『明治天皇記』を読んだのだが、明治時代に『明治天皇記』という書物が出版されるわけもなく、これは大正以後に、侍従などの日記をもとに書かれたものだから、一次資料はそのもとの日記などを参照するしかない。めんどうだな。で、鎌倉宮の創建は確かに明治2年2月の勅命によるものなのだが、同じ箇所に記述されている、井伊谷宮は明治5年2月創建のはずであり、明治2年の箇所に書くのは紛らわしいのではないか。また、鎌倉宮の摂社、村上社と南方社は明治6年11月22日に創建となっていて、明治6年4月16日に御幸した後に作られているようなのだが、やはり『明治天皇記』の同じ箇所の記述では、その時系列が極めて曖昧だ。井伊谷宮や村上社、南方社についても明治2年2月になんらかの勅命があったということなのだろうか。
カテゴリー: 雑感
夢金
船宿が出てくる落語に、夢金と言うのがあるのだが、吉原の山谷堀にある船宿で、隅田川に出て深川まで行くと言う話。三遊亭円生の話を聞いていると亭主と女将は一階にいて、船頭の熊五郎は二階で寝ている。古い柳橋辺りの写真を見るに、この頃の町屋はほとんどが二階建て。柳橋新誌の記述とも符合する。深川でも妓楼とは言わずに船宿と言っていたらしい。
家に必ず楼あり。楼に内外あり。小なるものは外楼あるのみ。家人皆下に棲止して、客を楼に迎ふ。その舟子を畜ふ、上は四五人を食ふ。下は一二人を食ふ。
思うに、船宿というのは、普通の二階建ての町屋のようなものだったろう。多くの商店のように、間口は狭く、奥に長い。表に面した二階が客に貸す客間、奥の二階には、船頭が待機・休憩していたのではなかろうか。一階は通りに面して玄関と帳場があって、その奥に亭主と女将一家のすまいがあったのだろう。
思うに柳橋というところは、戦後日本の駅前商店街のように、船宿は船宿、料理屋は料理屋、酒楼は酒楼、などというように個別の専門店が立ち並んでいて、相互に補完していた。町全体でいろいろまかなった。船宿の座敷は個別のこじんまりしたレンタルルームのたぐい、酒楼は広間をシェアするようなものであり、密会には船宿の方が都合良いのであろう。一方、吉原などでは、「張り見世」などで大勢の遊女が集められていたのように、妓楼一つ一つが独立したスーパーマーケットのようなものだったに違いない。その建物も巨大で、三階建て、四階建ては当たり前。従って同じ芸者と言っても吉原と柳橋では全くシステムが違っていたのだ。
落語の中ではまた「屋根舟」という言葉が出てくる。これも古い写真などで確認すると、普通の川船に簡易な屋根を設けた程度のものであり、五、六人も乗れば満員、船頭も一人きりで、竿をさして移動するもののようだ。船宿が所有する舟のメインはこれ。これに対して屋形船というのは何十人も乗れて中には畳の座敷のようなものまであるもので、幕府の免許(株)が必要で、柳橋新誌の頃には七隻に減っていたという。つまり、屋形船は大きすぎのろすぎて、洒落と便利を尊ぶ「遊び」には向いておらず、皆屋根船を使うようになったということだろう。
屋根船よりも簡易で船足の速いのはチョキと言い、急に山谷堀まで遊びに行きたくなったときなどに早駕籠代わりに使ったという。
同朋町
江戸の地図を見ているとあちこちに「同朋町」というものがある。少し調べてみると、これが「同朋衆」の住む町であったことがわかる。「同朋衆」というのは、だいたい室町時代から出てきたもので、世阿弥や千利休のような僧侶であって、表坊主、奥坊主、などの呼び名もあって、将軍家のため芸能などに携わるものたちを言ったらしい。だが、『柳橋新誌』の頃の柳原同朋町は、芸者母娘の巣窟になっていた、とある。もともとは芸人(おもに男)のすみかであったところが、時代の移り変わりで、芸者(おもに女)のすみかになった、ということなのだろうか。なんか興味深い。
で、ほかにも興味深いのは、柳橋の芸者母娘の娘というのは、通常お金で買われた養子であり、つまり芸者として奉公する契約を結んでいるのはこの同居している母娘どうしだということだ。母というのももとはと言えば、娘と同じような身分の芸者だったわけだ。吉原だと、妓楼の亭主が芸者と契約して奉公させる。一方、柳橋では、芸者母娘というのは、ごく普通の親子と、表向きは何も違わないということであり、実際実の親子である場合も十に一つくらいはあったのだという。
