ドナルド・キーン3

ドナルド・キーンの「足利義政」を読んだ。ハードカバーだが、文章量はさほどない。それをさくっと読んだ感想だが、やはり、この人自身が、義政の東山文化にしか興味がなく、というか東山文化に興味をもったために義政に行き付き、その施政に疑問を持ち、いろいろ調べてみたが、西洋的な為政者のイメージとあまりに違っていてわけわからん、というのが結論らしい。

思うにドナルド・キーンは明治天皇を褒めすぎで義政をけなしすぎ。確かに明治天皇は偉大な人で、外国人から見ても日本人から見ても驚嘆すべき存在なのだが、ここまで褒めるのは何か偶像視しているようで違和感がある。明治天皇は偶像ではない。実在した生身の君主だ。逆に義政も悪政者の偶像ではない。

たぶん、ドナルド・キーンという人は、明治天皇と義政以外の日本の為政者は描けない人なのだろう。事実、彼は義教を義政の父として紹介しているのだが、実に平板な、恐怖政治を敷いたために暗殺された人、みたいな描写になっている。なんとも観察が浅すぎる。そんな文章なら大学生のレポートでも書くだろう。極端な例をさらに誇張して書くことしかできないのであれば、日本の歴史に現れたさまざまな功労者たちをどうやって顕彰できようか。日本史全体の流れをどうやってとらえられようか。そういうつまみ食い、文脈を無視した切り出しは許せない。

日本外史は、そうはなってない。将門・純友の乱から始まり、前九年の役、後三年の役、保元の乱、平治の乱、源平合戦、承久の乱、建武の新政、南北朝の争乱、と読んでいくうちに、頼山陽が主張したいテーマというものが一本につながってわかってくる。なぜ天皇は失政を繰り返したのか。なぜ武家政権が起こったのか。なぜ武士らが皇位の継承や領国支配に干渉せねばならなかったか。もちろん個々人の活躍もあるのだが、日本外史が主張したいのはその日本史のコンテクストというものだ。しかしつまみ食い派の司馬遼太郎やドナルド・キーンにはその観点はない。そしておそらく、今の日本史教育にもそれはない。

なるほど、キリスト教やイスラム教では貧民に施しをする喜捨の習慣がある。美徳と言ってもよいかもしれん。しかし、内村鑑三も言うように、彼もキリスト教徒だが、一万円の金を一万人に一円ずつ配るよりは、その一万円の金で新しい事業を興した方が世の中のためにはなるだろう。その一万円が雇用を生み産業を生んだら何百万円の価値に増えるからだ。目の前の貧民に施しをしなかったから悪人であるというのはあまりにも短絡的ではないか。

内村鑑三の意見はエントロピー的にも正しい。一円の金を集めて一万円にするにはたいへんなエネルギーが要る。或いは、金儲けという才能、或いは運が要る。しかし一万円を一円ずつばらまくのは極めて簡単だ。労力は要らない。運も要らない。そしてばらまいたものは二度と戻っては来ない。仮にその一万円の投資が失敗しても、誰かにその金は渡っているのだから、世の中全体として無駄になったわけではない。

私なら知人で困っている人(かつ好意を持っている人)には何らかの援助をすることもあるかもしれんが、マスコミやら慈善団体を通じて寄付や募金をするということはしないと思う。自分のお金がどう使われるか、どんな人間に渡るのかコントロールできないのだから。

司馬遼太郎にしても、海軍を褒めすぎて陸軍をけなしすぎ。実際には海軍にもいろんな暗部恥部があったに違いない。陸軍とそれほど大した違いはないはず。なるほど東郷平八郎は偉大な提督だったかもしれんし、乃木希典には致命的な欠点があったかもしれんが、トータルで見たときに、組織として、陸軍と海軍のどちらかが悪でどちらかが善、という描写をするのは極めて危険だと思う。もし彼が単なる娯楽小説として書いているならばともかく、第二次世界大戦の敗北の遠因を分析しているつもりだとすれば、明らかに間違っていると言えよう。それは、幕末や戦前の危険思想家とどれほどの違いがあろうか。

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