日本随筆大成

日本随筆大成が国会図書館デジタルコレクションの送信サービスですべて見れることがわかり、いつでも読めるようにリンク集など作っているところだ。

この日本随筆大成は昭和2年から4年にかけて出版されたとんでもない力作なのだが、随筆と言っても江戸時代のものばかりで、古くて林羅山くらいから、新しいのでは勝小吉の夢酔独言とか成島柳北などは入ってない。漢文の随筆もない。新井白石の折たく柴の記、上田秋成の胆大小心録みたいな特に有名なものもわざと入れてないようだ。水戸光圀の西山公随筆や松平定信の花月草紙なんかは入っている。新しい人では八田知紀の桃岡雜記が入っている。

第一部から第三部まであって、編集者は交代していって、戦後に吉川弘文館が再版している。

戦前に出たものは著作権切れているんだから、さっさと一般公開してもよさそうなものだが、国会図書館のアカウントさえあればオンラインで読みたいときに読めるのでよしとする。これだけの本を買い集めるには相当金がかかるしそもそも本で家が埋もれてしまう。出版社にとってはつらいが読書するには良い時代になったと言うべきか。いずれにしてもこの手の本は図書館にいけば無料で読めるので、わざわざ読もうという人は図書館に行くだろうし、そうでない人は最初から読もうとさえしないだろう。

和漢三才図会、甲子夜話などは東洋文庫にもある。

だいたい世の中は随筆といえば「枕草子」と「徒然草」を読んでおけばそれで足りると思っている人がほとんどであろう。二百五十年の江戸時代とは実に長い時代だった。明治維新から現代までにさらに五十年足した長さだ。その長い長い近世に日本人はこんなにたくさん随筆を書いたのだ。これらをみんな読めば江戸時代のおそるべき長さを実感できるだろうと思う。とりあえず大田南畝の一話一言あたりから読んでいこうかな。


1-1 梅村載筆(林羅山)/ 筆のすさひ(菅茶山)/ 覉旅漫錄/ 仙臺閑語/ 春波樓筆記/ 瓦礫雜考/ 紙魚室雜記/ 桂林漫錄/ 柳亭記/ 尙古造紙揷/
1-2 雲錦隨筆/ 松屋棟梁集/ 橿園隨筆/ 近世女風俗考/ 蘿月庵國書漫抄/ 畫譚雞肋/ 煙霞綺談/ 柳亭筆記/ 磯山千鳥/ 橘窓自語/
1-3 玄同放言/ 都の手ぶり/ 織錦舍隨筆/ 睡餘小錄/ 八水隨筆/ 歷世女裝考/ 書僧贅筆/ 楢の落葉物語/ 金曾木/ 鋸屑譚/
1-4 上代衣服考/ 雨窻閑話/ 屋氣野隨筆/ 寸錦雜綴/ 半日閑話/ 泊洦筆話/ 辨正衣服考/ 心の雙紙/
1-5 過庭綺談/ 嚶々筆語/ 花街漫錄/ 遠碧軒記/ 風のしがらみ/ 著作堂一夕話/ 海人のくゞつ/ 遊藝園隨筆/ 善庵隨筆/
1-6 古老茶話/ 秉燭譚/ 四方の硯/ 梅園叢書/ 野乃舍隨筆/ おもひくさ/ 閑窻瑣談/ 還魂紙料/ 擁書漫筆/ 西洋畵談/
1-7 思ひの儘の記/ 用捨箱/ 向岡閑話/ 撈海一得/ 松陰隨筆/ 槻の落葉信濃漫錄/ 蒹葭堂雜錄/ 文會雜記/ 閑窻瑣談(後編)/ 畏庵隨筆/
1-8 北邊隨筆/ 燕居雜話/ 骨董集/ かしのしづ枝/ 幽遠隨筆/ 松屋叢考/ 宮川舍漫筆/ 駒谷芻言/
1-9 古今沿革考/ 異說まち/ 閑際筆記/ 獨語/ 又樂庵示蒙話/ 南嶺子/ 南嶺子評/ 世事百談/ 閑田耕筆/ 閑田次筆/ 天神祭十二時/
1-10 筆の御靈/ 東牖子/ 嗚呼矣草/ 齊諧俗談/ 一宵話/ 昆陽漫錄/ 續昆陽漫錄並補/ 南嶺遺稿幷評/ 秉穗錄/ 花街漫錄正誤/
1-11 年々隨筆/ 嘉良喜隨筆/ 烹雜の記/ 三のしるべ/ 好古目錄/ 好古小錄/ 奇遊談/ 茅窻漫錄/ 庖丁書錄/ こがねくさ/
1-12 耽奇漫録
一話一言(大田南畝) 上 / 下 /
嬉遊笑覧(喜多村信節) 上 / 下
和漢三才図会(寺島良安) 上 / 下