江戸繁盛記
深川の 流れの末の 浮かれ妻 つひのよるせや いづくなるらむ
船底の 枕並べて 深川の 遊びは客の 舵をこそとれ
まことなしと 人に言はるる 身ぞつらき 客に情けも 深川の里
身揚がりを して呼ぶ客は たをやめの 心のうちも 深川の里
柳橋新誌と併せて江戸繁盛記も読んでいるのだが、吉原と深川の対比が面白い。吉原は北にあるので、里(ほくり)。深川は南東にあるので、辰巳(たつみ)。吉原は幕府公認だから、いわば公娼。深川は民間、私娼。
吉原は芸と色では色の方が重く、それぞれの妓楼が芸者も料理人も幇間も雇っている。ところが深川では芸者は置屋というところにいて、客は酒楼に遊びに行き、料理屋から肴を取り寄せて、置屋から芸者を呼ぶ。また芸者も芸と色では芸の方が重い。
柳橋芸者は、天保の改革で深川はつぶされてから出来たもので、辰巳芸者の流れをくむ。ここでは、酒楼ではなくて船宿が主体となる。船宿と言っても必ず楼(二階)があって、一階は船宿の亭主や女将が住み、客は二階に上がるものらしい。船宿には厨房のようなものも、ないようだ。亭主の他に船頭が居て、つまり亭主というのは実は何もしない。ただばくちを打ったりして遊ぶだけらしい。女将の滑舌によって船宿というものは儲けたり儲からなかったりするのだという。
柳橋芸者は普通、柳橋南詰め、西両国広小路の北の、下柳原同朋町というところに住んだらしい。その母と二人暮らし。他には猫くらい。客が芸者の自宅に来て遊ぶこともあったようだ。
イラン人とラクダ
イラン人ないしアーリア人が出現した時代、その伝播に要した時間、地理的分布、及びその習俗を考えるに、彼らは、これは大胆な仮説であるが、中央アジア原産のフタコブラクダを家畜化することによって、子孫を繁栄させ、広く伝播した種族ではなかろうか。フタコブラクダは、シリアで家畜化されたヒトコブラクダとは違い、特に寒冷で乾燥した高山地帯に強い。その原産地はおそらく、天山山脈からパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈にかけてだろう。
ある種族が膨張伝播する要因には、青銅器、鉄器などの技術革新と、馬や羊などの有用動物の家畜化、麦や米などの有用植物の栽培、などがある。必ず何かの要因があるはずだ。
イラン人にとってそれはラクダだったのではないか。
トルコ人やモンゴル人のような騎馬民族は、戦争と統治によって、ある時期に急速に膨張するという傾向がある。しかしイラン人はラクダを移動・運搬手段として、隊商を組んで、交易によって、徐々に中央アジアから四方へと、広がって行ったのではないか。ただし、暑熱湿潤なパンジャーブ地方に入ったアーリア人たちだけは、その地に適さないラクダを放棄したのだ。この仮説が正しいとすれば、そのステレオタイプな戦闘的イメージとは違い、イラン人は本来、どちらかと言えば友好的で、穏和な種族なのに違いない。
追記:イラン人、つまりアーリア人は馬による交易で広まったというのが定説のようだ。
暴力装置
国家というものが、「暴力」を独占する唯一の存在だと言ったのはたぶんマックス・ウェーバーで、『職業としての政治』だと思う。
と思ったら、それをすでに記事に書いている人がいた。ウェーバーは、「近代主権国家を合法的な暴力行使を独占する組織と位置付けた」のである。
どういう場で言ったかはわからないが、文脈的には失言だったのかもしれない。しかし、ここまで話がでかくなったら仕方ない。堂々と、反論すれば良いのに。
いちいち、補足する必要もないと思うが、マックス・ウェーバーと共産主義、もしくは共産党とは何の関係もない。
というか、『職業としての政治』のもとになった演説は、第一次世界大戦でドイツが敗北して、共産主義にかぶれた学生たちに向けて警句として放たれたものだ。
