阿部一族

武士にとって名前を残して死ぬことがすべてである。

私もなぜかいつの間にかその考え方に感化されていたようだ。森鴎外は明らかに武士であるが夏目金之助こと夏目漱石はその趣味や嗜好はともかくとして、まったく武士ではなかった。

森鴎外がなぜあれほどまで阿部一族で、いろんな人をサーベイして事細かに記録したかといえば、鴎外自身が武士であったからだ。彼は小説が書きたかったのではない。自分の小説が後世まで残る確証をすでに得ていた鴎外は、自分の小説に彼らの名前を記載し、彼らを永遠に人の記憶に残しておきたかったのだ。彼らを顕彰したかったのだ。

森鴎外にとって面白い小説を書くことなどなにほどのことでもなかった。おそらく鴎外は自分が売れっ子作家になろうという気持ちもなかった。彼はなすべきことは十分にやりすぎるほどなし終えていたから、さらに小説家として名声を得たいとおもっていたかどうか。

彼にとって、歴史に名を残すという仕事はもうし終えていた。だから、人に読まれ喜ばれる小説を書こうなどという気持ちはなかった。ただ阿部一族の人々を未来永劫、日本人の記憶にとどめる。そのためにだけあの小説書いたのだ。

二発目以降もよく売れた一発屋

森鴎外は長編も書くが短編も書いている。芥川龍之介だって、菊池寛だって、中島敦だって、志賀直哉だってそうだ。みんないろんなものを書いているが、夏目漱石はほとんど純粋に雑誌か新聞に連載する小説しか書かなかった。

普通小説家になろうとする人は短編か中編を書いてみて、だんだんに長くしていって長編小説を書くものだろう。漱石はいきなり長編を書いた。ずいぶんおかしな人だと思う。これもやはり連載小説という形であったからそうなっただけだとしかいいようがない。

漱石は『猫』以降も、基本的に長編小説しか書いてない。『猫』『坊っちゃん』が雑誌「ホトトギス」連載、『草枕』も雑誌連載、次の『二百十日』は『草枕』の続編か何かのような、熊本の山の中をただ歩きながら登場人物二人が会話ばかりしているへんてこな中編小説。その次の『野分』は「ホトトギス」連載。その後は全部朝日新聞連載。

処女作の『猫』がとにかくいきなり長い。最初は一話読み切りのつもりで、試しに書いてみたんだろうが、好評だったからなし崩しに連載になった。上巻、中巻、下巻と三部に分かれていて、猫が死んで終わりにしたのに、まだ続編を書いてくれと言われたと下巻の序に書いてある。とにかく読者からの要望が多かったからこんなに長い話になったのだろうが、これといってストーリーがあるわけでなく、だらだらと続く話だ。同じことは『坊っちゃん』にも『草枕』にも言えるだろう。

漱石も『こころ』あたりまでくるとちゃんとあらかじめしっかりストーリー構成して計画的に書いているが、『猫』はそうではない。まったく無計画に書いている。『草枕』もストーリーは基本なくて、書きたいことをただ書きたいように書いてみて、それで読者の反応を見ている感じ。『二百十日』はさすがに読者ももうわけがわからなくて、書いている本人もわからなくて、あんな落語か漫才の出来損ないみたいな話になった。

あとから朝日新聞に連載した作品群はともかくとして、基本的に漱石という人は一発屋である、というより二発目以降もよく売れた一発屋という性格の作家であって、人に言われるがままに書いて、それがなぜか毎度好評だったので、書き続けるしかなかった。彼はきっとなぜ自分が小説家のようなことをやっているのか最後までわからなかったのではないか。

当時は病弱で短命な人はいくらでもいたけれども、漱石もやはりそうした一人であって、小説を書き出した頃にはすでに相当病んでいたが、売れっ子作家になり、朝日新聞専属作家になったあとにますます症状が悪化して、死を意識しなくては作家活動もできなくなってしまっていただろうと思う。もしかして創作活動をきっぱりやめてしまえばもう少し長生きできたのかもしれない。そうした創作活動で精神をやられて体を壊してしまう人だったのではなかろうか。自分の好きな物を書くのでなくて、読者の評判を気にしすぎていたのかもしれない。一生熊本辺りで高校教師をしていたほうが楽しく暮らせたのではなかろうか。

自分の話をすると「エウメネス」も最初は、ゲドロシアの沙漠で兵士が捧げた兜一杯の水を捨てる話をメインにした短編だった。ところがこれが良く売れるので続編を3巻目まで出した。それでもまだ売れ続けたので切りのよい6巻目まで書いたのだった。必ずしも長編を書きたかったわけではなく、短編は中編も書いてはいたが、反応を見てだんだんに長編も書くようになった。逆に何の反応も無しに長編を書くことなんかできないと思う。

小説を書き始めたきっかけというのは、もう何度も書いているが、宮本昌孝『義輝異聞』を読んだからだった。ああこういうものを書いてもよいのか、こういう題材であれば私にも書けそうだという気になり、「将軍放浪記」というのを書いた。それより前に「アルプスの少女デーテ」などというものをちょこっと書いたこともあったのだが、何よりも私はたぶん、頼山陽とか本居宣長なんかにはまっていた頃だったから、そういうものをそのまま小説に書くのもありなんだなというとっかかりになった。一度書き始めると現代小説なども書いた。人が書いたものを読むだけというのにすっかり飽きてしまっていたから、自分が読みたいものを自分で書くようになった、というのが一番動機としては近いと思う。

それ以前はいろんなものを乱読していたのだが、久しぶりに部屋の片付けなどするとそうした乱読時代に買った本がたくさん出てきて、塩野七生なんかは今ではまったく嫌いになったけど昔は良く読んだよななどと思い返した。嫌いになったのはこの人が完全に西洋史観に完全に没入した人で、かつ歴史認識にもいろいろ問題があるからで、要するに、司馬遼太郎のたぐいで読めば読むほど嫌になるタイプの小説を書くからである。しかしながら彼女のハンニバル戦記などは「エウメネス」を書く上で大いに影響を受けているには違いない。昔自分が読んだ本を、自分が書いた物の原点を再確認する作業のつもりで読み直している。宮城谷昌光『重耳』は割と好きで読んだが、改めて読んでみてやはり面白いと感じる。他には子母沢寛、陳舜臣、酒見賢一などを読んでいた。宮崎市定は手に入るものはほとんど全部買ってあるのではないかと思う。そうしたものを読んだ上で次第に平家物語とか太平記とか吾妻鏡とか六国史や伊勢物語なんかの、より古いものを直接読むようになっていった。

幸田露伴『努力論』を読んでみたがまったく面白くない。こういう校長先生のお説教みたいな本をよくもまあ書いたもんだとしか思えない。幸田露伴ってどこが面白かったんだろう?