2-1 兎園小說/ 草廬漫筆/ 松屋叢話/ 提醒紀談/ 圓珠菴雜記/ 假名世說/ 一時隨筆/ 梅の塵/ 當代江都百化物/(787)
2-2 筱舍漫筆/ 萍花漫筆/ 兎園小說外集/ 兎園小說別集/ 八十翁疇昔話/ 牟藝古雅志/ 雲萍雜志/ 閑なるあまり/ 畫證錄/
2-3 兎園小說餘錄/ 兎園小說拾遺/ 保敬隨筆/ 梅園拾葉/ 新著聞集/ 雉岡隨筆/ 三養雜記/ 淸風瑣言/ 尤の草紙/ 近世奇跡考/
2-4 它山の石/ 筠庭雜錄/ 勇魚鳥/ 蜘蛛の糸卷/ 橘牕茶話/ 一擧博覽/ 萍の跡/ 筠庭雜考/ 目さまし草/ 反古籠/ 閑窻自語/ 雜說囊話/
2-5 玉石雜志/ 二川隨筆/ 飛鳥川/ 續飛鳥川/ 江戶雀/ 積翠閑話/ 尾崎雅嘉隨筆/ 閑窻筆記/
2-6 梅翁隨筆/ 櫻の林/ 新增補 浮世繪類考 附戱作者略傳/ 笈埃隨筆/ 玲瓏隨筆/ 十八大通/ 本朝世事談綺/
2-7 河社/ 多波禮草/ 本朝世事談綺正誤/ 桑楊庵一夕話/ 隣女晤言/ 蓴菜草紙/ 足薪翁記/ 奴勞師之/ 比古婆衣/ 西山公隨筆/
2-8 南留別志/ 可成三註/ 非なるべし/ 南留別志の辨/ あるまじ/ ざるべし/ 北窻瑣談/ 酣中淸話/ 三省錄/ 火浣布略說/ 年山紀聞/
2-9 遊京漫錄/ 胡蝶庵隨筆/ 柳庵隨筆初編/ 柳庵隨筆/ 柳庵隨筆餘編/ 曲肱漫筆/ 薰風雜話/ 立路隨筆/ 北國奇談巡杖記/ 南屛燕語/ 答問雜稿/
2-10 楓軒偶記/ 諼草小言/ 南柯の夢/ 猿著聞集/ 燕石雜志/ 靜軒痴談/ 閑散餘錄/ 於路加於比/ 只今御笑草/ 夏山雜談/
2-11 折々草/ 難波江/ 下馬のおとなひ/ 松の落葉/ 蜑の燒藻の記/ 闇の曙/

3-1 傍廂/ 傍廂糾繆/ ねざめのすさび/ 理齋隨筆/ 花月草紙/ 浪華百事談/ 異本洞房語園/ 洞房語園異本考異/ 洞房語園後集/ 筆のすさび(芝屋随筆 橘泰)/ おほうみのはし/
3-2 中陵漫錄/ 柳庵雜筆/ 古今雜談思出草紙/ 俗耳皷吹/ 消閑雜記/ 賤のをだ卷/ 醒睡笑/ 近世商賈盡狂歌合
3-3 天朝墨談/ 蒼梧隨筆/ 梅窓筆記/ 關の秋風/ 浪華の風/ 癎癖談/ 三餘叢談/ とはずかたり(中井甃庵)/ 近來見聞噺の苗/ 駿臺雜話/ むさしあぶみ/ 南向茶話/
3-4 後松日記/ 妙々奇談/ 見た京物語/ 天野政德隨筆/ 凌雨漫錄/ 莛響錄/ 訓蒙淺語/ 榊巷談苑/
3-5 百草/ 我宿草/ 愚雜爼/ 松亭漫筆/ 鳥おどし/ 孝經樓漫筆/ 金剛談/ 關秘錄/ 牛馬問/ 春雨譚/ 春湊浪話/ 松竹問答/
3-6 百草露/ 麓の花/ しりうこと/ 難後言/ 梅園日記/ 瀨田問答/ 後は昔物語/ 白石先生紳書/ 桃岡雜記/
3-7 甲子夜話 上
3-8 甲子夜話 下
3-9 盬尻 上
3-10 盬尻 下
3-11 翁草 上
3-12 翁草 中
3-13 翁草 下