ウェーバーはばりばりの反マルキスト、右翼、帝国主義者、国粋主義者、大ドイツ主義者だった。
ビスマルクの信奉者だったと思う。たぶん。
共産党の議員たちは、純粋に、政治学を専攻した人間として、擁護してくれたのだと思う。
でも多くの代議士には、そのくらいの常識もない。
そういう意味では、一番まともな政治家は共産党員なのかもしれん。
ていうか、国会議員やジャーナリストは『職業としての政治』くらい読まんのか。
岩波文庫で、簡単に手に入るのだぞ。
暴力を飼い慣らすために国家というものができて、国家よりも上位の政治システムはまだ出来てないのだから、国家が暴力を行使する権利を独占するのは当たり前であり、そのために、文民統制というシステムがある。
その最高司令官が内閣総理大臣だ。
良くできたシステムだ。
それを、否定したいのか、なんなのだろうか。
たとえば頼朝は暴力を独占した。幕府というものだ。なんの正統性もない。しかしうまく機能したのは、頼朝が、政治の本質を把握してたからだろう。違うかな。
まあしかし、菅直人が、自衛隊の最高司令官だという自覚がなかったのには、苦笑した。
いろいろ思うこと。
最近いろいろと改めて考えさせられることが多いのだけど、たとえば、私はかつて、菊池寛の「俊寛」という、比較的短い小説を、いきなり青空文庫で読んだわけだが、当時菊池寛がこの小説を書いたときには、平家物語に出てくるこの俊寛という人物はかなり有名だったと思う。当時の平家物語というのは、今のスターウォーズやガンダムくらいの認知度があったに違いない。それで平家物語をガンダムに例えるならば、俊寛は、かなりマイナーではあるが、カイ・シデンくらいのサブキャラだと言えるか。それで、俊寛というのは、ガンダムを熟知したファンがうようよ居る時代に、カイ・シデンを主人公として書かれた、二次創作的な小説である、と言えば、だいたい当たっていると思う。
ところが、私の場合は平家物語に関する予備知識、というよりは俊寛や鹿ヶ谷事件などの知識がまるでない状態で、俊寛を読み始めた。だから、たぶん、菊池寛の意図とはかなり外れていたに違いない。それで、無人島に三人の男が流されてきて、その中の一人が俊寛という坊さん。いや、タイトルが「俊寛」なのだから、この俊寛という人が主人公に決まっているのだが、とにかく最初は、三人の人が流されてそのうち二人だけ赦免されて、俊寛だけが島に残される。そういう出だしで物語が始まるので、特別この俊寛という人に感情移入がしにくい。
だが、俊寛がロビンソン・クルーソーのような生活を初めて、村娘と親しくなって、村人に最初は反対されるが結局は結婚して幸せに暮らすなどという展開が、後半になって始まって、この辺までくるとすべて菊池寛の創作なのであるが、だんだんと俊寛を、この物語の主人公として受け入れることができ、感情移入も可能になってくるのだ。
それでまあこの菊池寛の小説を読んで初めて平家物語に興味が出て精読してみようかという気持ちになる。そうすると菊池寛がなぜこの小説を書きたかったのかがわかってくる。菊池寛の意図とはかなり違っていたかもしれんが、私はたまたまそういう読み方をした。
この小説は、途中まではかなり歴史、というよりは平家物語、というよりもそれから派生した俊寛の伝説、に忠実に進む。しかし途中から完全な創作に切り替わる。前半は歴史小説のようでもあり、後半は時代小説のようでもある。
いろんな人と議論してみるに、一番最初に出てきた人が主人公であって、その人についてのいろんな前振りがあって、主人公に感情移入ができるから、小説を読み進めることができるのだ、と言う。それ以外の小説は群像劇なのだという。主人公が誰だかわからずに話が進むとか、最後まで読んで初めて誰が主人公かわかるとか、最後まで読んで初めて作者の意図がわかるとか。そんな小説は読めぬと。確かにそうかもしれん。
