アンナチュラル

某医者系ユーチューバー(井たくまだが)が推薦していたのでみてみたが、確かに面白かった。最初の回に仕込んだ伏線が最後の回に活かされていたりとか。見ている人の予測を二段階、三段階仕立てにひっくり返す仕掛けなどは良くできている。

そういう脚本の書き方のうまさというのは野木亜紀子という人にあるのかもしれないが、しかしこの人が脚本を担当した他のドラマを見て私が面白いと思うかというと少し違う。普通に売れ筋のドラマを作る人のように思える。

となると、私がこのアンナチュラルを面白く感じた理由は他にあるはずで、それはプロデューサーの新井順子という人かもしれない。或いはいろんな要素や条件が掛け合わされてそう感じたのかもしれない。

ちなみにchatgptにも聞いてみた。

私が好きなドラマは、アンナチュラル、ホームランド、フォールアウト、ヴィヴァン、マンダロリアンなどです。私におすすめのドラマを教えてください。

ChatGPT:

いいラインナップですね!✨
あなたの挙げた作品から見ると、

  • 社会性や謎解き要素(アンナチュラル
  • サスペンスとスパイ要素(ホームランド
  • 荒廃した世界での人間模様(フォールアウト
  • 大規模な国際陰謀アクション(ヴィヴァン
  • スター・ウォーズ世界観の冒険(マンダロリアン

が好みのポイントに思えます。
それを踏まえて、おすすめを挙げますね。


海外ドラマ

  • チェルノブイリ (Chernobyl, HBO)
     緻密な実話ベースの社会派サスペンス。重厚さと人間ドラマが「アンナチュラル」好きにも刺さるはず。
  • ザ・ナイト・マネージャー (The Night Manager, BBC)
     スパイと陰謀が入り混じる上質なサスペンス。ホームランド寄り。
  • ザ・ボーイズ (The Boys, Amazon Prime)
     スーパーヒーローを現実的・社会風刺的に描いたダークアクション。「フォールアウト」のブラックユーモア好きにも合うかも。
  • アンドール (Andor, Disney+)
     スター・ウォーズ世界観で「マンダロリアン」より政治劇・スパイドラマ要素が強い。

日本ドラマ

  • MIU404 (TBS)
     刑事ものながら「アンナチュラル」と同じ野木亜紀子脚本で、人間ドラマ×社会性のバランスが絶妙。
  • レッドアイズ 監視捜査班 (日テレ)
     テクノロジーを駆使した捜査サスペンス。「ヴィヴァン」のようなスリリング展開が好きなら。

韓国ドラマ(もし未視聴なら特におすすめ)

  • D.P. -脱走兵追跡官- (Netflix)
     軍隊の闇と人間模様を描く社会派アクション。アンナチュラルやホームランド好きに合いそう。
  • シグナル (tvN / 日本リメイクもあり)
     無線機を通じて過去と現在をつなぎ未解決事件を追うサスペンス。緻密な構成が光る名作。

質問ですが、あなたが一番惹かれるのは **「人間ドラマ」**ですか?それとも **「スリルと謎解き」**ですか?
それによっておすすめの軸をさらに絞れますよ。

あなた:

ありがとうございます。日本のドラマでは何かおすすめはありますか。

ChatGPT:

いい質問ですね!✨
先ほど「アンナチュラル」「ヴィヴァン」などを挙げてくださっていたので、日本ドラマで近い雰囲気をもつおすすめを整理してみました。


日本のドラマおすすめ 🎬

社会派 × 謎解き系

  • MIU404(TBS・2020)
     「アンナチュラル」と同じ脚本家・野木亜紀子の作品。1話完結型の刑事ドラマですが、社会問題や人間模様に踏み込み、最後は大きなテーマにつながる展開。アンナチュラルが好きなら鉄板。
  • シグナル 長期未解決事件捜査班(フジテレビ・2018)
     韓国の名作サスペンスを日本版にリメイク。過去と現在をつなぐ無線機を軸に、未解決事件を追う緊張感あるストーリー。

スリル・国際的スケール系

  • MOZUシリーズ(TBS/2014)
     公安警察とテロ組織の攻防を描いたサスペンスアクション。「ヴィヴァン」好きならかなりハマる可能性大。
  • SP 警視庁警備部警護課第四係(フジテレビ・2007)
     堤真一主演のSPアクション。実写でここまでやるか、という緊迫感あるアクションシーンが見どころ。

人間ドラマ × 社会背景

  • 重版出来!(TBS・2016)
     刑事やスパイものではないですが、編集者の仕事を通じて人間模様と社会性を描く、野木亜紀子の隠れた名作。心に残るタイプ。
  • Mother(日本テレビ・2010)
     児童虐待をテーマにした社会派ドラマ。重めですが、アンナチュラルの「人間を真正面から描く」姿勢に共通するものがあります。

もし「ヴィヴァン」的な大規模アクション・陰謀を求めるのか、「アンナチュラル」的な人間ドラマ×社会派を求めるのかでおすすめが分かれます。

👉 どちらの方向のドラマをもう少し見てみたいですか?