梅村載筆はちょっと読んでみたのだがまるで校長先生の訓話みたいな当たり前なことを言っている。林羅山が書いた(とされるもの)はほかもたいていそんなふうだ。奇抜でもなく特別役にも立たないし、そもそも全然面白くない。なんでこんなものを書いたのかといえばやはり将軍家や旗本の子弟に勉強をさせるのに、林大学頭かもしくはそのスタッフが書いたり編纂したものなのだろう。藤原惺窩先生曰く、みたいな話も多い。

食卓と小榻

菅茶山『筆のすさび』巻之四「旧習改めがたき事」に

柴野先生に食卓(しつほく)と小榻(せうたふ)四つをおくる人あり。(中略)その具にて七宝羹を饗せんとて数人を招かる。(中略)その榻に踞して対酌す。

とある。卓袱(しっぽく)とは円卓で食べる中華料理のこと、長崎に伝わって今も残っている。

小榻だが榻(しぢ)と言えば牛車に人が乗り降りするときに使う踏み台、もしくは轅(ながえ)を置く台のことだから、小榻はおそらく、椅子というよりは、背もたれのないこしかけのようなものではないか。榻は床几(しょうぎ)とも言うようだが、床几にも背もたれは無い。

七宝羹は要するに八宝菜のようなものであろう。

菅茶山は主人柴野先生と、尾藤博士という人と、三人でそのテーブルと椅子で飲食していたが、主人がいない間は、椅子からおりて床に寝転んだ、生まれつき慣れないことをすると疲れる、という話で、当時の日本人にはこうして食卓を囲んで食事をすると疲れたという話。

卓袱、食卓、どちらもテーブルのことで、「しっぽく」と言うことがあったのだろう。

越生の梅干し

越生には越生梅林というものがあるというのは昔東上線沿線に住んでいたのでなんとなく知っていた。小田原には曽我梅林というものがあって、熱海にも熱海梅林というものがあり、梅林のあるところはだいたい梅干しが名物なので、越生にも梅干しがあるのかなと思ったらやはりあった。

これが安くてうまい。大粒で20粒くらいで1000円いかないくらい。塩と梅の実しか使ってない本格的な梅干しで1粒50円はかなり安い(追記。この梅干しは農家の人が自宅で作って市場で売っていたものだというので、多少安いのは当たり前なのかもしれない)。

しかもこの越生の梅干しは、あまり塩辛くもなく酸っぱくもなくそれでもちゃんと梅干しの味がして、皮も薄くてやわらかくて、おいしいのだ。

昔ながらの梅干しとか言って売られているものはやたらと塩分が高くて22%とかある。なるほど昔はそうした長期保存用に塩辛い梅干しを作っていたかもしれんが、今はそんなことする必要なかろう。

今スーパーで売られている梅干しは、いわゆる調味梅干しというもので、蜂蜜を入れたり、出汁や鰹節を入れたりして味を調整しているからほんとうの梅干しの味というものがわからなくなってしまっている。たぶん塩と梅だけで梅干しを作っても簡単にうまくはならないのでいろんなものを足してごまかしているのだ。越生の梅干しみたいにシンプルに塩味も薄くして酸っぱさも控えめにしてしかもちゃんと梅干しの味がするほんものの梅干しを作るってのはたぶん超絶技巧なのだと思う。すごく熟成期間なんかも絶妙に管理しているのではないか。こういうものが出回れば普通の梅干しなんて食べられたもんじゃないと思う。安くてほんとうにおいしい梅干しを食べているのは実は埼玉県民、或いは越生に近い群馬県民なのかもしれない。

だがしかし越生の梅干しが安くてうまいことがばれて需要が高まったら値段も上がってしまうに違いない。越生の梅干しはこれからもずっとこのままでいてもらいたい。

越生はしかし池袋から東上線で行くにも一時間半はかかる。いかにも遠い。池袋あたりで越生の梅干しは売られているのではなかろうか。

楽天ポケットモバイルwifiルーター続報

楽天、やはり安いだけのことはある。しかし、多少金を出して、auやdocomoにしたからといって、いわゆるポケットwifiというものの安定性には限度があるのだろう。24時間連続接続というものにはもともと向いてないのだ。実質的な回線速度は下り上りともに50Mbps程度だと思う。youtubeならバッファリングするから大して問題にはならない。オンラインゲームのレスポンスには問題があるかもしれない。回線が混んでて遅くてもオンラインゲームには有線のほうが良いのかも。

昼間よりも夜中の方がネットが切れることが多いのは、深夜にメンテナンスをしているせいではなかろうか。

ネット環境がだんだんに良くなっているのは間違いないのだから、ポケットwifiに関しては今後さらに投資してもらい、通信を快適にしてもらうしかないのではないか。

エアコンのフィルター掃除

廊下がなんだか臭いんですよ。最初はタバコの匂いかと思ったんだけど、タバコとは微妙に違う。何かの生活臭。古いマンション自体に染みついた何かの匂い。廊下か排気口から匂いが入ってくるのかと思ったら、閉めきった部屋の中でもときどき匂う。