「主人公が誰だかわからずに話が進む」「最後まで読んで初めて誰が主人公かわかる」という例を確かに私は示すことが困難だ。しかし、Half-Life: 2などの洋ゲーの設定にはときどき見られる。2004年に出たこのゲームは、ただひたすら格闘し殺戮するというFPSの世界にストーリーを持ち込んだ。FPSなので操作している主観視点のプレイヤーが主人公なのは明らかなのだが、自分がどういう人間で、ここがどこで、時代がいつでなどという説明は何もない。ただ G-Man とか Breen 博士などが謎の台詞を言うだけ。Alyx は準主役のキャラだが、彼女が登場しても、しばらくはこのキャラが何を意味するのかわからない。Half-Life: 2を終わりまでプレイしても、多くの謎は残ったままで、続編をプレイしてみないとわからないことが多い(※追記。Half-Life:2 は Half-Life の続編であり、Half-Life のスピンオフである Blue Shift や Opposing Force などもあらかじめプレイしたことがある人であるかもしれない。であれば出だしで自分が Gordon Freeman であって、Half-Life のエンディングで冬眠状態にされて、そこから目覚めて再び世界に送り込まれたんだということがわかるかもしれない。私の場合、よく覚えていないが、Quake や Counter-Strike などは多少やったものの Half-Life は知らないか、さほどやってない状態だったと思う)。
それで、このような設定は、ゲームをマニュアルや操作説明専用の練習マップなしで、いきなり始めるために、工夫されたのであるのは間違いなのだが、おそらくは、私は読んだことは無いが洋書には、このような前衛的な小説があるのに違いない。最初、状況説明もなしにストーリーが始まり、読んでいくうちに次第にいろんな設定が明らかにされていくが、多くの設定は語られぬままに本編終了。次回作を読まないうちは、ストーリーの多くは未完結のままに放置される。
実際、現実世界で、我々は、誰か初対面の人にあったとき、その人のことをすべては知らない。徐々に知っていく。旅行をして、歩き回っていくうちにその土地を知っていく。最初に主人公が出てきてある程度の状況説明がされるというのは、まあ物語の典型なのだが、そうでない小説もあってよいはずだ。というか、そういうタイプの小説の方が、圧倒的に新しいし、私には魅力的に感じる。
たとえば、比較対象としてわかりやすいように、サルゲッチュというゲームを例にあげると、このゲームは子供向けに作られた、よくねられたゲームであって、誰が主人公であり、何をしなくてはならないかということが、マニュアルにも、第一面のマップでも、丁寧に説明されている。そして、レベルが進むにつれて自然と操作方法にも慣れて複雑になっていく。こういうふうにゲームをデザインすれば、誰もが、ああ、これはゲームであると、素直に納得できるだろう。しかし、自分がゲームをデザインするとしたら、こういう万人向けのゲームは作らない。作るはずがない。なぜかというに、これは、商業用に練られたデザインであって、自分が作るよりもそういう人たちが作ればよいのであって、自分で作る必然性がほとんどゼロだからだ。
斗、俵、石
なんかややこしいので、まとめてみる。
まず、石高だが、太閤検地では、1石で5斗が良い田んぼ、1石で3斗が普通の田んぼ、1石で1斗しかとれないのが悪い田んぼ、と決めたそうだ。まあだいたい1石当たり2斗ないし4斗換算か。
本来は1石=10斗なのだろうが。10合が1升、10升で1斗、10斗で1石。なので1000合が1石に相当する。1年365日三食1合ずつ米を食うとだいたい年に1石になる。そこで人間が1年に食う米の量がだいたい1石、と見積もられた。
だいたい3.5升が1俵なので、年に30俵ほど食べることになる。
町奉行所与力は最初のころ知行を与えられてそこから得られる年貢がそのまま俸禄となっていたが、途中から蔵米の支給になった。つまり、最初は領地を持った殿様だったのがサラリーマンに変更になった。そのとき知行地取り200石が蔵米80石に変更になっている。幕府標準のレートでは1俵=0.35石=3斗5升なので、蔵米80石とは、約230俵。知行地で200石取れるということは、その内の0.65が農民の取り分、0.35が支配の取り分になるので、200×0.35=現米70石=200俵となる。まあだいたい同じ。
