天皇の血を引いた徳川将軍

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  1. 徳川家康 の母は「大」と言い、皇族ではない。
  2. 秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。
  3. 家光 の母「江」も皇族ではない。正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。
  4. 家綱 の母「楽」も普通の農民の娘。正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。家綱に実子はない。
  5. 綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。
  6. 家宣の母「保良」も一般人。正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。
  7. 家継の母「喜代」も一般人。霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。
  8. 吉宗の母「由利」も一般人。ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。
  9. 家重の母「須磨」も一般人。ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。
  10. 家治の母「幸」も一般人。ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。
  11. 家斉の母「富」は幕臣の娘。
  12. 家慶の母「照」も一般人。ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。
  13. 家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。
  14. 家茂の母「美佐」は紀州松平。ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。
  15. 慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。母は松室敦子。霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。

家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかった。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。

天皇の系図

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皇女、皇子、主要な関係者などほぼ書き込んだ、と思う。 ただし明治以降の皇女は一部の例外をのぞいて記してない。 幼年で死んだ人は略していることが多いが、書いている場合もある。 これからは微妙な訂正などしていこうと思う。

後西天皇の皇子・有栖川宮幸仁親王とか、家康の孫・松平忠直の孫娘に当たる明子内親王、 霊元天皇の后・松室敦子やその娘・八十宮(吉子内親王)については「将軍家の仲人」にも書いたので、 特に感慨ぶかい。 その他にもいろんなことをいろいろ書き散らしてきたわけだが。

景行天皇はすごいな、とか、 彦坐王とか何者なんだろうとか、 手白香皇女ってほんとは女帝だったんじゃないの、とかいろんな妄想が沸いてくる。

図が横に広がっているときには、やはり、天皇家を巻き込んだ、なんか歴史的にたいへんなことが起きているんだよね。

掛け軸かなんかにして売れば需要があるんじゃなかろうか。

天皇の系図

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皇子や皇女、妃などをできるかぎりみな書き込んでみようと思ったのだが、後嵯峨天皇あたりで力尽きた。余りに複雑なので間違いもあるかと思うがそのうち直す。

Inkscape で描いているのだがだんだん重くなってきたのでレイヤー分けたりとかした。かなり Inkscape に熟練した。

後嵯峨で挫折したのには意味が無くは無い。後深草天皇と亀山天皇は同母(西園寺氏)兄弟であるのに皇統が割れたのはもはや外戚や妃の影響力というものが無くなってしまったことを意味している。この頃から完全な男系社会、武家社会になってしまった。だから皇女や妃を書いてもあまり意味が無い。またあまった皇子はこの頃から完全に法親王になるようになった。

桓武天皇の頃から明らかに皇子や皇女が爆発的に増えている。皇子はやたらといろんな女性と恋愛し、子供を作った。まさに光源氏の時代。その流れはおよそ村上天皇の頃まで続く。外戚にも多様性があり、皇子もものすごくたくさんいた。道長の時代に天皇家はようやく衰えかけている。妃や子供の数が明らかに減っている。たとえば嵯峨天皇と白河天皇を比べてみてもずいぶん違ってきた。その後も天皇家はどんどん衰退していく。天皇家の外戚になりたがる人が減ったということだろう。光源氏はただ無節操だったのではなく、それなりの「社会的需要」があったはずなのだ。

自分の息子が親王になれるならともかく、法親王ではあまり旨味がない、ということもあっただろう。

光源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。

「帚木」の冒頭だが、どうも、源氏物語に先立って、光源氏の物語のプロトタイプというものがあったように思える書き方だ。「桐壺」は後から付け足した序章だとして、この「帚木」がもともとの出だしだったとするとあまりにも唐突だ。

「みなもとのひかる」という人は仁明天皇の皇子にただ一人見える。源光(845-913)。母は宮人・百済王豊俊の娘。百済からの帰化人の家系。源多(みなもとのまさる)という兄がいた。この時代、普通の皇子の名は「光」「多」と一文字、親王だと二文字、という区別があったようだ。