エアコンを空けてみるとフィルターにめちゃめちゃ埃がたまっている。

いくら残置物とはいえ、部屋を貸すとき、入居前にフィルターの掃除くらいしといてくれよーと思いつつ、フィルターをやぶかないように優しく洗う。

その結果。エアコンの効きがまるで違う。ガンガンあったまる。エアコンが古いせいではなかったのだ。フィルターが目詰まりして空気が吹き出してなかったんだー。ひでえなあ。

特売

例の吉原のど真ん中にあるBig-Aだが、最近毎日朝9時から特売をやってるらしくて、店自体は朝7時からやってるんだが、特売品を買う人だけが、店の外まで行列している。今日の特売というのがおかめ納豆58円、トイレットペーパーW 12ロール198円。確かに安い。並びたくなる気持ちはわからんでもないが、タバコふかしながらチャリンコこいできたおっさんなんかが並んでいるのでああいうところには並びたいとは思わない。ともあれああいう人たちがここら吉原の近隣住民なのであろう。山谷辺りから来たのかもしれない。

ま、ともかく朝9時は混むしその後は客引きがウザイのでこの店には朝7時から8時くらいに行こうと思う。

ちなみに例のベトナム米はもう売り切れていた。

この店は洗剤やシャンプーなどはあまり品揃えもよろしくなく安くもない。そういうものはドラッグストアで買うべきだと学んだ。とりあえずマツキヨココカラのアプリを入れた。

浅草には観光客向けに安くて良い茶碗を売る店がある。こんどラーメンどんぶりを買おうと思う。

なお楽天wifiルーターだが、安定しているとはまったく言いがたい。

Rakuten WiFi Pocket Platinum

浅草に部屋を借りてネットを引こうとしたのだが、いろいろめんどくさいらしかった。ニューロ光はマジで速いらしい。しかしマンションごとにルーターを設置しなくてはならないらしく、既に設置済みなら良いとしてまだ設置されてないマンションの場合には一から大家さんと交渉になるらしく、まあほぼあり得ない選択肢と言えた。

GMOだとマンションごとに設置するのではなくてどこかから光ケーブルを引っ張ってくる共有型らしいのだが、それはそれとしてめんどくさいらしかった。

それでスマホはauを使っているのでauモバイルとかau WiFiのようなものはあるかと調べてみたらあるにはあるがかなり割高なものであることがわかった。

楽天モバイルのWiFiは安い。調べれば調べるほどめちゃめちゃ安い。GMO WIMAXだと端末代も24ヶ月使えば実質0円だとか、最初の月だけ1275円で次の月から4370円とか言ってて、全然安くねー。

楽天WiFiは端末代1円。通信費はデータ無制限で2980円/月。下り150Mbps、上り50Mbpsと決して早くはない。GMO WIMAX +5G だと下り4.2Gbps出るらしい。公称では。しかしまあこれまで野田のアジトでは120MbpsのJ:Com回線を使ってきたので、それよりかは速い。また実測値だと 4.2Gbps なんてまあほぼ出ない。都心で 70Mbps という実測値もネットではみる。楽天WiFiで実質 100Mbps くらい出てればほぼ問題ないんですよ。

auの使い放題プランなどもあるわけだが値段はともかくとしてテザリングが月に60GBまでというのが痛い。Fallout76のアップデートなんて1回で50GBくらいあるのはザラやで。

てわけでポケットWiFi、今最強は楽天だ。有線で光なんてやってる場合じゃねーって結論に達した。実際使ってみてほとんどまったく不満はない。しかも、いつ止めても良い。2年間しばりとかそんなもの一切ない。実にすがすがしい。

よその会社がどこもこの値段設定でやってないってことは、たぶん楽天はまったく儲かってないと思う。つまりめちゃめちゃお得ってことだ。ドコモ、au、ソフトバンクに追いつき追い越そうと意気込んでいる楽天にしかできない、楽天しかやらない戦略だ。みんなもはよ楽天使えやと言いたい。

あと、2月6日にネットで申し込んで2月9日にはSIMとルーター送られてきて使えるようになった。ちょっぱやくね?いちいちショップで手続きしたり審査を長々待ったりしなくてもいいんだよ。

最近自分の中で楽天に対する好感度がどんどん上がってる。楽天トラベル、楽天証券、楽天銀行、そして楽天モバイル。あーあとは楽天マート(旧称セイユーネットスーパー)もか。