森鴎外の短編はまあまあ面白い。改めて不思議な人だなと思った。というより、鴎外もまた普通の人だし、漱石は漱石で普通の人であっただろうし、露伴は露伴で普通に真面目くさった人だったのだろう。

ドナルド・キーン再説

このブログはもうずいぶん昔(私が30才台の頃)から書き散らし書き殴っているもので、手直し・書き直しが必要なのだが(改編するというわけでなく書式などのメンテナンスが必要ということ)、ふと、25年も前(ということは35才の時)ドナルド・キーンついて批判している文をみつけた。

ドナルド・キーン、ドナルド・キーン2、ドナルド・キーン3、宣長の違和感、原勝郎、「山月記」はなぜ国民教材となったのか

どうであろうか。すでに書いたことはできるだけ繰り返さないが、司馬遼太郎がとんでもない歴史音痴なのは今更どうしようもないとして(そういえば合羽橋に行ったとき台東区立図書館の池波正太郎文庫に行ったら司馬遼太郎の本まで置いてあった。あれはけしからんことだ。ちゃんと分別してほしい。合羽橋には雨合羽は売ってなかった)、ドナルド・キーンはなぜよりにもよって、足利義政に興味を持ったのか。他に面白そうな人はいくらでもいるのになぜ義政の本をいくつも出したのか。

25年前の私は彼が先に、京都人か誰かに感化されて室町文化、東山文化に興味をもちそこから義政に興味をもったのではないか、と推測しているのであるが、それは原勝郎という人が

書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

と言っているのと同じだ。しかしそれだけでなく、今思うに、彼は義政を彼のライフワークである明治天皇にぶつけて、日本という国の典型的な最高権力者(しかも権威的な、象徴的な意味での)の、特に際立った、特徴的な二人を対比してみたかったのではなかろうか。

この、ドナルド・キーンという人に取り上げられたことは義政にとって非常に迷惑なことであった。同時に、足利義政の比較対象にされた明治天皇にとってもまったくありがたくはないことだったと思う。ドナルド・キーンによって日本史研究は多少とも進歩したのだろうか?非常に疑問だ。司馬遼太郎を引っ張り出してきてこんな対談をして合いの手を打たせたりするようでは、たかが知れている。むしろ日本史に対する誤解を再生産し変な箇所をことさら膨らませて奇形にしただけだったのではないか。

ドナルド・キーンという人が義政を「ろくでなし」「気違い」などと考えたということは(それを後白河法皇に対して言うのであればまだわかる気もする)、彼にそう思わせ、そう言わせた日本人が彼の周りに相当数いたということだ。また北条泰時のような天才に対して「鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。」などと発言していることも、彼がちゃんと自分で調べなかったせいというよりは、当時の日本の歴史観というものがそうしたものであった、特に、京都人はことさらに応仁の乱を馬鹿にして義政をあざけって悦にいり、鎌倉北条氏をおとしめて溜飲を下げていたのだろうと思われるのだ(ドナルド・キーンとどこかの公家の子孫が茶室かなんかでそんな話をしているシーンが目に浮かぶ)。足利氏にしても京都人にとっては北関東からでてきた野蛮人程度の認識なのだろう。

司馬遼太郎のように、室町将軍のことも応仁の乱の意味もなんにもしらずに、「どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが」と放言する輩が戦後日本には大勢いたのだろう(たぶん今もおおぜいいる)。

私は高校で日本史をとらず世界史を取った(とすでに書いているけれども)。どこかで日本史を小馬鹿にしていたのだと思う。当時の新聞が読むに値しなかったように、日本史などというものは学ぶに値しないものだと思っていたと思う。そしてのちに「日本外史」で日本史を一から独学した(これもすでに書いている)。江戸時代の人は室町時代を良く知っていた。今の私たちが明治時代を熟知しているように。

今の人たちはかつて関東で利根川を挟んで、西関東と東関東に分かれて戦争をしていた、なんて話をまったくしらない。は?それはいったいどんな歴史創作ものですか、何かちょっと面白そうですねなどと言われる。れっきとした事実である。そしてそれにそれを元ネタにした小説ももうある。江戸時代に滝沢馬琴が書いた南総里見八犬伝がそれだ。人は往々にして、太田道灌や、北条早雲やその子孫らがどういう経緯でどんな戦争を闘ったかなどということは把握しておらず、彼らの名前だけ知っているだけだ。江戸城も川越城も元はといえば、西関東を支配する関東管領上杉氏の家宰太田氏が、東関東の古河公方と対峙するために建てた城だ。

応仁の乱で京都が戦場になった、戦に焼かれてお寺もボー、などという話は良く知っているくせに。関東に生まれ育った人でもよっぽど郷土史に詳しい人しか南総里見八犬伝のベースとなった関東の歴史を知らない。自分が住んでいるところの郷土史としては知っていてもそれが日本史全体の中でどういう文脈にあるかを認識していない。

京都と関東は連動していた。京都しか見ていなくて応仁の乱がわかるはずがない。義教が関東をぶっ壊したせいで、関東は大乱となった。義政はそれをなんとか収めようとして余計火に油を注いだ。義政が何もしなかったのではない。無能だったのでもない。嫁の日野富子の尻に敷かれていたせいでもない。不可能だったのだ(もし義政が強権を発動すれば義教や義輝のように家臣に暗殺されるか義昭のように京都から追放されるおそれがあった。勢い合議制にならざるを得ず、細川、山名などの大族には遠慮せねばならぬ)。

