光源氏

宣長の紫文要領には

> 光は此の君の諱のやう也。高麗人のつけ奉りたるよし、桐壺の巻に見ゆ。

とある。しかし、wikipedia には

> 「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称で、本名が「光」というわけではない。

などと書いてある。
たとえば岩波文庫「源氏物語」の「桐壺」を読んでも、高麗人が人相を見た、
父の帝が源氏を賜った、とは書いてあるが、この御子を「光るの君」などと具体的に呼んだ、名付けたとはどこにも書いてない。宣長が読んだ写本が異なるのだろうか。

昔の中国では、諱は生まれた直後に付けるのではなく、
六、七才になってから付けるのだそうだ。
諱という風習はもともと日本古来のものではなく、
中国を真似て出来たものに違いない。
少なくとも、万葉時代の諱(人麻呂、赤人、田村麻呂)などではなく、
平安時代の源氏の一字の名前、襄(のぼる)、順(したがう)、挙(こぞる)、貞(さだむ)
などの名は、中国の影響によるものに違いない。

源光(みなもとのひかる)という名前だった可能姓は捨てきれないのではないか。
源氏物語の解釈に本居宣長の説は決して軽んじられてよいものではない、と思う。

いろいろ調べてみるとすぐにわかることだが、源氏物語の最古の写本は鎌倉時代のものだ。
鎌倉時代と言っても、150年くらいの幅があるわけだが、西暦1200年より後だとして、
源氏物語が書かれたのは道長の時代だから1000年くらい。
200年の隔たりがある。
これは恐ろしいことだ。
新約聖書ですら、イエスが死んで50年後くらいにはだいたい出来ていたのが、
それでも本当のイエスがどんな人だったのかはわからなくなってしまっている。
平家物語もだいたい事情は同じだ。
源氏物語のように200年も経つとどうなってしまうのか。

そもそも原文には「光源氏」「光る源氏」という単語はほとんど出てこない。
本文中にも一箇所「帚木」の冒頭に出てくるだけ。
この、「光源氏」という呼び名は、源氏物語が出来てしばらくたってから一般化したものなのだろう。

たとえば、似たような例として、
藤原俊成の古来風体抄がある。
俊成がこんなに長くて体系的な歌論を書いたはずがない。
定家や後鳥羽院ですら短い、または断片的な歌論しか書いてない。
俊成の歌論をこのような形に「完成」させたのはずっと後の世の人だ。
この時代のものは、もっと疑ってかかった方がよいのではないのか。

紫式部がいきなりあのような長編小説を書いたと考える方が間違っている、と考えるべきではないのか。
最初は帚木、夕顔、若紫、末摘花辺りしかなかったのではないのかとか。

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