仕事では経費で落とせる1年分一括払いの某wifiルーターを使っているけれどもこれはいろいろと不便。個人的には楽天wifiで当分不満無いわー。

アジト移転でいろいろ金を使ってしまったからしばらくは節約する。

楽天ポケット続報

宣長教

再びatokを使い始めた。atokが好きなわけではないが、ms ime やgoogleのimeに比べればはるかにましだ。google の ime は頭が悪すぎる。もう開発する意欲を失ったのだろうか。世の中消去法で特に嫌なもの耐えがたいものをのぞいていき一番最後まで残ったものを使うしかない。自民党しかり。windows しかり。好きなものを使う人はたぶん何か宗教にはまっているのだろう。

浅草にアジトを移すという暴挙に出て1ヶ月ばかりが経って、また著書も書き終えややヒマになったので(給料をもらっているほうの仕事は忙しいままだが)、本棚を整理してみると実にへんてこな本を買ってすっかり忘れている。例えば「江戸吉原図聚」とか。「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」とか。

自分の本を書いた後に人の本を読みかえしているとそれまでは気付かなかったことにいろいろ気付いて、自分の本を書き直したくなってくる。小林秀雄、丸谷才一、白洲正子とか。丸谷才一の『後鳥羽院』とか改めて読んでみると自分と考えが違い過ぎて、もう頭がクラクラする。昔はよほど何も考えずに読んだのだろう。特に自分の考えというものもなかったから何か名著のように考えていた。今読むと迷著としか言いようがない。しかしここまで読んでくれて丸谷才一も喜んでくれていると思っている。

手直しすると言っても大きな直しではないし、明らかに間違っているところとか言い過ぎているところを削る程度。

literature とは第一義には written works、文字に書かれた作品、つまり文芸という意味であろう。study of literature を文学と訳すのは良いとして literature を文学と訳すことに、そしてブンガクと今世の中で呼ばれているものに対して、かなり反感を持っている。私が書いたものでは敢えて文学と書くときには文芸に関する研究のことをのぞけば、ブンガクと呼ばれている近現代文芸(および近現代文芸論)について批判的な意味合いで言及するときだけで、それ以外は文芸と書くようにしている。

山本七平が「小林秀雄の流儀」で

小林秀雄が何故に本居宣長に関心をもったのか。それはわからない。だが宣長は、歌と源氏物語と古事記にしか関心をもたなかった人間と言ってよい。この点では非政治的であり、北畠親房以上に全く非政治的である。彼には未来を創出しようなどという意識は無かったであろうし、古事記を「見る」彼には、そんなことを念頭に浮かべる余裕があったはずはない。

と書いていて、おそらく山本七平も宣長を誤解しているのであろうと思えてくる。なにゆえ山本七平は北畠親房を非政治的だと思うのであろうか。あんな政治的な公家はいないと思うのだが。また宣長も『秘本玉くしげ』を書いて紀州藩主に献上し、また天皇から家康への大政委任を肯定する「みよさし論」を説き、それを老中松平定信が徳川家の権威付けにありがたく利用したのは明白だ。宣長は極めて政治的な人であり、自分の息子春庭を紀州藩の医師にするために就活さえしている。紀州藩に士分に取り立てられ葵の御紋入りの羽織を下賜されたときには

見ればもよ みけしたばりぬ さきくさの 三つ葉の葵 あやのみけしを

などと、うわあい、「見ればもよ(ほらごらんよ)」、葵の御紋入りの御衣(みけし)もらっちゃったあ、などという大はしゃぎな歌を臆面も無く詠み、帯刀して子分を従えて駕籠に乗って帰宅しているのである。医者の髪型である総髪をやめて髷を結うようになったのもおそらくこの頃からだ。この宣長の大喜びようについては「神社発信」vol.3 「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」に書いた。この「神社発信」の連載では現実主義者宣長の世渡りについて、「みよさし論」と尾張、紀州の徳川家との関係について書こうと思っていたのだが「神社発信」は8号で休刊してしまった。こういう政治的な宣長については尾張徳川家を研究している人が中心になって研究していて論文も書いていてそれを国会図書館に読みに行ったりもしていたのだった。

宣長は学問好きなカルト少年で、儒教も仏教も好きだった。そこから和歌を詠むようになり、師について体系的に研究もするようになり、和歌が好きといっても和歌の全てではなく王朝趣味ともいうべきそのごく一部を愛好していたのであって、また古事記に関していえば、古事記が好きだったというよりは研究テーマとして最も効率的に自分の業績を残せると思ったからライフワークに選んだだけだ。