京都の室町将軍と関東の鎌倉公方はもともと尊氏の息子たちだったがだんだんに血が遠くなり、足利本家の室町将軍と分家の鎌倉公方が対立するようになって(江戸時代に徳川氏が御三家、御三卿どうし対立しなかった(少なくとも戦争には発展しなかった)のは足利氏の前例を学んでいたからだ)、関東の方が先に幕府体制が崩壊していき、それが京都へ逆流してきて応仁の乱になった。足利将軍が守護を任命して日本全国を支配するという制度は東から西へと崩れていった。その全体的な流れを説明しなくては応仁の乱も戦国時代もわかるはずがない。日本外史を読めばその流れはわかる。南総里見八犬伝を読めばだいたいの雰囲気はわかる(あれを通読する人は滅多にいないとは思うが)。江戸時代の、京都の人はともかく、関東に住んでいた人たちはみんなわかっていたはずだ。ところが今の日本史では室町時代をほとんどまったく教えない。ただ京都室町御所で茶の湯がー、申楽がー、書院造りがー、連歌がーと芸能にうつつを抜かしていたら突然青天の霹靂のごとく応仁の乱が勃発し、義政は銀閣寺を建てて政治から逃避し、日野富子は義政を尻に敷き、ぐだぐだ戦争が続いて日本全体に波及して戦国時代になった、くらいのことしかいわない。で、司馬遼太郎の書いたものばかり読んでいる。室町時代がわかるはずがない。

私も関東に住み、東京神奈川、埼玉や千葉などあちこち経巡ってきたせいで、関東のことがだいぶわかるようになってきた。東京は日本の首都であるはずだが、日本人は関東のことをわかってない。

ともあれ。私が最近書いた本でも(いつ出版されるかわからないが)ドナルド・キーン批判をしたのだった。彼はいろいろわかってない。それはやむを得ないことだ。しかしながらみんなドナルド・キーンの研究はすごく優れたものだと思い込んでいて、実際にはろくに読んでもいないし、ちゃんとした検証などまったくされていない。これは困ったことである。

根岸の里

よせば良いのに、山谷堀から墨田公園まで歩いてみたのだが、人が多くて騒々しいだけだった。待乳山もただ人が多いだけ。美しくもなければ気持ちよくもない。江戸の情緒なんてひとかけらもない。花見がしたければ浅草以外のどこかへ行ったほうが良い。

私のようなせっかちな人間が人混みを歩くことほど危険で、精神をすり減らすことはない。早朝や、平日の午後などに移動することにしよう。

下は、昨日雨の中、根岸の里という公園で撮った写真。人はおらず鳩が大量に群れていた。こっちのほうが美しくてなごむよね?

謎のコッペパン専門店にも行った。観光地でもないのに食べ歩きなどしてしまった。ほとんど人はいなかったので迷惑はかけてないと思う。

根岸の里と言っても、正岡子規の庵がある辺りはゴミゴミしてるし車も多いし、タバコ臭いし、「根岸の里のわび住まい」どころじゃないから、寄りつきたくないんだよな。

メンタルが急速に弱まっていくのを感じる。twitterもむやみにフォローするのはやめる。フォロワーを増やそうなんてことはもうやらん。自然に減っていってそのうちフェードアウトするのが良い。twitterには極力書かないようにするし、他人ともからまないようにする。精神衛生上ここのブログには適当に書くとして、その他のSNSにもできるだけかかわらないようにする。実生活でももうこれ以上人付き合いを増やすことなく、特に親しい人以外は会わないようにする。

そうやって社会とのつながりをどんどん断ち切っていったからといって、この世ではもうこれ以上やることもないのだからなんの問題もない。これまでは仕事してお金を稼がなくてはならないからむりやり社会に出て行った。それももう必要ない。やることがなくなりすぎて、退屈で死にそうになるのが困るかもしれないけど。

源氏物語

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。桐壺帝は仁明天皇。桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。一院は嵯峨院。弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

ということを以前に書いた(ほかにもこれとかこれとか)。すると源氏物語に出てくる今上帝とは宇多天皇、今上帝の母、承香殿女御とは班子女王ということになる。ほかにも

光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ言ひ伝へたるとなむ

とか、

そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける

など、高麗人と幼い頃の光源氏が深い関係にあったことも注目すべきであろう。光源氏の母は百済人だった。それですべてがすんなりと説明できてしまう。百済王族は日本人、特に藤原氏に対抗して妃を入内させ天皇を立てることもできたはずだが、藤原氏は猛反発、おそらく実力行使に出ただろう。そうしてやがて百済人は歴史の表舞台から消えていった。

桓武天皇は百済人の子であった。妃にも百済人が多くいた。嵯峨天皇、仁明天皇のころまではそういう傾向が続いた。しかし時代が下り、文徳天皇のころになると百済人はやっと宮中でマイノリティになり、奈良時代のように藤原氏が実権を握り始めた。百済の王族の女が産んだ皇子は、親王になることはできない。親王の名は二文字、それ以外の王の名は一字をつける、というならわしがあった、ように見える。天皇の子であるのに源氏を賜り臣籍降下する、というのも源氏物語の記述と同じだ。

それでこの光の君の物語の原型が宇多天皇の時代、つまり、古今集が成立する直前くらいに成立したとしよう。それは西暦でいうとだいたい900年くらい。紫式部が生きたのがだいたい1000年くらい。源氏物語絵巻がつくられたり、最古の写本が出てくるのが平安末期、だいたい1150年くらいだろうか。藤原定家はほぼ現在と同じ形の源氏物語を読んでいたはずだ。菅原孝標女は紫式部より少しだけ後の人であるから、もし紫式部が源氏物語を書いたとすれば、紫式部が書いたそのままの源氏物語をほぼリアルタイムに読んだことになる。「更級日記」には「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」という形で出てくる。

紫式部が源氏物語を書いたことを疑う理由はないのでそうだとして、紫式部は嵯峨天皇 (800年頃)から宇多天皇 (900年頃) の時代に、日本人と渡来人の間で起きた皇位継承問題から成立した光の君伝説というものをもとにしてそれを膨らませて源氏物語を書き、それを菅原孝標女が読んだのだが、その後も100年以上の歳月をかけて、源氏物語はブラシアップされ、続編が書き足されていって、藤原定家の手に渡ったのであろうと思う。定家が書いた写本が最古の写本の一つとされているが、定家がいろんな写本を集めて今の源氏物語の形にした、つまり源氏物語の最終的な作者は定家である、ということもできるのではないか。