ジャンルというより、伏線回収がうまくて意外な結末になるドラマが好きです。

ChatGPT:

なるほど!✨
「伏線が張り巡らされていて、最後に一気に回収される」「結末で意外性がある」──まさに構成の妙を楽しむタイプのドラマがお好きなんですね。

それを軸に、日本のドラマでおすすめを挙げます👇


伏線回収 × 意外な結末の日本ドラマ

サスペンス・ミステリー寄り

  • Nのために(TBS・2014)
     湊かなえ原作。複数の人物の視点から「ある事件」を描き、少しずつ伏線が解けていく仕掛け。意外な真相が胸に刺さります。
  • 夜行観覧車(TBS・2013)
     これも湊かなえ原作。表向きは平穏な住宅街で起こる事件を描きますが、次第に人間関係の裏が見えてきて伏線が効いています。
  • リバース(TBS・2017)
     湊かなえ原作シリーズの一つ。親友の死の真相をめぐる物語で、最後の種明かしが強烈。

サイコ・どんでん返し系

  • あなたの番です(日本テレビ・2019)
     マンション住人が次々と殺される連続事件。伏線が多くて考察好きに人気。ただ賛否両論あった結末も含めて盛り上がった作品。
  • 真犯人フラグ(日本テレビ・2021)
     妻子失踪をめぐる長期サスペンス。伏線回収の巧拙は議論を呼びましたが、「誰が真犯人なのか」をめぐる考察型作品。

短くても濃密なタイプ

  • 鍵のかかった部屋(フジテレビ・2012)
     密室トリック専門の探偵(大野智)が事件を解決。各話の謎解きと意外性、伏線回収が爽快。
  • アンフェア(フジテレビ・2006〜)
     篠原涼子主演。シリーズ全体を通じて大きな謎があり、回を追うごとに「裏切り」や「伏線回収」が繰り返されるスリリング展開。

💡まとめると:

  • 心理的な伏線回収・人間模様重視Nのためにリバース
  • 事件の謎解き・トリック重視鍵のかかった部屋アンフェア
  • 考察・どんでん返し重視あなたの番です真犯人フラグ

質問ですが、あなたは「人間ドラマの中で意外な結末」が好きですか?
それとも「トリックや謎解きで伏線回収される結末」が好きですか?

追記。野木亜紀子の脚本には原作があることが多いがこれはオリジナルだという。そう言われて改めてストーリーを考えてみると、最初の導入部分と伏線回収はみごとではあるが、それゆえにだまされたというのもあるのだが、ラストの展開はかなり無茶だ。盛り上げすぎというかひねりすぎというか。連続殺人の設定にしても、裁判の展開にしても、弁護士の性格にしても。まともな原作者、つまり小説家ならばこうは書かない。映像としてみせられるとごまかしがきいても小説で読んだらあまりにも荒唐無稽だ。今時の小説ならば(ラノベとか異世界転生ものとかは別にして)もう少しきちんとした設定にするだろう。原作はまともでもドラマの脚本が突っ走っている場合もあるかとは思うが、これはそうではない。

casio wave cepter

最近衝動買いした腕時計。カシオウェイブセプター。自分が欲しいと思う理想の時計に非常に近いが、不満も多い。

良いところ。チプカシというには高いが、十分安い。電波時計で時刻が狂わない。5気圧防水。西暦4桁表示(なぜかこれがあると落ち着く)。24時間表示可能。曜日日本語表示可能。画面がでかくてライトも明るい。

悪いところ。勝手に設定が変更されていて時間が狂ってて焦る。腕にフィットするとは言いがたい。

追記。デフォルト表示だと西暦4桁が表示されるので、それを目印にすれば迷わなくて済む。いずれにしろ表示切り替えのボタンが軽すぎるのが良くない。

ブログ回帰

最近のツイッターは急速に劣化し始めていると思う。昔はツイッターはツイッターであり、フェイスブックはフェイスブックだった。

ところが今はツイッターもtiktokもinstagramもみんな同じになってきている。昔はフォローしている人のツイートだけ読み、フォローされている人から読まれるのが普通だった。しかし今は誰彼かまわず読まされる。そうするとみんながそれに感化されて、誰彼かまわず読まれるようなツイートばかりするようになった。これは要するにツイッターの tiktok化であり、instagram化である。別にもうツイッターである必要はない。

instagramなどはもうどこに誰が何を書いているのかすらわからない。勝手に読みたくも無い記事をだらだらと読まされる。facebookも最近はそれに近い。勝手に見たくもないコンテンツが流されてくるのであればもはや地上波テレビと同じではないか。

それで読みたい人の記事だけを読むというのであれば昔はブログだった。最近はnoteなどもそうかもしれない。twitter難民がnoteに流れているというのもなんとなくわかる。twitterでぶつ切れのツイートを読んだり書いたりするのが苦痛だったから、今私はブログに回帰してよかったとおもっている。twitterをやらずずっとブログだけやっていればよかったとさえ思う。わざわざレンタルサーバー借りて自分のブログだけ維持するのは面倒すぎるけれども、それ以外の雑用もあるからなんとか復帰できたのだ。昔からサーバーいじっていた私でさえそうなのだから、普通の人がわざわざ私と同じようなやり方でブログを書くはずがない。

では私がせっせとブログを書いたからと言って読みに来る人がいるだろうか。独立系ブログをやめてnoteで書けば読みにくるだろうか。そんなことがあるはずないってことはわかりきっている。以前booklogやカクヨムで書いていたことがあったが、何の効果もなかった。hatena には少し書きたい気持ちもあるが結局あのシステムとコミュニティが好きにはなれない。hatena やカクヨム、noteのシステムは悪くはないが、自分の好きなようにカスタマイズできるわけではないし、だんだん細かいところが気になってきて、結局自分で wordpress 立ててやるのが一番気楽ということになる。

いずれにせよ人に読んでもらいたいのならtwitterやnoteに書くしかない。私の場合当面読んでもらわなくてもけっこう。自分が現時点で書きたいことをリアルタイムで記録して公開できればそれでよい。

noteの投げ銭で儲けようという気持ちがまったく無いわけではないがたぶん儲からない。kindleのコンテンツでは『エウメネス』しか儲かってない。noteで何か自分の好きなことを書いてもkindleと同じことが起きるだけだ。自分が好きでもないことを書いて儲けようという気はないし、もし書いたとしても労力にはまったく見合わないと思う。