(職業的)研究者というものは自分の好きなことを研究するのではない。もし人と研究テーマがかぶっていて、自分が負けると思ったらそこには手をつけず、自分の才能と労力を最大化できそうな別のテーマを選ぶ。研究者として学術界で認められないことには研究を続けることもできないからだ。宣長にとって古事記はちょうど手頃な研究テーマだった。もちろん興味なければ研究テーマに選ぶことはなかっただろうけれど。宣長がそういう考え方をする人だったことは「うひやまぶみ」を見てもわかる。

職業というものはそうしたものだ。そんな好きとは言えなくても収入を最大化できることを仕事に選ぶ。もちろん嫌いな仕事だと続かないから自分の性格と折り合いをつけながら適当な仕事を選ぶ。そしてほんとうに好きなことはプライベートで、趣味としてやる。宣長にとって歌を詠むことは研究というよりはまず第一に趣味であった。誰だってそうやって自分の職業を選ぶだろう。研究者だって同じだ。

和歌と古事記しか興味がないと言い切ってしまうと宣長は浮世離れした学者のようだがそんなことは決してない。宣長は彼なりに世渡りしてああなった人で、出世欲も名声欲もあり、徳川とも真淵ともうまく折り合いをつける人だった。

一方で上田秋成は大阪の市井の文人だったからあんなふうにガチンコで口論したのであり、また、あそこまで持論をかたくなに押し通そうとしたのは、単に自分がそれを信じていたからではなく、おおくは世間体のため、自分の立場、なによりも自分の業績を守るためだったと言える。

宣長は生涯宗教まみれな人だった。子供の頃儒教も仏教も大好きだった宣長は国学に目覚め、外来宗教から神道を分離しようとした。儒教も仏教も熟知しかつ古事記を徹底的に研究した宣長だからこそできたことだ。神道だけを研究して神道を論じることなどできない。神道以上に儒教も仏教も知ってなければ比較なんかできるわけがない。

ところが上田秋成が、神道は儒教や仏教と混淆してもいいじゃんと言い出したから、宣長は自分の努力が全否定されたと思った。だから反論せざるを得なかった。宣長も腹の底では秋成と同じ考え方なのだが、体面上、秋成を許すことができない。しかしそれをそのまま言っては世間にはばかりがある。門人らにうまく説明がつかない。だからああいう言い方になった。宣長は「国学の大人」というぺルソナを自らかぶることにした。

宣長の行動パターンを観察していればそういう結論にならざるを得ないのだが、世の中ではいまだに宣長は浮世離れした研究者のように考えている。

宣長は教祖になろうとしていたところがある。ところが宣長は真淵と違って門人に教えを説くということに興味がなかった。めんどくさがっていた。門人らは口伝とか秘伝のようなものを授かりたかったのだろうけど、宣長は自分の考えを全部書いて遺した。

ちなみに真淵は宣長に自分の万葉研究の極意を伝授したがっていたフシがあるが、宣長は真淵の研究なんぞにはまったく興味がなかったようだ。

ソクラテスにしろイエスにしろ孔子にしろマホメットにしろ、教祖様とか哲人は自らものを書いて遺さぬものだ。弟子たちが教祖の言行を伝記にするから宗教の始祖になれる。教祖自身が文字に書き記すと曖昧さや解釈の余地がないので宗教になりにくい(つまり二次創作や共同制作の要素が無いと宗教は成立しにくい。教祖が全てを厳密に決めてしまっては、一般大衆に広く受け入れられるのは難しい。初代ガンダムからさまざまなガンダムがが派生したことによってガンダムはあそこまで広く受け入れられた。富野由悠季独りではああはならなかった。天理教のおふでさきは教祖が書いたものだが解釈の余地が多く残されていたのだろう)。

平田篤胤のように直接宣長に会ったことのないようなやつが直弟子を自称し、夢か何かで入門したとか言い出して、それで宣長もかなりの程度に教祖化し宗教化したところがある。

ともかくも宣長はかなりの程度カルト的素養があったのだが、彼自身が教祖にならなかったのは、彼が物書きであったから、弟子に口伝などしたがらなかったからであろうし、息子の春庭、養子の大平などにも秘伝を授けたりはしなかったからだ。

もしイエスの弟子ペテロの如き者、ソクラテスの弟子プラトンの如きものが宣長にいたら宣長教というものができていたかもしれない。

宣長は真淵の弟子を演じ、死ぬまで演じきったが、実際の宣長は真淵の弟子でもなんでもない。松坂の一夜などは佐佐木信綱が作った架空の美談に過ぎない。宣長は自分の弟子を持つにあたり、自分の師を必要とし、真淵を選んだのに過ぎない。平田篤胤が宣長の弟子を無理矢理演じたのと同じ。師弟愛などというものは、少なくとも国学四大人、春満、真淵、宣長、篤胤の間には存在しない。そんなものを信じるから国学がわからなくなるのだ。

