ドナルド・キーン2

続き。
ドナルド・キーンは

> 宋代の美学は、日本に非常に影響を与えています。

> 和歌の場合でもそうだと思いますが、特に京極派とか冷泉派の和歌の場合は、圧倒的に影響が強いですね。
そもそも定家の場合でもそう言えるのじゃないですか。

などと言っている。
別にここは目くじら立てるようなところではないのかもしれないが、
いったい何が言いたいのかわからない。
もちろん定家以降の和歌には漢詩や禅などの影響が強いのだが、定家、京極派、冷泉派などと例示するならするで、
では定家のどこが、京極派のどこが、冷泉派(二条派という意味だろうが)のどこがどう影響を受けたのか言ってもらわないと困る。

> 南宋の文化は、日本に一番影響を与えたと思います。
そのあたりの詩歌は、日本人の趣味にぴったり合っていた。
感情的であって、あまり雄大なテーマはとりあげない。
むしろ年を取ることがどんなに悲しいかとか、自分の生活がロウソクのようにだんだん消えていくとか、
それは日本人にとってわかりやすい、しみじみとした表現だったでしょう。

などとも言っているところを見ると、やはり何か勘違いをしているとしか思えないのだが。
感情的で日常茶飯な歌もあるがそうではない歌もたくさんあるからだ。
司馬遼太郎との対談は失敗だったのではないか。というのは、ドナルド・キーンはものすごく正直に、
自分の思ったことを言っているのだが、司馬遼太郎はその認識の誤りを指摘も訂正もできてないからだ。

キーン:

> 本居宣長などは、純粋のやまとことば、つまり当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことばで、
自分の作品を書きましたが、なるべく穢い外来のことばを避けるために、不思議な、まったく不自然な日本語を創作した。

司馬:

> あまり日本的なものとしてがんばりすぎると、いやらしいものになる。
宣長さんがいやらしいかどうかは別として、あれは不自然なんです。
ぼくは…小林秀雄さんにも申し上げてみたのですけれど、…あの文章を読むと生理的な不快感があるのです。

> たとえば「玉勝間」というのは、何か細工物を見ているみたいな感じで、心が生き生きとおどってこない。

などと言っている。
ここで、いくつか認識に誤りがある。
まず、少なくとも玉勝間は、ただの随筆であって、「当時の日常生活に使用されていることばとまったく違うようなことば」
で書かれているわけではない。漢語もたくさん混じっている。
もちろん国学者独自のやまとことばによる言い回しも多いけれど、それは国学について書いているわけだから仕方ないことだ。
玉勝間には国学とは関係ないほんとに普通の随筆も混ざっている。
漢文の公家の日記を延々引用しただけのものもある。
おそらくあれは、普段宣長がしゃべっていたのにかなり近い言葉で書いたものだろう。
「うひ山ぶみ」「排蘆小船」などの歌論も同様だ。
少なくとも私には「細工物」というよりは宣長の「肉声」を感じる。
また、日記にはほとんど漢文調のものもある。
[享和元年日記](/?p=6221)など。
「こまけえことはいいんだよ」レベル以上の事実誤認だ。

当時和歌は極力やまとことばだけで詠まれた。
柔らかいやまとことばだけで歌を詠むというのは、ずっと続いてきた伝統であり、
その代わり詞書きや題などには漢語が使われる。
そういう区別はずっとあった。少なくとも宣長が創作したのではない。
また小林秀雄にも申しあげたのだが、などと言っているが、小林秀雄は別段宣長の文章をおかしいとは思わなかっただろう。
ドナルド・キーンや司馬遼太郎など、宣長からかなり遠いところに位置する人には、
不自然なものに思えるだけではなかろうか。
心が生き生きとおどってこない、というのも、結局宣長は偉い学者だと思っているだけで、
その歌論にも思想にもまったく関心がないのに違いない。
だから、宣長の文章が何か古代の祝詞をむりやり現代に復活させたようなものに思えるのに違いない。
むしろ、宣長以外の誰かが書いたへたくそな擬古文の印象のせいなのではないか。
たとえば、源氏物語や平家物語などを読んだあとに宣長の文章を読めば、そりゃあ不自然な感じはするでしょうよ。
それはだけど仕方ないことだろう。

実際司馬遼太郎は別のところでもしばしば宣長は偉い学者だとは言っているが、
では宣長のどこが偉いかとかどこが好きかなどということはまるで言ってない。
結局彼は秀吉や龍馬のような人物が好きであり、勝海舟や北条泰時や本居宣長のような人間には関心がないのだ。
ただそれだけだと思う。

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