主権在金

「選挙は独裁よりも良い」という命題には、多少疑問の余地はあるものの、まあそれはそうなんだろうということにしておいてもよいが、「投票率は高ければ高いほど良い」に至ってはまったく何も立証されていないのに、そう信じ込んでいる人が多いのは非常に疑問だ。なぜ投票率が上がれば今まで選挙に行かなかった人たちが、自分が支持する人や政党に入れてくれるはずだと思えるのだろうか。

選挙に行かない人の心理は選挙に行く人には理解しようがないのであって、選挙に行く人、投票率が上がれば良いなと思っている人の心理も、そうでない人には理解できないのじゃないか。

戦後日本の選挙は一人一票でこれが主権在民、民主主義というものだと説明されてきた。税金を多く払おうが全然払ってなかろうが国民は一人一人投票する権利があるとされてきた。しかしながら今まで政党というものは、企業の政治献金で支えられてきたから、実は一人一人の主権が政治に反映されてきたというよりは、大企業が政治家を選んできただけだ。

では企業献金というものが裏金呼ばわりされて否定されたとして、しかしながら選挙に金がかかるのは変わりないのだから、結局金を持っているやつが候補者を立ててメディアを操作して自分が好きな候補を勝たせているだけではないか。最近では動画コンテンツで多少受けが良く、クラファンで金を集められるやつが選挙に当選しているだけではないか。

単なる主権在金、金主主義と呼ぶべきではないか。

なるほど確かに政治的にまともな発言をしている人もいないではないように見えるけれどもそれらの人に票が集まっているようには思えない。

政治献金というものがあったおかげで日本では日本という国をしょってたつ大企業が事実上の主権者となって国を運営し指導してきた。それはそれで、悪いところもあっただろうが良いところもあったに違いない。愚民が直接ああだこうだ政治に口出しするよりはずっとましだったに違いない。日本は誰がなんといおうと工業立国だ。電子立国だ。企業が国家経営を舵取りしたからこそ日本はここまで繁栄した。紛れもない事実だ。そのことによって日本国民がこれまでどれほど恩恵を受けてきたことか。これを善政と言わずしてなんといおうか。

しかし企業献金を殺し、パーティー券を殺し、企業主権、企業独裁の時代はとうとう終わりに近づいたようだ。これからどうするのか。一般市民に政治なんてできるのか。

「選挙の正統性」というものに疑義を挟むつもりは今のところ私にはない。少なくとも日本国民は普通選挙という制度を承認しているし、選挙で決まったことだから仕方ないと諦めがついている。みんなが諦めのつかないやり方で為政者を決めるよりは諦めが付くやり方で決めたほうが良いに決まっている。別の言い方をすれば、選挙よりもすんなりと万人が諦めが付く方法がほかにあるのであればそっちのやり方で政治家を選んだ方が良いに決まっている。諦めが付かない人が多ければ暴力沙汰になり暴動になり内戦になり戦争になる。それは嫌だからみんなしぶしぶ諦めが一番つきやすいやり方を模索した結果、西洋から輸入した選挙という制度を今は使っているのだ。もし人々が選挙という制度を疑いだして諦めが悪くなってしまえばおおごとである。選挙結果に誰も納得しなければいわゆる民主主義なんてものが機能するわけがない。だからみんなが「選挙に行きましょう」とか「投票率を上げましょう」と言っている間はなんとか平和なわけだから、そうみんなが思い込んでいるほうが安全なわけだ。選挙制度なんて結局おおぜいのひとが現状正しいと信じている虚構に過ぎない。便利な虚構であれば信じておいたほうが無難なだけだ。科学では「信じる」ことはタブーで「疑う」ことが正しい。しかし政治ではみんなが信じていることが正しいことであって、論理的に科学的に間違っていようが虚構であろうがかまわない、ということになる。それは、みんなが信じているという状態が維持されている間だけ正しい。アメリカに押しつけられた「日本国憲法」というものも便利な虚構なわけだ。

追記。やっぱりこれはアレだよな。新しく正しく良い思いつきをした人がまあ、仮にいたとして、その人が誰よりも先にちょっと突破口を作ったとして、その後は、その人に直接票が集まるのではなくて、後出しじゃんけんで、それを横から見てて、もっと顔の良い人が、もっとそれっぽく、正確さとか根拠にはロジックにはあまりこだわらず(というよりもともと理解できず)ただ勢いと受け狙いでしゃべれる人のところに、金が集まり、票が集まり、人が集まり、一大勢力になるんだろうな。

近況

楽天マート(旧西友ネットスーパー)で政府備蓄米(古古米)5kg が 1980円(税込み2138円)で売られていたので買って食べてみた(【数量限定】楽天生活応援米(備蓄米))のだが、普通にうまかった。これで全然アリだと思う。スーパーやドラッグストアやディスカウントストアで備蓄米売っているところはほとんど見当たらない。どういうことなんだろう。政府から備蓄米を仕入れて、自分のところで精米して、パッケージ化してと一連の過程を独自でこなせるところとなると楽天とかイオンなどの大手にならざるを得ず、従来の流通を通して売っているところは大して値下がりしてないということだろうか。数量限定とあるがあとどのくらい買えるのだろうか。イオンのカルローズ米は売っているところではまだまだ在庫はありそうだ。

最近の楽天は良く頑張ってると思う。昔マイクロソフトは嫌いだったが今はまあぎりぎり我慢できるようになってきた。楽天も昔は嫌いだったが、今はけっこう好きになってきた(昔の楽天が好きなわけではない。今の楽天が許容範囲になってきたというだけ)。