白川静 孔子伝

最近頻繁に電車通勤するようになり、文庫本を読んだりしているのだが、白川静など読んでいる。

この白川静という人は、なんだろう、どう言ってよいかわからないが、少なくとも宮崎市定のようにはおもしろおかしく本を書かない人だと思う。

まず白川静の『後期万葉集』というのを読んだ。『前期万葉集』というものもあるらしいが、『後期』しか持ってなかったので『後期』から読んだのだが、普通の人なら万葉集のこの歌が面白いみたいなキャッチーな書き方をするんだが、そういう要素をほぼ完全に落としてしまっている。いろんな歌を平板に並列に並べていて、わざとそういう書き方をしているんだと思うが、正直微妙。賀茂真淵が万葉集好きだったんだよという話も、かなり微妙。多分、漢学者、漢字の研究者として、万葉仮名で書かれた万葉集の解説をしたかったのだと思うのだけど、結局何が言いたいのかよくわからない。万葉仮名の使用例のサーベイに徹してくれればよかったのかもしれないが文芸批評もしようとして迷走しているようにも見える。

万葉集の文芸評論というものは、賀茂真淵以来まともなものはほとんど無いと思う。というのは、万葉集の頃までの和歌というものは、まだ「文芸化」されていない、生の歌謡、生のサンプリング、生の言霊なのであって、少なくとも万葉集の編集方針というものは秀歌を選りすぐろうというものであったわけでは必ずしもないのだから、文芸評論に適さないのは当然だろう。古語の解読とか、古代人のメンタリティの分析などはできても、文芸批評にはもともと不向きであって、そこへ「ますらをぶり」などという価値観を持ち込んで良い悪いなどと論評することにはほとんど意味が無いと思う。

『孔子伝』。こちらも役には立つが、決して面白い本ではない。毛沢東時代に書かれた孔子評の一つ、と言えば言えるかもしれない。

孔子を奴隷解放者とする試みは、必ずしも成功であったとはいえない。それは社会史的にみても実証が困難であるばかりでなく、孔子教団の性格、その思想の中心的な課題からも逸脱したものである。歴史的研究が、今日の課題から出発することはもとより尊重すべき態度であるが、それは歴史的なものを、今日に奉仕させるという方向であってはならない。それは歴史をけがし、古人を冒涜するものであるといえよう。歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験は、あくまでも個人的な、また主体的な営みを通じて、行われなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである。

この箇所を白川静はどの程度の熱量で書いたのか、文章を見る限りではまるで伝わってこないのだが、たぶん何かに対して相当怒っているか、誰かに対して憤慨しているか、攻撃したがっているのに違いないのだが、自分の感情を隠すためだろうか、そういう書き方をする人なのであろう(※追記。文庫本のためのあとがき、解説などを読むと文革期のさなかにいろいろ思うところがあったことがわかる)。

私も本居宣長を弁護するために、最近よく似たことを書いたので、まだ発表前ではあるけれどもそのごく一部であるからここにお見せしてもかまわぬと思う。

日本は海を隔てて世界から隔絶しており、日本固有の信仰が失われるという危機感は皆無だった。上田秋成ですら、日本人は外から入ってきた思想を自家薬籠中のものにし、ありとあらゆるものを丸呑みにして完全に同化できる、その受容性の高さこそが神州日本の才能であると己惚れていた。宣長はしかしその持ち前のオカルト的直感によって、神道にも不寛容さが必要になってくる、そう気付いた。他宗教に対する免疫を持つ必要性に最初に思い至った人だった。

元来宗教とはものわかりの悪いもの、排他的なものである。友好的で寛容な宗教と、排他的で不寛容な宗教がぶつかれば、ものわかりの良い宗教は常に相手に譲歩し、ものわかりの悪い宗教は常に相手を圧迫して、ついに寛容な宗教は淘汰され、不寛容な宗教だけが世の中にはびこる。世界史上そういう前例はいくらでもある。ギリシャ、ローマ、ゲルマン、エジプトなどにかつてあった土着信仰はもはや死に絶えた。古代ギリシャ信仰はクリスチャン化したギリシャ人自身によって抹消された(新プラトニズム哲学者ヒュパティアの迫害など)。

