後拾遺和歌集

そんでまあ、 たいへんありがたいことに、 後拾遺和歌集 はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、 それで序文を読んでみたが、 言ってることはごくまともで、 古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、 その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。 だから最近の歌というものに注目するのは難しい。 だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、 などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。 重鎮たちは面白くないわな。

世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、 実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、 要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。 その言い訳だわな。 そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、
勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。 偉大なる先駆者。パイオニア。 これまたカチンとくるわな。 勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、
たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。 それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

後拾遺集の序文にファピョった連中が、 なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、 そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、 元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。 この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、 どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。 古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。 そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。 誰だか知らないが。 『難後拾遺』を書いた源経信かね?
それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。
ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。 「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。 新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。 そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

後拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。 まだ序文しか読んでないけど(笑)。 つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。 この人たち多分身分低いわな。 ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。

古今和歌集の真相

古今和歌集 は醍醐天皇の勅令によって、 延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。 普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。 宇多上皇ならばあり得るだろう。 宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。 仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。 なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、 そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

亭子院歌合 というのから古今集に採られているのだが、 これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、 古今集成立のずっと後である。 これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。 後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。 でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

桜ちる 木の下かぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞ散ける

とあって、その次に

延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

こと夏は いかが聞けん 時鳥 こよひばかりは あらじとぞ思ふ

とある。 延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、 このときもやはり宇多上皇だったのではないか。 そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、 この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、 と解釈は可能なんだが、 貫之集の中の歌の並びからいけば、 この宇多天皇からの院旨は、 亭子院歌合の後だったんじゃないか、 延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、 と思われるのである。 というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは元永本古今和歌集 という写本で、 恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。 時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。 つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、 古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。 それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、 そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、仮名序はひどい。支離滅裂だ。あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。 なるほど日記文学風の序がついている。 伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。 こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、 ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。 しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、 おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。 白河天皇の関与というものも。 しかし実際には非常に重要なものであり、 もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、 良房や基経の歌がいくつも出てくる。 しかも詞書きが異様に丁寧。 宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。 このことはすなわち、 古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。 それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。 それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、 亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。 だから、 「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下にいた。 「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。 だが、 「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」 の時には明らかに昇殿しているのである。 このときは正式な勅命を受けていると思われる。 それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。