この石高と現米の換算比率と、石と俵の換算比率がどちらも0.35なのがややこしい。
ようするに知行1石と蔵米1俵はほぼ同じということだな。あと、金1両もだいたい米1俵と同じ。
ここで、町奉行所与力の大塩平八郎と、将軍侍講の成島柳北の俸禄を比べてみると、大塩は200俵で、成島は家格300俵+役料200俵=500俵。おおよそ与力は今の警部のような仕事で年収で言えば1000万円くらいだろうか。とすると成島の年収は2500万円くらい。大企業の取締役くらいの収入はあったことになる。多少家来を養ったりしなくちゃならなかっただろうが、軽く妾の一人二人は囲えたろうな。父子鷹には岡野孫一郎という1500石の旗本が出てくるが、これだと年収7500万円に相当する。家来を養わなくてはならないからすべてが個人収入ではないが、さすがにお殿様だな。
来宮秀雄
今日のイブニングの『おせん』にいかにも小林秀雄風な「来宮秀雄」という人物が出てきて、「へぇへぇたしか高等部の国語の教科書で読まされたでやんす。なんか難しいっていうか、全然遊びも無駄もない文章で、まるで一切つなぎを使わねぇそば職人のような」「ほほうまさに言い得て妙」などというセリフがあるのだが。まあ確かになんというか、志賀直哉や芥川龍之介の短編小説などは「遊びも無駄もない」と言えるかもしれんが、小林秀雄の文章はときにかなり饒舌、冗長に感じる時があるのだが、気のせいだろうか。まれにただ単に原稿料を前借りしているだけではないか思われるときもあるのだが。
「一切つなぎを使わない蕎麦」が「全然遊びも無駄もない文章」に似ているかどうかも微妙だ。そういう文章は省略や余韻というものを多用している。つまり技巧として、本来あるべき語句をそぎ落としているのであり、和歌や俳句などの短い詩形などにもよく使われる。単につなぎを使わないだけではない。逆に短い詩形だからこそ、遊びを使うこともある。遊びを使うために省略もする。
ははあ。国語の教科書で小林秀雄というと「無常という事」なのか。読んだことないな。
「無常といふ事」だが、ごく短い文章なので、さらっと読んでみた。どうということもない文章だが、なぜこのように有名なのか。そしてやはりだらだらとした随想風だ。森鴎外が晩年考証家に堕したというのはとるに足らぬ説であり、同じことを宣長の「古事記伝」にも感じ、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」「これが宣長の抱いた一番強い思想だ」などと書いている。難解な言い回しだがこれは単に「いろいろと想像で解釈をいじくり回すよりもたくさんの文献に当たって考証学的に意味を推量すべきだ」と言ってるに過ぎないのではないか。それと「常」と「無常」ということや、平安人と現代人の対比となっているのだが、やはり何が言いたいのかよくわからない。
果たして、「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」とは宣長の何を言っているのだろうか、と思うのだが、この「無常といふ事」は戦争中の昭和十七年に書かれたものであり、戦争中に読まれた「古事記伝」には特殊な意味があったに違いない。「本居宣長」は昭和四十年から書かれたものであって、当然昭和四十年に執筆を始めるときには宣長全集か何かを読み直した後のことであろう。だから、「無常といふ事」に書かれている宣長感は、後のものとはだいぶ違っているのに違いない。
ははあ。なるほど。これは、日本が戦争に負けてから出版されたので、「敗戦国民へ向けたメッセージ」として読まれたわけだ。そういう読み方もできなくもないが、それは明らかに誤読だろう。小林秀雄の宣長解釈もこの時点では何かあやふやであるし(そもそも小林秀雄の古事記伝解釈はちんぷんかんぷんだ)、それをまた読者は誤読しているわけだから、
小林秀雄の人気というのも実に怪しい。そしてそれを高校の国語の教科書に載せて、いったい何を読解しろというのだろうか。不思議だ。