それまでの神道にも教義や神学はあったが、所詮は仏教や儒教の理論を借用したものにすぎない。それらを取り払うと神道には自ら生み出し築き上げた学問体系や理論と呼べるものは何も残らない。神道とは儒教や仏教の亜種に過ぎない。それが江戸期の知識人、特に儒学者らの共通認識であった。
神道はかつて地上に自然発生した無数の原始宗教の一つであった。そうした、すべての原始部族に見られる太古朴陋の巫術が次第に整理され、教義を蓄え、民族を超えて世界に伝播し、仏教やキリスト教のような普遍宗教となる。他に先んじて普及した宗教は周囲の原始宗教を飲み込んで多民族宗教に成長していった。後進の日本神道もまた他宗教に従属する状態から脱して一個の自立した普遍宗教とならねばならない。太古、インドに生きた人はインドが世界の中心であると思い、中国に生まれた人も同様に中国が世界の中心だと思ったに違いない。だから日本が世界の中心であり、太陽は神だと古代日本人が信じていたのであればそれを前提に神道は再構築されなくてはならない。今の人がどう思うかということはひとまずおいて、自分も古代人と同じ精神構造になってみなくてはならない。それは一種の実証実験である。そのためには古代語を復元して古代の風俗の中で生活し、古代人の目に世界がどう見えていたか体感してみなくてはなるまい。和歌を詠む意義もまたそこにある。
中国に儒教があり、インドに仏教が生まれたように、日本に日本固有の神道が定まればそれで十分であり、他と比較してどこが本地でどこが垂迹かなどということは古代日本人の念頭にはなかったことだから無視すれば良い。陰に対して必ず陽が対になっているという発想は古代日本人には観察されないのだから、神道の教義に混ぜてはいけない。宣長はそう明確に意識していた。

白川静は追体験と言い、私は実証実験と言っているが、言っていることは同じことである。

バラモン教やヒンドゥー教がインドを出ることなく、或いはゾロアスター教がペルシャを出ることがなかったのは、それらが民族宗教であったからだ。アーリア人固有の宗教だったからだ。仏教が中国を経由してはるか日本まで伝わったのはそれが民族固有の宗教から進化した、民族を超える普遍宗教だったからだ。日本は無菌状態ではなかった。キリスト教伝来当時、すでに仏教の洗礼を受けていた。仏教や儒教、道教、陰陽道などの外来宗教は神道を変質させもしたが免疫を作りもしたのである。もし古代神道時代にキリスト教が伝来していたら、またたくまに神道はキリスト教に侵食され消滅していただろう。フィリピンではそうなった。同じようにもしインドネシアのように最初に伝わった普遍宗教がイスラム教だったら、日本もイスラム教の国になってしまっていただろう。

※追記。やはり戦後昭和期に書かれたものは一度精査する必要がある。それらは戦前に書かれたものと同様にそのまま素直に受け取れるものではない。もちろんあるものは、今でも通用するような書き方がされているが、多くは戦争直後の日本という時代のバイアスがかかっていて、或いは方法論的に未熟過ぎて、今の観点からはかなり外れている。無論今の価値観が正しい保証などは何もないのだが。戦後民主主義教育という名のもとに正当化されてきたものが多すぎる。

九条良経と後鳥羽院

九条良経の歌というのは、今で言えばファッション雑誌を見て、どこかのシャレオツな店のマヌカンに選んでもらって、金持ちのボンボンだからいくらでも高い買い物ができる人が着るような服、といえばわかり良いだろう。そして世の中にはそんな金持ちの慶応ボーイみたいな歌が好きな人が一定数いるのも事実だ。それなりの需要はあるのだ。それはそれとしてそういう歌をうまいとか絶唱とか褒めるのはやめてもらいたいと常々思っている。ジャニーズのイケメンがかっこいいのは当たり前じゃないか。

九条良経の四歳下の妹任子は後鳥羽院の中宮なので良経と後鳥羽院は、血はさほど近くはないが義兄弟である。この二人の歌は良く似ている。ほとんど区別できないこともあるが、だいたいにおいて後鳥羽院のほうがうまい。後鳥羽院は後鳥羽院で、それなりに苦労はしているので、そうした生まれ育ちが歌に微妙な屈折を与えている。良経にはその屈折とか鬱屈というものがまるで無いように見える。

後鳥羽院にはあの腹違いの兄安徳天皇がいるわけだから、それが性格に暗い陰を落とさないわけがない。後鳥羽院は生涯九条家と鎌倉武士に頭を押さえつけられて生きていた。京都武士に多少そそのかされたということはあったかもしれないが、後鳥羽院が自ら倒幕などという大胆な改革を思いつき実行しようと企んだということはほとんど考えにくいと思う。それに京都武士らにそそのかされたのはむしろ順徳院であって、後鳥羽院は息子と取り巻き連中の暴走を制御できなかった、というのが正解であるはずだ。