最近は古い映画も(サスペリア2とか雲のように風のようにとか)オンライン配信で見れるようになって、しかしながら、ブルーレイも同時に発売されていて、値段も非常に安い。ほんとうになんども繰り返しみたいものはブルーレイで買っておく価値はあると思うのだ。

セブンイレブンは自分たちがコンビニという社会システムを作ってきたという驕りがある。自分たちが勝手にコンビニというものを定義して良いのだと思っている。イトーヨーカドーにも同じ匂いを感じるが、接客マニュアルが私にはまったく合わない。同じことは吉野家にも言える。こっちが接客を決めて客はそれに従えという態度が気に入らない。何が接客かということは客の側が決めるものだろう。あるいは、客の側が何を望んでいるかを予測してそれに合わせたものを提供するものだろう。客がどう感じているかなんてまるで無視して自分らの都合を最優先して、嫌なら来るな、と言っているように見える。

立花孝史が街頭演説で「NHKをぶっこわせ」と言っているのをNHKがニュースで流しているのをみて、政見放送ならともかく、ニュースでこれを流すとはずいぶん時代も変わってきたんだなと思った。NHK自身が変わらねばならんということを十分自覚しているのだと思う。それでも、今回の選挙の主たる争点は「外国人問題」とはNHKは口が裂けても言わない。いったい何を信じて何を参考にすれば良いのか。やはりオールドメディアは亡びるしかない。テレビなんて早く死ねばいいのにとしか思えない。

ちまちました研究

例によって吉原ビッグエー。イオンのカルローズ米「かろやか」4kg 2680円と、あかふじ「いつものお米」5kg 3480円の選択肢があり、今回は「いつものお米」にしておいた。普通の「こしひかり」が 5kg 3980円で売ってあったんだが、まあずいぶん安くなっては来たけれど、銘柄米とミックス米食べ比べても私は大した違いはわからない。今後は押し麦なんかを混ぜて食べようかとも思っていてそれだとなおさら違いはわかるまい。なんならオートミールを食べても良い。世の中の人はまだまだ旨い国産米というものにこだわり続けるらしく見える。しかしなぜ?

Youtube や twitter を読むのも無駄だが、このブログを書くのも時間の無駄には違いない。このところちと久しぶりに研究というものをやってみたが、論文書いたり実験したりしているとあっという間に時間が過ぎていき、おかけで youtube や twitter なんぞをだらだらみたり書き込んだりしなくて良い。

テレビに比べれば youtube はまだましだが youtube もみすぎるともう見たくなくなる。たぶん1週間に1度くらい、あるいは移動中にスマホかなんかで見る程度にしたほうが良い。部屋の中にいてだらだらみてるのはよろしくない。

都議選とか参院選とかみてると、NHK党が一番まともな政党に見えてくる。ましかしこの年になって政治に何か期待してもそれもまた時間の無駄だ。無駄をなくして時間を節約したからといって定年過ぎればその時間も持て余すのだろうが、死ぬ日が来るまで何もしないのが一番良い生き方な気がする(時間があるからと無理に何かしようとするのが良くない)。

住んでみてわかったが吉原のあたりはほんとうに交通が不便だ。雷門か蔵前、新御徒町あたりに住むべきだった。家賃も大した違いはない。新御徒町はつくばエクスプレスにも乗れるし、大江戸線にも乗れるし、御徒町か上野まででればどこへでもいけるし、とにかく便利だ。ただ定年後まで東京に住む気はまったくないが。

都会はなんだかんだでうるさくて困る。人も車もビルも多すぎる。ビルは建て替えたり修繕したりでうるさい。車はうるさい。普通の家とみせかけてときどき工務店みたいに騒音を出す家がある。自転車も多い。ランニンガーも多い。ほんとうに邪魔で危険だ。マフラーを改造した原付が真夜中走り散らかしたりする。とにかくいちいち気に障る。便利なのは良いが不快でもある。そんなわかりきったことを言っても仕方ないが。実は、新しい建物も立たず、新しい人も入ってこず、しかし昔作られた社会的インフラがまだ機能している地方都市なんかが一番快適に住めるのではないか。いや絶対そうに違いない。仕事をしているときは東京の引力に負けて都心に引き寄せられてしまうが、定年後はわざわざ東京に住む必要はない。今のうちせいぜい東京の娯楽を楽しんでおき、東京を離れよう。

私はもう30才くらいに自分の研究者としての才能を見切ってしまった。私は研究者としてアカデミズムの世界で一定の地位を保てる程度の研究はできる人間だろうと思う。ここはまあまあ居心地の良い世界だから、定年まではここに居続けるだけの努力はしてもよい。しかしそれ以上の努力をしたとしても、私の研究が世の中を変えたりすることはまずない。特に私の専門分野はCGなので、CGなんてものは個人の研究者がああだこうだする時代はとっくに過ぎてしまい、GAFAMみたいな大企業が、日本でいえば任天堂とかソニーなんかが大金を投資してよってたかって研究する時代になってしまった。恐竜が闊歩する時代に蟻ごときが何をしても無駄だ。企業にはできぬ、個人にしかできぬような基礎研究をやる才能が私にあるかといえば微妙だ。そういう研究は、もしかしたらできるかもしれないが、成果が出る保証がまるでない。

たとえばアインシュタインみたいな天才的な科学者がいたとしよう。しかし1年間南の島にバカンスにでかけて、再び研究の世界に戻ってきた頃にはもうとっくに別の誰かが相対性理論を発表し、別の誰かが「アインシュタイン」というアイコンになって世の中でもてはやされていたはずだ。アインシュタインという人がもしいなかったとしても、1年かそこらで同じようなことを思いつく人はいたはずだ。あの天才数学者ガウスにしても、せいぜい10年も待てば彼と同じことを思いつく人は出たはずだ。

