、 普通の書き方なら私以外の人が書けばいいわけで、わざわざ私が書く必要がないと思える。

で、要するに、 本は、和歌なら和歌のことだけ書かなくてはいけないらしい。 和歌と承久の乱に関係があるとしたら、和歌をメインに、 承久の乱は大根のツマくらいに添えないと本という形にならない。 マグロの刺身と大根が皿の上に並べてあっては料理にならないようなものだ。 普通はそれを調和とは言わない。 和歌の話をしながらいつの間にか話題は栄西に移り、栄西から頼朝、頼朝から泰時に移っていく。 私が好きなのはそんな本だ。 ありきたりの本など読んでいるくらいならWikipediaでも読んだほうがましだと思う。 或いは論文かなにか読んだほうがましだ。 たいていはWikipediaとかオープンアクセスの論文読んでれば足りる。 和歌はデータベースで読むほうがはるかに効率が良い。 あとは、『明月記』とか公家の日記なんかが直接読めればそれでよい。 それ以外の本など読むだけ時間の無駄だ。 いや、読む価値がある、書く価値がある本というのは、 私にとってはそれ以上の「新規な知見」があるものでなくてはならない。

道元の話をしてもいいんだが、 道元は村上源氏で久我氏の出でどうのこうの、だから和歌もうまいし漢詩もうまい、 それに比べて栄西は瀬戸内の豪族で材木商で日宋貿易とも関わりが深く、 平頼盛が檀那だったとか、 どうしてもそんな話になってしまう。 普通の人ならちゃんと道元の話しろよと怒ると思う。

九条良経と田安宗武

九条良経と田安宗武。一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、この二人はある意味でよく似ている。和歌をダメにした二大元凶といえる。

九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。一方は惰弱、他方は空元気。

九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。これらによって、和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。

明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。

万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。それが和歌の本質だ。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、 宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。 割と面白い。 特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、 完本は伝わってない。 ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。 北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり
世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして
山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。 さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。 泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、 六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。 残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。 御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。 武人としての能力はどうだっただろうか。 棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、 泰時と同時代人だったと思われる。 熊谷直実は蓮生と呼ばれる。 蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。でもまあ全くの別人だと思う。 熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。 少なくともネットをぐぐっただけではわからん。 こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、 ネットで調べられるようにならんものだろうか。 調べてみたい気はあるのだが、 調べるのに要する気力に見合うかどうか。