何度も書いているが「伊勢物語」は紀有常が漢文で書いた日記が元になり、それが拡散し、和文化することによって成立したのだと私は思っている。となると「伊勢物語」と「源氏物語」はどちらもほとんど同じ頃にその原型が成立したのだろうということになる。つまり、源氏物語の原型というものがあったとしたらそれは伊勢物語のように、一つの歌に少し長めの詞書きがついたようなものの集合体だったのではないか、そうしたものが村上天皇時代辺りに集積されつなぎ合わされた。その編集の主体は宮中に仕える女房らであった。

伊勢物語には惟喬親王や在原業平や紀有常らが藤原氏によって左遷されていくという政治的な要素も含まれている。源氏物語にはその要素は希薄ではあるが、というのは女房らにとってはそうした男たちの世界は直接興味がなかったからだろうが、しかしよくよく観察すると政治の世界のなまなましい駆け引きがみえかくれする。光源氏は浮世離れしたプレイボーイというだけではなかったのだろう。少なくともその原作においては。

さらに想像を膨らませると、百済王族が書いた漢文の日記があってそれがのちに伝説化、和文化して、全体のあらすじとして、源氏物語の冒頭に付加されたものが「桐壺」であったのかもしれない。

ファウスト

ファウスト第2部冒頭、アリエル(シェイクスピアのテンペストに出てくる空気の妖精らしい)が草地に寝そべっているファウストに歌う歌

Wenn der Blüthen Frühlings-Regen
Ueber Alle schwebend sinkt,
Wenn der Felder grüner Segen
Allen Erdgebornen blinkt,
Kleiner Elfen Geistergröße
Eilet wo sie helfen kann,
Ob er heilig? ob er böse?
Jammert sie der Unglücksmann.

der Blüthen は複数2格、der Felderは複数2格、Kleiner Elfen は単数2格強変化、に思えてならないのである。2格やばいよ2格。2格(所有格)は口語ではほぼ使われなくなった古い雅文的な言い方という。英語では ‘s で表されるアレ。

Kleiner Elfen Geistergröße Eilet wo sie helfen kann、これは、小さな妖精の魂の大きさは、が主語で、Größeは女性名詞だから人称代名詞はsieだけれども彼女ではなく、それ、と訳すべきではないかと思うんだ。だから直訳すれば「小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る(者がいる)場所へ急ぐ」となるはずだ。

普通は Kleiner Elfen が1格で主語、Geistergröße はその形容的な言い換えのようなものと思えるはずだ。しかしもしElfenがElf (もしくは Elfe) の複数1格だとしよう。もしそうだとすれば Kleine Elfen になるはずではなかろうか。

いろんな訳を見てみたが(英訳を含めて)妖精たちとか妖精の群れとか little elves などと訳しているものが多いのだが、私にはどうもこれが複数には見えないのだ。sie eilet, sie jammert どちらも単数にしか見えないではないか。3人称複数(あるいは2人称複数)なら sie eilen, sie jammern となるんじゃないの?

となると、「小さな妖精の魂の大きさ」とはアリエルが操る妖精の群れ、ではなく、アリエル自身のことにならんか。アリエルが自分でファウストを助ける、という意味なのではないのか。私は体は小さいが心は大きいからあなたを助けてあげましょう、と言っているようにみえる。

Segen blinkt は他動詞とみるしかあるまいと思う。

というわけでできるだけ直訳してみると、

花の春雨があらゆるものの上に漂い落ちる時、野の緑の恵みが地に生まれ出たあらゆるものをきらめかす時、小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る所へ急ぐ。彼が善良であろうと、彼が邪悪であろうと、それは不運な者を憐れむ。

となるのではないか。ちなみに英訳すると、

when spring rain of the flower falls floating on all, when green blessing of the fields sparkles all birth on earth, spiritual greatness of the little elf harries where it can help, whether he is holy or he is evil, it pities the unlucky man.

とでもなるか。

難しいなゲーテ。特に2格!人称代名詞を略したり、適当に意訳したりしてごまかすことはできるんだがなー。

ちなみに森鴎外はこう訳している。

雨のごと散る春の花
人皆の頭の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵青人草に
かがやきて見ゆる時、
身は細けれど胸広きエルフ(Elf)の群は
救はれむ人ある方へ急ぐなり。
聖にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。

桜井政隆という人はおそらく鴎外訳を参考にして、次のように訳している。

咲匂ふ花、春雨のごと、
なべての上に漂ひ散れば、
野も狭に満つる緑の恵み、
天が下もろ人の眼に輝けば、
細身のエルフの群は強き霊もて、
救ひ得る方へと急ぎゆく、
聖なりとも、悪しき人なりとも、
幸なき者をあはれと見つつ、

中島清という人はこう訳す。

樹々の花、春の雨にもまがひつつ、
すべての者の上にひらひら降りかかり、
みどり色なす野の恵み、輝き匂ひ、
地に生まれたる者皆に笑みかくる時、
小さきエルフェの大いなる霊のつとめと、
群れて急ぐは、救はれむ人あるところ。
よし其の人に罪はありとも、あらずとも、
その幸なきぞエルフェの身には傷ましき。

秦豊吉という人はこう訳す。

花は春の雨のごとく
すべての上にひらめき落ち
野の緑なる恵みは
すべての地に生ふる者に輝けば
心大きく身は小さきエルフは
人を救はんと急ぎゆくなり。
尊き人をも悪しき人をも
幸なき者を哀れと思ふなり。

奥湯河原

湯河原はぎりぎり神奈川県なのだがあんなにさびれた温泉街がまさか神奈川にあるとは思わなかった。こんなに交通の便が良いところがオーバーツーリズムにまったく飲み込まれていないのは、千と千尋的な木造旅館が立ち並んでいるわけでもなく、今どきの鉄筋コンクリート造りのホテルか、さもなくば朽ちかけたバブル遺産みたいな廃屋しかなくて、都心に近いということが慢心となって、もっと媚びている温泉地に人の関心が向いているからだろうと思う。またやはりあまりにも東京に近い近すぎるというのが盲点になっているんだろう。まさかこんな温泉街が神奈川県にあろうとは。みんなそう思っているに違いない。