自然科学にはそうしたむなしさがある。芥川龍之介もなんか同じようなことを言っていたような気がする。自分が書かなくても近い将来同じようなことを書くやつは出てくるに違いないと。

ま、ともかく今回、ちょっとばかしの業績が業務上必要になったので研究をやってみたけど、さらにその研究を進めるつもりはない。私がやらなくても誰かがいずれはやるに違いないからだ。そんなちまちました重箱の隅ほじるような研究に時間を費やすくらいなら、何もせずぼーっとしていたほうがいさぎよい。科研費当てたとか外部資金とか助成金をいくらもらったとか。そういうのは所属している機関には評価されるかもしれないが、自分にとっては別段面白くもなんともない。そういうのが面白いと思う人は単に自分が属している組織や学会や世間に評価されるのがうれしくてたまらないのだろうけど、私は全然うれしくない。

今の生成AIとか暗号資産とか、ビッグデータというのはみんな同じで、ただひたすら金をかけて計算力を消費すればするほどもうかるからやっているに過ぎない。資本をもっていればいるほど結果が出せる。そんなことやって何が面白いのかと思う。昔のアポロ計画の頃はいくら国家予算がでかくてもAIに予算をかけることができなかった。かけたとしても成果がでなかった。今はやっとその社会的環境が整った。

今のアメリカは明らかにAIバブルなのだが、このバブルがいつはじけるか。AI技術は結局大企業や資産家にしか利益をもたらさず、経済格差が広がり、治安は悪化し続ける。だがアメリカ経済というかアメリカの国力にはまだ余裕があるから、それがただちに社会不安にはつながらない。アメリカ社会がフェンタニルで崩壊していくのを、アヘン戦争で煮え湯を飲まされた中国はざまあみろという気持ちで見ているだろう。

中国も(おそらくインドも)アメリカと同じ道をたどり、それでも国力に余裕があるうちは今のバブルははじけない。だが私はそんな世界に住みたくはない。そんなに儲かってはいないが、世界から隔絶した日本に住んでいるのが結局一番楽だという時代に入りつつあるのは確実で、そうなった先にどういうカタストロフィが待っているのか。

天長節

天皇も庶民も江戸時代までは数え年で、正月をもって誕生日としていたのだから、明治より前に天長節などというものがあったはずがない。太陰太陽暦で閏月があり、月の長さも一定ではなかったのに誕生日などというものが重視されたはずがない。閏月に生まれた人はいったい何年に一回誕生日が来るのだろうか(笑)。

今の右翼はただ明治政府が西洋の猿真似で始めたことを伝統とか保守とか言っているだけで、ほんとうの保守を知らぬ。夫婦同姓しかり(左翼は左翼で、関東大震災の後に植えた、たかだか100年ばかりしか立たない神宮外苑の銀杏並木を切るのが環境破壊だのなんだのと騒いでいる。中野サンプラザに至っては何が気に入らないのかさっぱりわからん)。

まず、明治政府がやったことで良かったことを復活させ、まずかったことを廃止する。

次に徳川幕府がやってよかったことを復活させ、悪かったことを廃止する。

足利幕府がやってよかったことを復活させ、悪かったことを廃止する。

鎌倉北条氏がやってよかったことを復活させ、悪かったことを廃止する。

摂家がやってよかったことは律令であろうと復活させ、悪かったことは廃止する。

それでやっとなんとかまともな保守と言える。

そこから先は記録が残っていないか曖昧だから、だんだんに手を付けていけばよかろう。

大和言葉だけで日常会話ができるくらいでなければ真の保守とは言えない。

今の右翼の(左翼も)知能はAIレベル。何が正しくて何が間違っているかなんてまるでわかってない。世間一般で信じられていることを事実だと思い込んでいるだけ。

alt und lebensgesättigt

創世記25:8

アブラハム遐齡に及び老人となり年滿て氣たえ死て其民に加はる

明治元訳聖書

アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。

共同訳

「年満ちて」もしくは「満ち足りて死に」と訳されることが多いようだが、「生きるに飽きて」と訳されることもある。マックスウェーバー著、岩波文庫版『職業としての学問』など。

『職業としての科学』

アブラハムは、あるいは昔の名もなき農民は、「年老い人生に満足して」死をむかえた。

と訳している。この箇所、原文は

Abraham oder irgendein Bauer der alten Zeit starb »alt und lebensgesättigt«, weil er im organischen Kreislauf des Lebens stand, weil sein Leben auch seinem Sinn nach ihm am Abend seiner Tage gebracht hatte, was es bieten konnte, weil für ihn keine Rätsel, die er zu lösen wünschte, übrig blieben und er deshalb »genug« daran haben konnte. Ein Kulturmensch aber, hineingestellt in die fortwährende Anreicherung der Zivilisation mit Gedanken, Wissen, Problemen, der kann »lebensmüde« werden, aber nicht: lebensgesättigt.

