中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。
まったく知らんかった。

小谷野敦[中島敦殺人事件](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E9%87%8E-%E6%95%A6/dp/4846009084)

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。
寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。
むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、
冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、
「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、
こんなへんてこりんなことはない。
もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

[中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6-KAWADE%E9%81%93%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%96/dp/4309740235/)
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、
中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、
「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。
当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、
戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。
だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、
そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、
おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。
そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。
はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。
そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。
それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。
もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。
パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。
たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。
それには古典の教養が必要だ。
しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。
そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。
それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。
むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」
そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、
すとんと腑に落ちるのである。

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