皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、
後嵯峨天皇あたりで力尽きた。
余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。
Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。
かなり Inkscape に熟練した。
後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。
後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。
この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。
だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。
またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。
桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。
皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。
その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。
道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。
妃や子供の数が明らかに減っている。
たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。
その後も天皇家はどんどん衰退していく。
天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。
光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。
自分の息子が親王になれるならともかく、
法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。
> 光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。
「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。
「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。
「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。
源光(845-913)。
母は宮人・百済王豊俊の娘。
百済からの帰化人の家系。
源多(みなもとのまさる)という兄がいた。
この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。