となっている。旧約聖書はヘブライ語で書かれているからヘブライ語まで遡ってもともとのニュアンスを調べるべきかもしれないが、それは私には不可能だし、私にとっては、マックスウェーバーがどういう意図でこの言葉(ルター訳か)を引用したか知れば十分である。

lebensgesättigt は leben に gesättigt したということだ。gesättigt は wiktionary では nicht mehr hungrig 「もはや飢えていない」「おなかいっぱい」という意味であると記述している。英語では saturated という。語源となっている sat はおそらくラテン語由来であろう。

「おなかいっぱい」は満ち足りている、満足している、と解釈もできるが、飽き飽きしている、もうこりごりだ、という意味にもとれる。両方だとしてではどちらの意味に近いか。

マックスウェーバーは lebensgesättigt を lebensmüde と対比させて使っている。müdeは飽きたという意味もあるかもしれないが疲れた、眠い、だるいなどとという意味だ。昔の人は十分に長く生きて、つまり天寿を全うして死ぬことができた。しかし現代人は、人生に疲れることはできても、やることがもう無い、すべてやり尽くして死ぬことはできない、とマックスウェーバーは言っている。

なるほど彼が生きた20世紀前半はそうだったかもしれない。世の中には未解決の問題が山積みしていて、自分の一生では、自分の能力では、とうていそれらのすべてに手を付けることもできないし、すべてを解決することもできないし、結論を見てから死ぬこともできない。そもそもすべての事象を把握することすらできない。自分の周りのごく狭い領域の問題を認識できるに過ぎない。

マックスウェーバーは56才で死んだ。まだまだやり残したことがたくさんあっただろう。

しかるに現代に生きる私はどうだろうか。もう60才になったが、まだ今のところ死にそうにもない。

80才まで生きられるとしてあと20年間でいったい私に何ができるというのか、今までの60年間の人生と比べてこれからの20年間にどれほどの意味があるのか、いったいどんな未知の可能性が残されているのか、残されているとしても、それをやり遂げる気力が残っているのか、と思う。死ぬのは嫌だから生きてはいるけどそのことに積極的な意味が見いだせない。

若者が良く、20年間生きてみたがもう人生に飽きた、などと良く言うのだが、年寄りが、60年間生きてみたがもう人生に飽きたというのとは少し違う。というより、若い頃は人生に飽き、年を取ると人生に未練がましく執着するのが人間の習性のように思える。

或る人が1回目の還暦を迎えた。3回目の還暦まで生きたい、などといっていたが、180才まで生きて何が面白いのだろう。実に不思議だ。

ところでアブラハムはユダヤ人の始祖であるはずが、どうして民に加わるとか先祖の列に加えられる、などと言うのだろうか。アブラハムが最初のユダヤ人であるなら加わるというよりは最初にユダヤの民になった、というべきではなかろうか。違うのだろうか。

ユダヤ教では死後霊魂は復活の日まで封印されることになっている。天国も地獄もない。民に加わるとはそのことをいうか。

買い急ぎ

またまた浅草のアジトに戻ってきて、備蓄米でも買ってみようかと吉原のビッグエーに行ったところ、イオンのカルローズ米しか売ってなかったので、仕方なくこれを買った。すでにまいばすけっとで買って食べたことがあるので、他の違うやつが食べたかったのだがしかたない。この「かろやか」だが、普通に旨い。冷えてもそんなにまずくはならない。この品質で、ブラインドテストで品種や銘柄を当てられる人がいたら見てみたいものである。

ただし米粒の色や形が微妙に違うので(左が国産ブレンド米。丸くて少し黄色くて大きい。左がカルローズ米。やや細長く、白く、小粒)。

江藤拓(前)農水相が

ご家庭を守ってらっしゃる主婦の皆様が不安に駆られ、買うコメの量を増やしている。そのためコメの価格が上昇し、品不足になっている

などと発言して更迭されてしまったのだが、これは私が以前、米不足近況などで書いたことと同じだ。江藤氏はさらに米の不作についても否定している。大臣ともあろう人が何も根拠が無くてそういう発言をするはずがない。彼自身は売られている米を買ったことがないという。それは親戚に米農家がいれば普通のことだ。私も、米が余っている年、つまり米の価格が安い時には、30kgの米袋をただでもらったりしたことがある。彼は個人的に親しく農家の実態を知っている上でああいう発言をしたのだ。それをマスコミに揚げ足を取られて、更迭に追い込まれてしまった。農家の実感とマスコミの思い込みは明らかに乖離している。

マスコミ向けの記者会見だったからマスコミ批判はしたくてもできなかっただろう。マスコミは真実はどうあれ大臣の発言は叩くのが社会正義だと信じ込んでしまっている。しかしながら、マスコミの煽りが米不足の一因になった、という反省がマスコミ側からまったく出て来ないのは不誠実というべきではないか。国家的な危機においてマスコミがまったく役に立たないどころか逆に危機を増大させていることが今回再び明らかになった。かつ、消費者は自分たちが一番の原因だという反省をすることもない。消費者が、一般大衆が聞く耳持たぬということはあるまい。一部識者による分析が語られていないわけでもない。知識の送り手と受け手が何者かによって壟断されている。これでどうやって今後の対策の検討につなげていくことができようか。マスコミはおそらく薄々わかっているに違いないのに消費者の無知につけ込んで消費者を煽りヒステリックにさせて政治家を陥れて世間の注目を集めようとしている。ジャーナリストが死んだ後に落ちる地獄というものがきっとあるに違いない。

木徳神糧「ステークホルダーのみなさまへ」では米高騰の原因を

記録的猛暑や豪⾬による収穫量の減少や、⽣産コストの上昇、インバウンドを含む消費の増加、ひっ迫感を受けた買い急ぎといった複数の要因が重なり、安定供給に対する不安が増⼤した現象があるものと考えられます。

などと分析している。要するに、主たる原因は、消費者による「逼迫感を受けた買い急ぎ」なのである。それをあからさまに言うと批判を受けるから、しかし事実を伝えようとしてこのような表現になっている。本来無知な(情報弱者、または一次ソースと無縁な生活をしている人たち、とでも言うべきか)庶民が勝手に逼迫感を抱くはずがない。逼迫感を煽った犯人がいるはずだ。「ご家庭を守ってらっしゃる主婦の皆様が不安に駆られ」るようにさせたのは誰か。自明ではなかろうか。

