歴史の連鎖

川越素描で、

だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。

どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。

菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》

などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。

平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。

しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。

日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。戦後の日本ではそういう教え方はしない。まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、とまあこのくらいの認識になってしまう。

新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。

昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。

私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。

日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。

俊成2

山桜 散りに光を 和らげて この世に咲ける 花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

つくづくと 濡れそふ袖に おどろけば 降るとも見えで 春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。同語反復がうまく効いている。これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?ましかし、レベルが一様に高い。

山吹

兼明親王

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、 肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、 という部分は書いてない。 著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。 書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。 病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。 まったく知らんかった。

小谷野敦 中島敦殺人事件

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。 寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。 むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、 冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、 「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、 こんなへんてこりんなことはない。 もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、 中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、 「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。 当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、 戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。 だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、 そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、 おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。 そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。 はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。 そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。 それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。 もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。 パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。 たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。 それには古典の教養が必要だ。 しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。 そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。 それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。 むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」 そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、 すとんと腑に落ちるのである。

メディアリテラシー

まあこんなことをぶつぶつ書いてもしょうがないのだろうが、NHKのニュースで、手術前に点滴を打たなくても同じ成分の生理食塩水的なものを口から摂取してもよくなりましたというのをやっていた。まあそれはよい。しかし、病院というところはたいていのばあい手術前だけでなくて、三日とか七日とかぶっとおしで点滴を打つものだ。たまたま手術前に絶食して点滴する、それをしなくてよくなりましたというのは、そうだな、一部の外科の患者だけのことであり(たとえば痔の手術などがその典型だろうか)、それ以外の場合、長い長い闘病生活の中の一部に過ぎない。むしろ、手術前は、食事を抜いて点滴を打って、気持ちの切り替えをしたくらいでちょうど良いと思う。手術というのはつまり電気メスなんかで体を切りひらくのであろう。点滴の針を打つのとはわけが違う。

手術前に点滴を打つか打たないかというのは要するにそのくらい些細なことにすぎない。
まあお暇なら私の書いたもの(安藤レイ)でも読んでください(※現在非公開)。闘病生活に関してはだいたい実話だから(笑)。

しかしそんなどうでも良いことをわざわざ大げさにものすごく画期的なことのようにデフォルメしてニュースにする。なぜそんなことをするのか。だれがうれしいのか、そんなことをして。

たぶんこれを作ったプロデューサーは自分が入院したことがないのだろう。私がインタビューを受けたら、きっと「そんな一度点滴をさすかささないかなんて誤差に過ぎませんよ。」とでも答えるだろう。しかし、そういう答えはニュース構成を破綻させるから没になり、私はめでたくテレビには映らないことになるだろう。

以前もなんか、癌か何かを早期発見するかしないかとかそんな話題があった。見てる感じでは、まだ実験段階で、実用化されるには十年以上はかかりそうな話で、しかも適用範囲がとても狭い。そんなものをまるでプロジェクトXか何かのように報道していいのか。

NHKというのは国会で予算が組まれる国営放送なのだから、他の民放などが利益のためにはやらせくらいは当たり前なのとは違って、きちんと国民に対してメディアリテラシー教育を行う義務がある。Aという「個人の感想」があればAとは反対のBという「個人の感想」を伝えねばならない。しかし、報道に都合の良いAという意見だけを、皆同じ意見であるかのように作る。そんな番組を作ってはいけない。

それから最近NHKは電波塔の話ばかり流しているが、地デジなんてものはそもそも不要であり、電波なんて競売にして、それでも必要なやつが勝手に自分の金で電波塔を建てればよいのだ。それをまるで国家プロジェクトでもあるかのように毎日のように報道しやがる。やれ花見だやれ地域活性化だとか。たかが電波塔に大騒ぎするなという意見、特に携帯電話などの業界の意見も採りあげるんならまだバランスが取れるかもしれんが、まるで地デジや電波塔は国是でもあるかのような錯覚を起こさせる、プロパガンダ放送はやめるべきだ。

NHKがきちんと教育放送でメディアリテラシーの番組も流すならほめてやろう。それも大学生向けとかではなく小学生くらいからばんばん教育するのだ。そうすりゃ民放もずいぶん迷惑するだろうし、NHKの株はさらに上がると思うのだが。だいたい国家や営利企業の言うことを鵜呑みにするから戦争になるのだ。そういう大衆を扇動しかねないメディアがいかに危険かということをきちんと教育するのが、不幸な戦争や事故を二度と起こさないようにするほんとうの方法だ。