以前も一度湯河原には行ったことがあったが駅より東側、海のほうの、どこにでもある普通の街並みと変わりないあたりしかうろつかなかったので、ああいうものが湯河原だと思っていた。しかしずっと山の中、奥湯河原とか理想郷とか源泉郷とかいうあたりまでいくと、温泉の井戸のやぐらというか骨組みがあちこちに建っていて、お湯を通すパイプが乱雑に河原などに敷かれていて、修善寺と鬼怒川を足して二で割ったような雰囲気のところで、温泉街にはまったくコンビニやスーパーなどはなく、旅館の売店にしか酒が売ってなくて、しまった、駅前でビールとつまみを買っておくのだったと思ったときにはもう遅かったが、こうなってはもはや浮世とは隔絶した世界を堪能するしかないのだった。

そのあと浅草に戻ってきたのだが、やはり安心感がある。外国人もそうなのだろう。初めて日本に来る人はまったく土地勘がないわけだから、いきなり難易度の高い田舎にいくのはリスク高すぎる。とりあえず一通りなんでもあって、スーパーもコンビニもまいばすけっともある浅草とか京都とか鎌倉に来て、もう一度来ようかということになったら、もっと自分の好みにあった地方の観光地に行けば良いわけだ。

私だっていきなり東向島や曳舟や新御徒町なんかにいかない。まず浅草を一通りマスターしてから、その周辺にとりかかっている。

新御徒町の佐竹商店街なんかはもう少し流行ってもよさそうなものだ。合羽橋商店街から少し足を延ばして新御徒町、そこから上野あたりまで歩いても大したことはない。

そんでこのオーバーツーリズムが一息ついたら外国人もバカではないから、だんだんにもっと空いてて快適なところへ移っていくだろうと思う。浅草の公衆便所の女子トイレなんかは行列ができていてもうひどいありさまだ。エキミセやROXなんかにいけばトイレはあるんだけど、初めて来た人にはどこのトイレが比較的空いているかなんてわかるわけがない。

話は戻るが奥湯河原というところは都心から近いわりにさびれてて空いているから箱根や熱海に飽きたら行ってみると良い。奥湯河原は掛け値なしで源泉間近の源泉かけ流しの温泉宿がある。こういうのは箱根湯本にはない。あまり知られてないのが不思議だ。テレビでもめったに取り上げないよな。

私が泊まったところは夕食も朝食もいかにも昭和の旅館という感じで、夕食はまあまあとして朝食は塩分の多い漬物、梅干し、味噌汁、アジの開きも塩辛く、年寄り客ばかりなのにこんなに塩分摂らせていいのか、今風な献立にしたほうがいいんじゃないかと思った。たぶんごはんを何倍もお代わりしなくてはこれだけの漬物は食べきれないが今どきごはんお代わりなんてしないよな。若者はもちろん年寄りはなおさら。

ともかくも滝のそばに建っている茶屋なんかも昭和遺産とでもいうべき熟成された味のあるところで、行ってみる価値はある。

真鶴や湯河原には楠木の原生林があるというのがとても信じられない。楠木が群生しているのはずっと昔に人の手が入っているからだろう。もし気候的に楠木の自然林ができるのであれば、真鶴や湯河原に似た場所は伊豆や静岡、房総半島や三浦半島あたりにいくらでもあるのだからそういうところにもできなくてはおかしいではないか。

伊豆山温泉の伊豆山神社や走り湯にも行ったのだが、ここはすごいところだった。湯河原からバス路線はなく、熱海からならばある。私は実朝の和歌で知っていたから一度行ってみたいと思っていたのだが、昭和39年に掘りすぎて一度枯渇してしまい、掘りなおしたとはしらなかった。

動画をyoutubeにあげておいた。

JRのえきねっとで湯河原から東京まで踊り子を予約していたのだが、熱海からに変更しようとしたらアプリからWebサイトに飛ばされてなんかうまくいかないので、もいっかいアプリに戻って払い戻ししようとしたらバグって、Webサイトで変更しようとしてもなんかうまくいかないのでしかたなく熱海駅の激混みの緑の窓口にならばされて、結論としてはたぶん、湯河原は神奈川県で熱海は静岡県で区間が違うせいか、チケットレスのせいかしらんが、ともかく Webサイトでいったん払い戻ししなくてはならないらしかった。

今から思えばすぐさま対応窓口に電話すればやり方を教えてくれたのだろうけど、JRはチケットレスしたけりゃもう少しなんとかしてくれと思った。得られた知見としては、JRは変更しようとしてはいけない、手数料はかからんからいったん払い戻ししろってことのようだ。知らんがな。

ヰタ・セクスアリス

ちと気になって「ヰタ・セクスアリス」を読んでみようと思ったらなんと冒頭に夏目漱石の話が出てくるではないか。

 金井湛しずか君は哲学が職業である。
 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道げどう哲学と Sokrates 前の希臘ギリシャ哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。殊ことに縁の遠い物、何の関係もないような物を藉かりて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳に留とめて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目まじめな講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。
 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかし若もし何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう積つもりで書いているものが、極きわめて滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却かえって悲しかったりする。
 金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。
 そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢ぎようを感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついつい嫌いやになってなんにも書かずにしまった。
 そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

森鴎外は小説でも翻訳でも何でも書く人だが、小説は1897年から1906年までちょっとした休止期があった。その後また小説を書くようになって1909年にはついに「ヰタ・セクスアリス」を書いて懲戒されてしまう。私はなんとなくこれは、夏目漱石が新聞小説を書くようになって、鴎外もそれに刺激されて、さらに自然主義というものが流行るようになって、鴎外も何か使命感のようなものを感じて「ヰタ・セクスアリス」を書いたんじゃないかなと思っていたのだが、その「ヰタ・セクスアリス」にそのへんの事情がそのまんま書いてあるではないか。