米卸が意図的に値をつり上げたことはなかったのに違いない。単に市場原理に米価を任せただけだというのも事実であろう。消費者が買い急いで買いだめして値段が上がっているのは市場原理によるもので、売り手はできるだけ安く仕入れて高く売りたいに決まってる。それ以外のことはできようがない。

トイレットペーパーだってコロナのときのマスクだって消費者がちょっとでも買い急ぎ、買い溜めすれば流通はあっという間に破綻するのだ。そんなことはこれまで何度も経験してきたことではないか。私の親戚にも一部屋まるごとティッシュペーパーやトイレットペーパーなどの備蓄に当てている人がいるのだが、それが消費者というものだろう。

備蓄米だが、おそらく国に備蓄米として買い取ってもらっているのは、米を作りすぎて、市場に出すと米価格が下がって儲からないからであろう。銘柄米として人気があって高値で売れるような米をわざわざ備蓄米として国に提供するなんてことはないはずだ。

米の品質が良くないので備蓄米に回しているのではないかとも思ったが、そういうこともあるかもしれないが、ごく普通の米を普通に作って余ってしまったから備蓄米にした、というケースが多いのではないか。そうした米は多少古くとも、保管状況が良ければ普通に食べられるのではないかと思う。本当に食べて旨くない備蓄米は最初から飼料用に回すのではなかろうか。そういう本音のところをちゃんと調べて報道してくれるマスコミはいないのだろうか?

日本の米農家はもう、高く売れる一部の銘柄米だけ作るしかないと思う。市場競争力の無い米を作っても仕方ない。私は普通の米の味に満足しているからわざわざ高い銘柄米を買う気はない。日本の農家が普通の米を作らなくなるとしたら外米を食うだけのことだ。国産米にこだわる気など無い。そんなことには何の根拠も必要性もない。

日本食はなるほど旨いとは思うけど、その中で銘柄米と和牛にこだわる気持ちは私にはない。どちらも高級志向だが、別に私は牛肉や米に一定水準以上の品質や高級感、ましてブランド力など求めてない。沢庵や梅干しだって高いから買うのではない。スーパーに売られている普通の梅干しや沢庵が安いから買わないのでもない。

私は、備蓄米を放出して強制的に米の価格を下げる、というのは決して良くないことだと思っている。外米を民間企業が輸入して、市場に流通する米の量を増やせば自然に米の価格は安定したはずだ。しかし日本人は国産米にこだわりが強すぎる。もはやそんなものにこだわる理由などないということは(ツイッターも含めて)何度も書いたつもりだ。結局消費者が、日本人が自分で自分の首を絞めていて、それをマスコミが煽っているというのが現実だ。だから多少高い米を黙って食えばいいのだ。

レギュラーコーヒーの高いのはそれとはまったく違う別の理由だ。これも困ったもんだ。

三社祭のハッピイオン外米米の値段いつもの米ベトナム米

沢庵なのだが、真ん中辺りはうまいのだが端っこが歯ごたえがなくてうまくないというものがある。これは困る。どこの何とはいわないがこれからは買わない。

二宮金次郎の沢庵

内村鑑三は二宮金次郎について「後世への最大遺物」にも書いているし、「代表的日本人」にも書いている。その影響を受けて私も、二宮金次郎が菜種を植えた川の土手に架かっている菜種橋を見に行ったり(正確には油菜(アブラナ)橋かもしれん)、金次郎の生家やら尊徳記念館を見に行ったりもした。金次郎が柴狩りした山に登るツアーにも参加したりした。もちろん小田原城下にある二宮報徳神社にも行ったし、報徳博物館にも行ったのである。

ところで二宮金次郎と沢庵の話なのだが、ある若者がやっとのことで金次郎に弟子入りして、金次郎の下で修行を始めた矢先、金次郎が彼に沢庵を切らせたところ、ちゃんと切れてなくて一つながりになっていたので、金次郎はこの若者を無慈悲にも破門にした、というのである。

どうもこれはおかしい。苦労人の尊徳翁ともあろう人が、弟子入りしたばかりの若輩者で、まだ世の中のことを右も左も知らないうちに、いきなり問答無用に、沢庵ごときで破門にするというのは、ちょっと考えにくい。厳しく叱り、教え諭すということはあっても、たかが一度の失敗でおまえはダメ人間だと決めつけ、いきなり前途ある若者からチャンスを奪うなどということはあり得ないと思う。おそらく二宮金次郎に対して悪意あるものが話をねじ曲げているのではないか。金次郎は厳しい指導者ではあったかもしれないが、尊大で傲慢な権威主義者、専制君主ではなかったはずだ。

それでいろいろ調べていくと元ネタはおよそ二つに絞られてきた。一つは明治41年8月に出た「二宮翁逸話」、そして同年11月に出た「報徳之真髄」。いずれも留岡幸助 編で警醒社から出ている。なんとこの人、同志社を出たキリスト教徒である。二宮金次郎はキリスト教徒に人気が高かったのだろうか。

柴田順作(権左衛門。堅節とも)という人がいた。金次郎の27才年下である。順作は駿河国で製紙業を営む富豪の息子で取れ高八百石の田を持ち、五万両の金も貯めていたが米相場に手を出して破産した。それでも貸した金が八百両ばかりあったのでそれを取り立てようと親類が世話をしてくれたのだが、貸した相手が百八十人ばかりもいて、彼らから貸金を取り立てるとどうしてもその中から二人や三人は自殺者が出るだろうと思って、親類には猶予を願い出て、小林平兵衛という知人を訪ねたら、この人が熱心な報徳主義者で、二宮翁のところへ連れて行かれたのだそうだ。それで「二宮翁逸話」によれば