ところで一部で話題になっている、受託開発を振り返って というネタだが、思うに、「コンシューマゲーム開発におけるモラル」(なんだそりゃ)というものがどんなものかは知らないが、

上司の機嫌一つでころころ指示内容は変わるし、実際スケジュールも容量も当初の契約の倍以上に膨れ上がりましたし、果てはそれを「フレキシブルな裁量」と胸を張る始末。

上司が仕様変更を認めちゃうんだから仕方ないよなあ。自分ところの上司のせいだなそれは。仕様変更を認めてあげるのもサービスのうちだと思ってるんだなその上司は。じゃあ仕方ない。商売の一つのやり方としてそんなサービスを提供するのは有りだ。私はもちろん嫌だが。

ライターにもよると思いますが、私は何百枚、何千枚という原稿を書いても、「この一言を伝えたかった」という一瞬のために物語を書いています。けれどその一言(どころかシーン丸々)、小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪されている箇所が多々ありました。

それは、ライターなんだからしょうがないんじゃないの。「小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪」というのはしょせん主観に過ぎないし。ていうか、プロのライターのくせにそんなくらいの妥協・打算も経験したことがないのか、そのほうが不思議だ。

評価は気にする必要ありません。売れた本数が全てです」と豪語されて

それは、「豪語」ではないよな。小学生みたいな文体にした方が受けるとプロデューサーが判断したまでではないのか。

いずれにしても、多少クリエイティブな業界にシンパシーを感じている人間にとっても、共感は得られない話だなあと思った。そんな話はいくらでもあるし。こちとら毎日NHKのニュース見ててもいらいらしてんのに。もうニュースすら見ない方がいいのかな精神の平安のためには。まして民放のバラエティなんて見ようもんなら発狂しそうになる。

中島敦ですらあの程度の扱われ方しかしてない。まして普通のライターや作家がどんな目にあってもおかしくない。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。 山月記、名人伝、弟子、李陵。 確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、 とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。 中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。 しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。 なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。 高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。 今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。 中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。 錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。 だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。 何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。 オーラが漏れ出てくるからだ。 しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。 プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。 たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。 戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。 戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。 そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。 中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。 子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。 つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、 戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。 私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。 しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。 もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、 かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。 多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。 そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。 かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。 群ようこも書いていた。 中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。 いったい中島敦という人はなんなのかと。 つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。 ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、 エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

中國哲學書電子化計劃

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

教育勅語だが、たとえば中文版wikipedia に 教育敕語 なるものがあり、漢文訓読文を漢文に戻しているのだが、

朕惟我皇祖皇宗,肇國宏遠,樹德深厚,我臣民克忠克孝,億兆一心,世濟其美。此我國體之精華,而教育之淵源,亦實存乎此。爾臣民孝于父母,友于兄弟,夫婦相和,朋友相信,恭儉持己,博愛及衆,修學習業,以啓發智能,成就德器,進廣公益,開世務,常重國憲、遵國法,一旦緩急,則義勇奉公,以扶翼天壤無窮之皇運。如是者,不獨為朕忠良臣民,又足以顯彰爾祖先之遺風矣。斯道也,實我皇祖皇宗之遺訓,而子孫臣民之所當遵守,通諸古今而不謬,施諸中外而不悖。朕與爾臣民。俱拳拳服膺。庶幾咸一其德。

これの「孝于父母、友于兄弟」なんて言い方があるんかいなと思い、中國哲學書電子化計劃 で調べてみる。すると、劉向という前漢の学者が著した「說苑」の中の「談叢」という項目で

孝於父母,信於交友,十步之澤,必有香草;十室之邑,必有忠士。

などと言ってることがわかる。おそらくこの「孝於父母,信於交友」が「孝于父母,朋友相信」の原型なんだろうなとわかる。ここで驚くべきことは「孝於父母」と「孝于父母」は助字が微妙に違うのに検索できているということだ。また、董仲舒が

君者將使民以孝於父母,順於長老,守丘墓,承宗廟,世世祀其先。

などと言っている。これも教育勅語的なフレーズだ。最後の部分など「世世厥ノ美ヲ濟セルハ」を思わせる。

というわけで、なんて便利なんだろうなと思ってしまった。「友于兄弟」についても、論語で

或謂孔子曰:「子奚不為政?」子曰:「云:『孝乎惟孝、友于兄弟,施於有政。』是亦為政,奚其為為政?

と出てくることがわかる。

軍人勅諭などは日本外史から来ているようだが。

いやいや、調べてみたくなったのは「亦實存乎此」の箇所だった。漢文的には「実在此処」とかではないのだろうか。