この金井君というのは半分くらいまでは鴎外自身のことだろう。鴎外が濫筆家であるのに対して金井君は何も書かない。そこだけが違っている。そりゃまあそうで、小説というものは虚構でなければならず、金井=作者ではまずすぎる。他人だということにしておかなきゃならないからねそこは。ましかし、田山花袋あたりの私小説というか自然主義小説っていうのかな。そういうのにも明らかに影響受けているよね。あー。蒲団は1907年かー。蒲団が許されるんなら俺も書いちゃおうかなーとでも思ったのかな。

鴎外はもともと漱石という人を知っていたのだろう。子規のことも知っていたのだろう。そりゃそうで鴎外はアララギ派に加わったのだから、1903年の時点で子規を知っていたし、子規の古くからの友人である漱石のことも知っていたに違いない。それで漱石が「吾輩は猫である」を新聞に連載し始めて、それが世間で大いに評判になったから、自分も何か書かずにはおれない気持ちになったんだと思う。

ていうかウィキペディアを読んでもそんなこと何にも書かれてないのだが、今まで誰もこのことに気付かなかったのだろうか?誰も指摘してないの?いやそんなはずはない。「ヰタ・セクスアリス」と「吾輩は猫である」の関係について研究した論文はあるはずだが、誰もそんなことには興味がないのだろう。

たとえば「作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。」「作者が悲しいとか悲壮なとかいう積つもりで書いているものが、極きわめて滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却かえって悲しかったりする。」というのは鴎外自身のことであろうし、「芸術品として見るのではない。」「芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。」と思っているのも鴎外であろう。鴎外は芸術品としての小説を書こうとして世間の評判がよろしくなかったから、しばらくやめていた。鴎外がどんな作品を書こうと思っていたかは初期の作品や日記をみれば明らかだろう。また芸術品と言うに足る小説とはたとえば彼が激賞した樋口一葉の小説のようなものをいうのだろう。

「技癢」とは何かがしたくてむずむずうずうずすること。鴎外も『猫』や『蒲団』を読んで、技癢を感じていたのだ。秀才で、良いとこのボンボンで、好奇心旺盛で、何でも自分でやってみなくては済まない人だったんだと思うなあ。

それはそうと成島柳北も「航西日乗」という紀行文を書いていてしかもそれはすべて漢詩だけでできている。鴎外は柳北の「航西日乗」を見て自分も日記を書こうと思ったのに違いない。だからあんなにやたらと詩が多いのだ。こうしてみていくと鴎外という人はけっこう人に影響されることが多いような気がする。

成島柳北「航西日乗」から少々詩を引用してみよう。かなりひどい詩が多い。

回頭故国在何辺 休唱頼翁天草篇 一髪青山看不見 半輪明月大於船

見渡す限り青海原で陸地は見えない。頼山陽が天草あたりで大海原の詩を作ったが、俺様はもっと遠くまできたんだぞ。海に浮かぶ半月は船よりも大きく見える。

幾個蛮奴聚港頭 排陳土産語啾啾 巻毛黒面脚皆赤 笑殺売猴人似猴

現地人がたくさん港に集まり土産物を並べてぺちゃくちゃしゃべっている。巻き毛、黒い顔、赤い足。サルを売っている人間がサルに似ていて思い切り笑った。

成島柳北やっぱ面白い人だわ。永井荷風に好かれてたのもわかる。

ついでに頼山陽の詩「泊天草洋」も引用しておく。

雲耶山耶呉耶越 水天髣髴靑一髮 萬里泊舟天草洋 烟橫篷日漸沒 瞥見大魚波閒跳 太白當船明似月

雲か山か呉か越か 海と空の境が一筋の青い髪のように見分けがたい 万里の旅をしてきて天草灘に船宿りする 窓の外にはもやがかかり日はようやく沈もうとしている 大魚が波間に跳ねるのが見えた 宵の明星が船の上に出て月のように明るい

航西日記8

6日、波風は昨日と同じ。午後4時、サルディーニャ山脈を望む。10時、コルシカとサルディーニャの間を過ぎる。コルシカはナポレオン一世が生まれた地であり、サルディーニャの一島にはガリバルディの旧宅がある。今その境を過ぎて心を打たれずにはおれない。詩を二つ作る。曰く、

往事如雲不可追 昔の事は雲のように過ぎ去り追うことはできない
英雄故里水之涯 水辺の英雄の故郷
他年席捲欧州志 かつて欧州を席巻しようと志した者も
已在小園沈思時 今は小さな園に永眠している
赫々兵威及米州 赫々たる兵威はアメリカにも及んだ
平生戦闘捨私讐 平生の戦闘では私讐を捨てた
自由一語堅於鉄 自由の一語は鉄よりも固い
未必英雄多詭謀 英雄が危謀を多く用いたとは必ずしも言えない

7日、雨。午後2時、フランス国マルセイユに着く。一時的に停船を命じられて上陸が許されない。そこで黄色い旗を掲げて船を退かせて、港の入り口にある一島に停泊する。4時になってやっと入港することができた。ポートサイドからここに至るまで2017里、船の中で詩をいくつか作った。雑詩に言う、

果てしない風と潮に一隻の船を浮かべてから
目に入る山の姿も絶えてない
闇夜にかかる一輪の月だけが
万里相伴って客の愁いを照らし慰めてくれた
透き通るような肌 金髪 青い瞳
髪飾りがちらりとみえれば心はさらに勇み立つ
浮き草が漂いヨモギが転ぶような危険があろうと恐れない
月明かりと歌舞が船の中にある

同行の諸氏に言うようなつもりで

みんなで同じように海外の雲に翼を広げて
兵事を談じたと思えばまた文事を論じ合う
こんな奇縁をいつの間に結んだのだろうか
こんな人間関係はただの雀やツバメの群れでは無い

某フランス人に贈って言う、

聞くところによればあなたは何年も税関に勤務したそうだ
異境の地にいるうちに容貌も変わってしまったあなたを憐れむ
あなたは再び颯爽として一家とともに
妻子を連れ立って故郷に帰っていく

海の光のことを記して言うには、

夜光何獨說秋螢 夜光るものは秋の蛍だけではない
水族幺麼却有靈 ごくちいさな海棲生物にも魂があるのだ
怪底無星又無月 星もなくまた月も無い怪しげな海底に
金波萬頃湧滄溟 金色の波が広々とした青海原に湧いている

