宣長の違和感

ドナルド・キーンや司馬遼太郎が宣長の文章に違和感を感じているという件だが、これはやはり何かの勘違いなのではないかと思えてきた。

もし宣長が、普通の学者のように、古今以降新古今的な言葉遣いだけを用いていたら、たぶんキーンも司馬も違和感は感じなかっただろう。現代人は新古今的なものや古今的なものは抵抗なく受け入れられるからだ。小倉百人一首などの古典のおかげだろう。

しかし宣長はそれ以前の記紀万葉や祝詞などを発掘した人なわけで、おそらく現代人はそういうものを聞くと激しく違和感をおぼえると思う。たとえば神主さんが祝詞をよみあげるわけだが、普通の人は意味がわからないから違和感もないだろうが、意味をわかって聞くと相当にへんてこな気分がするだろうと思う。私ですらそうだから、司馬やキーンなどもそうなのに違いない。ちなみに私は七五三や結婚式などで神主さんの祝詞を耳で聞いてほぼ100%理解できた。別に難しくもなんともない。あれがいわゆる擬古文というものだ。ふだん古典文法で和歌を詠む訓練をしていればあんなものはどうということはないのだ。

しかし、宣長が記紀万葉の言葉使いをしているところは彼の著作のほんの一部だ。玉勝間の中でも一部にしか出てこない。多く出てくるのは、私はあまり読んだことがないのだが古事記伝あたりだろう。そういう、一部の印象でもって判断しているのではないか。宣長の文章にはそういう雑多なものが混ざっている。漢文も、新古今も古今も、江戸風の言い回しも。その違いがわからず、つまり意味もわからず、ただなんとなく宣長の文章を読んでいたらちょうど車酔いのような気分になるだろう。それが違和感なのではないか。ははあここは祝詞だな、とか、ここはわざと万葉調に書いてるな、ここはどうも日常語らしいな、などとわかって読めば別にさらっと読めると思うのだが。

それから、万葉の古語を最初に発掘したのは賀茂真淵だから、宣長が「創作」したというのは当たらない。「創作」という言葉にも何か悪意を感じるな。

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