追記。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」とはつまり、古事記に書かれている神話というものは解釈不能なもので、信じるとか信じないとか嘘とかほんとうとか今の時代の価値観とは切り離して、古代人が感じたままに鑑賞すべきであって、だからこそ美しい、と言いたいのだろう。あらためて「無常といふ事」を読み直してみたが、どうしようもない駄文だ。この文に何か意味があったとしてそれを理解することにどれほどの価値があろうか。
「過去から未来に向かって飴のように伸びた時間という蒼ざめた思想」とか「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」など、気取って、言葉をもてあそんでいるだけにしか見えない。
鴎外の仮名遣意見
假名遣意見 森鴎外。すばらしいね、こういうものがさくっと検索してただで読めるのだから。この中で、本居宣長のことは、本居とか、本居先生とかで出てくるのだが、
扨(さて)古學者が假名遣のことをやかましく論じて居るのに、例之ば本居の遠鏡(とほかゞみ)の如き、口語で書く段になると、決して假名遣を應用して居らぬと云ふことを、假名遣を一般に普通語に用ゐるのは不可能である、或は困難であると云ふ證據に引かれますけれども、是れは少し性格が違ふかと思ふ。古學者達は文語と云ふものは貴族的なもののやうに考へて居りますから、そこで貴族の階級を極く嚴重に考へまして、例之ば印度(インド)の四姓か何かのやうに考へまして、ずつと下に居る首陀羅(しゆだら)とか云ふやうな下等な人民は、是れは論外だ、斯う云ふ風に見て居りますから、所謂俗言と云ふものを卑(いや)しんだ爲めに、俗言のときは無茶なことをしたのであります。若し假名遣を俗言に應用する意があつたならば、所謂俗言を稍重く視たならば、あんなことはしなかつたらうと思ふのであります。
本居の遠鏡というのは古今和歌集遠鏡のことだが、確かにこれは宣長の著作としては珍しく、古今集を当時の完全な口語訳を、しかも逐語訳的に作ろうとしたものである。しかし、森鴎外の言うように、宣長は、俗語というものを卑しんだがために、ぞんざいな口語訳を作ったかというと、そうとは言えないように思うし、また仮名遣いという意味では、きちんと「を」「お」や「い」「ひ」「ゐ」などを使い分けているように見える。
それでありますから芳賀博士が、若し本居先生などが今在つたならば決して假名遣を國民に布くなどと云ふことは云はれないだらうと云はれるのは、同意が出來兼ます。本居先生が今在つたならば、必ずや國民に假名遣を教へようとしただらうと思ひます。本居先生のみならず堀秀成先生の如きも、是れは死なれてから間もありませぬけれども、若し今日居られたら矢張假名遣を國民に行はうとしたであらうと思ふ。
明治も終わりのころまで仮名遣いをどうするか、結論が出てなかったということだな。本居宣長が明治に生きていて、国民に「俗語的な仮名遣い」と「歴史的な仮名遣い」とどちらを教育しようとしたか、ということについては、まったく見当もつかないのだが。ていうか鴎外は、本居宣長の心境になりかわって、本居宣長ならばどう考えただろうかというような思考実験をしているようにはとても思えない。ただ宣長という権威を利用して自分の説を補強したいだけのようにみえる。
鴎外は要するに、ドイツ語にも英語にもフランス語にも正書法 (Orthographie) というものがあり、綴りと発音は決して一致していないのであり、それが当たり前なんだと言いたいわけだ。フランス語や英語に関してはまったくその通りで、特に英語はひどい。ドイツ語はかなり綴りと発音が近いが、 lieben の形容詞 lieb が [li:b] ではなく [li:p] と発音するなどの例をわざわざ探し出している。そして「歴史的仮名遣い」という言い方自体が何か過去の遺物のような印象を持たせてよろしくないから単に「仮名遣い」と言うべきだ、
などと言っている。
* 臨時仮名遣調査委員会
* 仮名遣