海の光は海中の微生物が放つものである。船の波に刺激されて暗い夜に発光する。

船が港に入ると厄涅華ホテルの主管が出迎えた。そこで荷物を託してともに税関を通った。税関の役人が問うて言うには、紳士か、そのとおり、また言う、タバコや茶を持っているか、無い。それ以上は調べなかった。

7時にホテルに投宿する。時に雨がそぼふって深秋のように寒い。詩を作る。

頭を巡らせば故郷の山は雲路に遙かである
四十日間船の中にいて無聊を嘆いていたが
今宵はマルセイユ港埠頭の雨に降られている
旅人の愁いをすっかり洗い流してくれるようだ

また、

人がひっきりなしに通行し肩を触れあわんばかりだ
道を照らすガスライトが幾万とある
驚くことに激しい雨や冷たい雨の夜にも
その光は空の月明かりのように明るく照らす

8日、午餐の後に設哩路速家に着いて記念撮影する。午後1時、田中、片山、丹羽、飯盛、隈川、萩原、長與ら諸氏は先発する。ストラスブール方面へ行くためである。6時に汽車に乗りマルセイユを出発する。一等の車両は四区画に分かれており、一区画に二人が入る。ずっと座ってもいられないので、別に寝室を借りる人もいる。夜、リヨンを過ぎる。月や星がキラキラと輝いている。肌寒い。詩を作る。

秋の空に月が明るく輝いている
塔の先端にも木の梢にも
暑い町も冷たい村もあっという間に通り過ぎた
詩を作っても推敲しているひまがない

9日早朝、田野の間を過ぎる。綿の葉はすでに枯れ、菜の花は半ばしぼんでいる。木を植えて畝を耕すのは日本と変わりない。鳩が群れ飛ぶのを見ると、背は黒く腹が白い。農家はみな小さい。ただ、石畳を敷いているのが異なっている。午後10時、パリに至り、咩兒珀爾ホテルに泊まる。佐藤佐と出会う。佐は長い間ベルリンに留学していた。今はまさにマルセイユに行こうとしている。木戶正二郞が病気に罹ったので送るのである。夜「夜電」部劇場を見る。客は6000人、客席は4層になっている。俳優には男も女もいる。イタリア人が多い。演じられた戯曲の名称は「宮中愛」である。およそ四つの場面に分かれている、最初は名妹が王に謁見する。次は壮士が決闘する。次は英雄が凱旋する。最後は夜の宴。女優の名妹に扮する者は媚態をまきちらして人の魂を虜にする。別に一場面があった。「騒擾の夜」という。波瀾万丈で観客は絶倒した。劇場内の器具は精緻を極めている。あるものは鏡で影を映し、あるものは色とりどりの照明を使っている。明月が林を照らしたり、噴水がしぶきをあげたりするのは、ほとんどほんものそっくりである。この日、佐藤氏に詩を贈る。

あなたと別れて三年が経った
あなたはずっとドイツにいた
思いもしなかったパリ城外の月に照らされて
暫時手を取り合って別れのつらさを語り合うとは

10日、公使館に着く。午後8時、汽車はパリを出発する。車両の両壁に鉄道図が貼ってある。ブレーキがかかっていて、急な時にこれを引っ張ると車両を停めることができる。また窓の上に小さな穴を空けて換気することができる。はなはだ便利である。

11日午前7時、ドイツ国ケルンに達する。私はドイツ語を解する。ここに来てやっと人の言葉がわかるようになった。愉快だ。午後8時30分、ベルリンに至る。ドイツ皇帝がホテルに訪れる。田中、片山らを問うに、皆まだ到着していなかった。

本文

初六日。風波如昨。午後四時望泪第尼山脈。十時過哥塞牙、泪第尼之間。哥塞牙者拿破崙一世所生之地。而泪第尼一島有加里波第之故宅。今過此境。不能無感。賦詩二首。曰。往事如雲不可追。英雄故里水之涯。他年席捲欧州志。已在小園沈思時。赫々兵威及米州。平生戦闘捨私讐。自由一語堅於鉄。未必英雄多詭謀。

初七日。雨。午後二時抵佛國馬塞港。偶有停船法。不許上陸。乃揭黃旗退舟。泊于港口一嶋。至四時。纔得入港。自卜崽至此二千零十七里。舟中得詩數首。雜詩曰。森漫風潮泛隻舟。絕無山影入吟眸。可憐碧落一輪月。萬里相隨照客愁。氷肌金髮紺靑瞳。巾幗翻看心更雄。不怕萍飄蓬轉險。月明歌舞在舟中。似同行諸子曰。鵬翼同披海外雲。談兵未已又論文。奇緣何日曾相結。不是人間燕雀群。贈佛人某曰。聞說多年官稅關。殊鄕憐汝改容顏。飄然又作全家客。手拉妻兒向故山。記海光之事曰。夜光何獨說秋螢。水族幺麼却有靈。怪底無星又無月。金波萬頃湧滄溟。海光者水中微生物之所放也。舟激波。則昏夜見之。舶之入港也。厄涅華客舘主管來迎。廼托以行李。俱至稅關。々吏問曰。紳士乎。曰然。曰有烟茶否。曰無。則不復査矣。七時投於客舘。時細雨霏々。冷如深秋。有詩。囘首故山雲路遥。四旬舟裏歎無聊。今宵馬塞港頭雨。洗盡征人愁緖饒。又行人絡繹欲摩肩。照路瓦斯燈萬千。驚見凄風冷雨夜。光華不滅月明天。

初八日。午餐罷。至設哩路速家撮影。午後一時。田中、片山、丹羽、飯盛、隈川、萩原、長與、諸子先發。以取道於斯都刺士堡也。六時乘汽車。發馬塞。一等車箱。分爲四區。每區容二人。可坐而不可臥。故有別買寢室者。夜過里昂府。星月皎然。寒氣侵膚。有詩。淸輝凛々秋天月。影自塔尖遷樹梢。熱市冷村塵一瞥。無由詩句費推敲。