順作はつらつら思ふのに一旦国に帰らば決心が崩るるに相違ないといふので、二宮翁の台所に居る浦賀の宮原瀛洲といふ人の助手となって、翁には内緒で三年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。さうして遂には翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。で或る時、翁の言はれるのに「お前はかういふ人間だからいけない」と言ふて香の物の切れかかったのを箸で挟んで「この通り全く切れて居ない。切るならばシッカリ切るがよし、切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりして居るから失敗するのである」と言はれたことがある。その後順作は当時のことを思ひ出しては「あの時くらいつらかったことはなかった」と一つ話にしたと言ふことである。

また「報徳之真髄」によれば

さて柴田氏は陣屋の炊夫となって居った事が四年、その間にひどく叱られた事が一つある。それは或る日食事の時、香の物の切り方が悪かったことで、翁がその香の物を食べやうとして箸で挟みあげると、切り方が充分でなかったので、一切れつながって釣り下がった。翁は大そう立腹して、「権左衛門、この切り方はなんだ、切ったのか切らないのか、こんなふうだから貴様は財産をなくしたのだらう。この切り方には心が入って居ない。こんな不親切な切り方をしては食べない」ときつく叱られた。氏は平身低頭詫びたけれども、到頭翁はこの時食事を中止してしまったさうである。

だからもともと若者をいきなり破門にした話ではなかったのだ。そして「沢庵」で検索してもなかなか出てこない。「香の物」でなくてはならなかったのだ。

最初から切って売られている沢庵はたいていうまくない。だから私は切れてない沢庵を買ってきて自分で切って食べている。沢庵を切るときは二宮金次郎の逸話を思い出し身の引き締まる思いがする。切れてない沢庵だからといってうまいとは限らない。沢庵はほんとうにむずかしい。

金次郎は、沢庵は三年ものの、すっぱい古漬けしか食べなかった、などとも言われる。しかしながら夏に茄子を食べて秋なすの味がするので冷夏が来ることを察したなどという逸話もあるから、沢庵だけでなくて茄子の漬物も食べたのに違いない。漬物はなんでも食べたに違いない。漬物は三年物の沢庵しか食べない、などというはずがあろうか。古漬けでも浅漬けでも食べたに違いない。

以下「後世への最大遺物」より。

二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種
なたね

いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を
れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい
くわ
で田地を
こしら
えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに
ゆだ
ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。

この著書の中で

『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。

などと内村鑑三が言っているので、国会図書館デジタルコレクションで見てみると(初期のスキャンらしくて汚くて困る。国書データベースのものが綺麗)、なんと幸田露伴が書いていて、確かに内村鑑三が「つまらない」というのが良くわかる、子供を啓蒙しようとやたらと図版が入ってるが面白くもおかしくもない、やけに堅苦しい、幸田露伴らしい文章だ。「報徳記」の方は、内村鑑三が言っているのは、明治19年に出た「正七位富田高慶述 報徳記 全 農商務省版」のことであろう。しかるにこれは

茲に二宮金次郎尊徳先生の実績を尋るに、歳月久しくして其の詳細を知ることあたはず。且つ、先生は謙遜にして自己の功績を説かず。いささか邑人の口碑に残れりといへども、万が一に及ばす。

といったような文体で、味わいはあるが、今の人にはちと読みにくいのに違いない。しかし現代口語訳がいくらでも出ているのでそっちを読めばとりあえず用は足りるだろう。

大野晋が『日本語で一番大事なもの』で森鴎外を「あんな下手な擬古文はありゃしないですもの。」などと言っているのだけど、鴎外の「舞姫」など見ると、やはり幸田露伴と同じで実に面白くない。つまり、露伴も鴎外も漢文の素養はあるが、和文がからきしダメなのだと思う。大和言葉というものに対する感覚、感性が全然ダメだと思うのだ。文法は正確だけれども砂を噛むように味気ない。漢学ばかりやって和学をやらない武家などにありがちなのだろう。だからああいうとてつもなく退屈でつまらない文章になる。鴎外も「阿部一族」などは基本的に口語で書いているからまだ読みやすく面白い。「舞姫」みたいな文体でドイツ女に惚れられたなんて話を書いたって面白いわけがない。

幸田露伴はしかし大町桂月なんかと一緒に「日本外史」の現代語訳などを監修したりして、そういう仕事は実に立派で面白い。鴎外は東大の医学・文学博士で、露伴は東大の文学博士だからああいう文章になるのだろう。夏目漱石が死ぬまで博士の学位を嫌がったのも、ああいう連中と一緒にされたくないという気持ちがあったからかもしれん。

ところで二宮金次郎が描かれた絵を見ると素足にわらじを履いている。わらじというのは編み上げブーツのように藁の縄で足をぐるぐる巻きにするものだ。国定忠治なんかはみんな足袋と脚絆で足を固めてその上にわらじを履いている。

いや、昔の人は足の皮が厚かったから平気だったのだろうと思うかもしれないが、小田原辺りは山に入ると蛭が多かったはずだ。そんなところへ裸足で入ってはひとたまりもない。素足にわらじ履きというのはとても信じられない。渡世人なんかは多少金がかかっても足回りには万全の対策をしていたのではなかったか。

もしかすると田んぼで田植えというような場合は素足にわらじであったかもしれない。旅に出たり山登りをするようなときは足袋にわらじであったかもしれない。また里山などはよく整備されていて蛭が出ることもなかったのかもしれない。