初九日早。過田野間。綿葉已枯。菜花半凋。植木畫畝。與我無殊。有鳩群飛。黑背白腹。農家皆矮小。唯磚石疊成爲異耳。午前十時至巴里。投咩兒珀爾客舘。邂逅佐藤佐。佐久留學於伯林。今將赴馬塞。送木戶正二郞有病歸鄕也。夜觀「夜電」部劇塲。容五千人。設座四層。俳優有男有女。多伊太利人。所演之戲。名「宮中愛」。凡四齣。曰名姝謁王。曰壯士決鬪。曰英雄凱旋。曰夜宴簪花。女優扮名姝者。媚態橫生。使人銷魂。別有一齣。名「騷擾夜」。戲謔百出。觀者絕倒。塲中器具。極其精緻。或借鏡影。或用彩光。若明月照林。噴水籠烟。殆不可辨其眞假也。此日贈佐藤氏詩。別來倐忽閱三秋。期爾依然在德州。豈憶巴黎城外月。暫時握手話離愁。

初十日。至公使舘。午後八時。滊車發巴里。車箱兩壁。貼鐵道圖。懸槓杆。有急之時動之。可停車行。又窓上設小孔換氣。甚便。

十一日。午前七時。達德國歌倫。余解德國語。來此。得免聾啞之病。可謂快矣。午後八時三十分。至伯林府。投於德帝客舘。問田中、片山等。皆未到也。

註

厄涅華ホテル。不詳。

設哩路速家。不詳。

斯都刺士堡。ストラスブールか。

咩兒珀爾ホテル。不詳。

外国地名および国名の漢字表記一覧。役に立ちそうで立たんかった。

航西日記7

10月1日。秋のように涼しい。寒暑計の針は67度。午前6時、スエズ港に至る。アデンからここに至ること1314里。スエズ港は紅海が尽きる所、見渡す限り赤い野であり、通年雨が少ない。アレクサンドリアまで鉄道が通じている。10時、船が出発して運河に入る。運河は長さ100海里。深さは72フィート。幅員はそんなに広くはない。巨艦どうしがすれ違うときには一方を待避させて他方を通す。南のスエズから来たのポートサイドに至る。エジプト王アリーが開鑿した。工事を監督したのはフランス国の学士レセップス氏である。竣工は15年前であるという。緑の木を周りに植えた家が河口にある。おそらく収税所であろう。河に入ると両岸の土の色はみな黄色である。薄が芽を出しているものがある。また水柳がある。堤防の上に電線が数本架かっている。所々に板屋を建てて河を守る者がここにつめている。また小汽船で川底をさらっている。夜は月が明るい。河の中に停泊する。詩を作る。

河をさらって破天荒な功績を成した
地下でまさにナポレオンも驚いたことだろう
人が喜望峰を巡ることもなくなり
十五年が経ってその名はむなしくなった

ナポレオン一世がエジプトを征服したとき運河を作ろうとしたができなかったことを二行目は言っている。

6時に船出する。地中海に入る。寒暑計の針は76度。

3日、船はどんどん走る。しかもいつもよりも安穏である。

4日、カタニア島を望む。これは欧州の地をみる初めである。

5日、波風が起こり、船は揺れて止まらない。イタリア山脈を望む。草木は少ないが谷地が多くやや湿り気を帯びていてアラビアの死の山とは比べようもない。だんだんに山麓に近づくと村落や田園、鉄道、橋梁などが見え、樹木も繁茂している。エトナ山を望むと雲がかかっていてはっきりと見ることができない。

晩にシチリア海峡を過ぎる。船が海峡を行く間、水面はほぼ平らであった。メッシーナの町が目前にある。詩を作る。

帆を二つまたは三つかけた船が浮かぶ
海峡の潮流が紫の嵐を隔てている
楼台がいくつか見えるがまだ灯をともしていない
夕べの霧がメッシーナを深くとざしている

夜、雨が降る。

本文

十月初一日。氣冷如秋。寒暑針六十七度。午前六時。至蘇士港。自亞丁抵此千三百十四里。蘇士港在紅海盡處。四境赤野。累年少雨。有鐵路通歷山府。十時放舟入運河。運河長百海里。深七十二英尺。幅員不甚濶。巨艦相逢。則避一過一。南起於蘇士。北至於卜崽。埃王鵶禮所鑿開。而督工者爲佛國學士列色弗氏。其成功在十五年前云。河口有屋。環植翠樹。盖收稅衙也。入河。則兩岸土色皆黃。有芒抽芽。又有水楊。堤上架電線數條。所所築板屋。守河道者居之。又有小滊船。濬治河道。夜月明。泊河中。有詩。濬河功就破天荒。地下應驚佛朗王。喜望峯前人不到。名虛十有五星霜。〈初拿破崙一世征埃及。欲開河道。不果。第二故及。〉

初二日。行河中。有水禽蹴浪而飛。嘴喙甚大。岸上土人乗駱駝而行。旋風時起。捲砂若柱。堅立数十丈。沙接天処。望之如海。蓋野馬也。至午望綿楂勒湖。見漁父挽網。自蘇士至卜崽。有四湖。緜楂勒湖其一也。午後二時。至卜崽港。則湖北之一沙嘴也。買舟上陸。街上多「尼泪爾弗」樹。土人牽驢勸乗。有楽堂。入而聴焉。堂容二百人。正面爲楽手設座。男五人女十五人。各執楽器。管絃合奏。頗適人耳。每曲終。女子降座乞銭。有詩。水狹沙寬百里程。月明兩岸艸蟲鳴。客身忽落繁華境。手擧巨觥聞艷聲。六時開行。入地中海。寒暑針七十六度。

初三日。舟行甚駛。而安穩異常。

初四日。望干第呀嶋。是爲視歐洲土壤之始。

初五日。風波起。舟蕩搖不止。望伊太利山脈。雖少草木。而皺紋緻密。稍帶生氣。非亞刺伯死山之比也。漸近山麓。則見村落、田園、鐵路、橋梁。樹木亦繁茂。望葉多䏧山。烟雲晦冥。不可明視。晚過細々里海峽。舟行峽中。水面稍平。墨西南府在目睫間。有詩。蒲帆兩々又三々。一帶潮流隔紫嵐。多少樓臺燈未點。暮烟深鎖墨西南。夜雨。

註

埃王鵶禮。直訳すればエジプト王アリーか。おそらくオスマン朝皇帝ムハンマド・アリーのことを言っているのだと思われる。