吾輩は猫である

仕方ないので『吾輩は猫である』を頭から通して読み始めた。

つい最近草枕4というものを書いたが、『草枕』が温泉旅館の女将を画工の目から見て描いた、当時流行っていた一種の暴露小説というか、自然主義小説というか、私小説の類いであって、また画工も漱石自身のカリカチュアであって、要するに『草枕』は漱石の自分語りというか、自分の実生活から取材してそれをそのまんまネタにした(当時の)現代小説である。

これに対して森鴎外の『阿部一族』などは全く別種の、純粋な歴史小説であり、ある対象を客観的に(あたかも医者が患者を観察するかのような視点で)記録したドキュメンタリーである。

『猫』は『草枕』とまったく同じで、猫の視点から描いた漱石そのものだ。漱石は教師をやったり、正岡子規と一緒に俳句を詠んだり、水彩画に凝ったり、新体詩を作ったり、バイオリンを弾いたりと、いろんなことを試してみるがどれも世間で評判になることはない、要するに世間によくいる、人よりもちょっとばかり高級な教育を受けたおっさんの一人、教養人の一人であった(そういう人を高等遊民というのはちょっと間違っていると思う)。それで、世間ではやはり小説を書くのが流行っていたので、ホトトギスを主宰している子規から勧められて小説を書いてみることになった。そしたら非常に好評だったので八話まで連載することになった。『猫』はただそれだけのものだ。

『猫』を読めば漱石が常日頃持病の胃弱に苦しめられており、知人にいろいろ勧められて試してみてもどれも効果がなかったことなど、彼の日常がそのまま書かれている。彼の妻、子供たち、使用人ら、付き合いのある友人ら、彼の仕事、日露戦争当時の世情などが、多少おもしろおかしく改変されてそのまま出てくる。なんのことはない、これは田山花袋の『蒲団』と同じでただの私小説だ。むしろエッセイに近い。ホトトギスという雑誌は新聞のように一般大衆が読むものではなかったのに違いない。それでも当時文芸に携わっている人はほとんどもれなく読んで、それでやっと漱石が世間に知られたというわけだ。そのことまでが全部第二話には書かれている。

国会図書館デジタルライブラリでホトトギスの誌面も見てみたのだが、筆名は「漱石」とだけ書かれていて、これが子規の友人である夏目金之助という人だとはすぐにはわからない、最初はほとんど匿名に近い投稿だったと思われる。挿絵が入っているのだが、これがまた話とは何の関係もない、日露戦争とか朝鮮の絵なのがおかしい。この挿絵、とっくに著作権保護期間は過ぎているはずだが、公開範囲は「送信サービスで閲覧可能」になっているからここに貼ることはできない。

漱石は私小説『猫』を書いてそれがたまたま当たったので『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』もまた私小説ではあるが、だいぶ脚色されている。それで『坊っちゃん』も当たったので今度は少しひねって『草枕』を書いたがこれまた一種の私小説であった(『草枕』はモデルとなった女性については漱石の妻が詳しく記述しているし、漱石が温泉を訪れた時のことも詳しく調べられているから、どういう素材をどういうふうに加工してああなったのか、分析するのにちょうど良い)。『草枕』も、評判は悪くはなかったがそれほど当たらなかった。自分自身のネタがだんだん尽きてきたので今度は他人を取材して『坑夫』を書いた。しかし『坑夫』にもある程度漱石自身が投影されているように思える。たぶん自己の体験と取材対象からの聞き取りを適当に混ぜ合わせて話を作ったのだろう(私が一番しっかりと、たびたび読み返したのは漱石の作品は『坑夫』である。だから『坑夫』のことは漱石の作品の中では一番良く知っている)。

でまあこのあたりで教員をやめて朝日新聞専属の作家になったりしたもんだから、まじめに(?)小説を書き始めた結果が『こころ』などになった。夏目漱石という人はただそれだけの人だったように思う。

それで、普通の人は、高校生くらいで教科書で『こころ』を読まされて、それで『猫』の冒頭部分やら『坊っちゃん』などをちょろっと読んで、あー俺も夏目漱石わかるわかると思って、夏目漱石という人は偉い人だな、俺にもわかるわーとか思って、それ以上漱石とはどんな人だったかなんてことは深くは考えない。『猫』にしても全部を通して読んだりしない。読んだとしてもさらっと流し読みしてそのまんま忘れている。要するに社会的に記号化された、記号としての漱石は知っているが、漱石とは何かというところまでは考えたりしない。試験に出るから覚えているだけのことだ。小林秀雄にしてもそうだ。世間で偉い文芸評論家だというから、ちらりと読んでみて、記号としての小林秀雄を知っているだけで、なぜこの人はこんなことを書こうと思ったんだろうというところまでは考えない。小林秀雄は漱石ほど頻繁に名前が挙がることはなく試験に出る頻度も少ないから知らない人は知らない。逆に漱石はみんなが知っている。ただそれだけのことなのではないか。

ほとんど無名時代の漱石が、ほとんど匿名で寄稿したこの一話読み切りの『猫』を当時の感覚で読んでみないことには『猫』を玩味することはできないと思うのだ。予備知識や先入観をできるだけ捨てて。そうしないと漱石という人がわかってこない。

『猫』で、猫の絵を描いているのだが目が描かれてないとか、猫なのか熊なのかわからないとか、色も全然違うとか、人の描いた絵を見ても何が描かれているか察することができないとか、そういうのは漱石が自分の絵を人に見せて言われたことをそのまま書いているのだろう。実際漱石は目を描くのが下手だと思う。目を描けない、顔や表情を描けないのでは絵描きになることはできまい。

日本文化の恣意的な切り取り

ドナルド・キーンに「三島由紀夫」という文があり、その中で彼は三島が自決に際して詠んだ辞世の歌2首を紹介している。

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜

キーンは

この二首は彼の最後の短歌であると同時に、昭和十七年(一九四二)、十七歳の吟以来、最初の短歌でもある。

と言う。この十七歳の吟とは「大詔」という詩のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の
おほみことのり宣へりし日
もろ鳥は啼きの音をやめ
もろ草はそよぐすべなみ
あめつちは涙せきあへず
寂としてこゑだにもなし
朗々とみことのりはも
葦はらのみづほ国原
みなぎれり げにみちみてり
時しもや南(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の首(かうべ)に、
高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ
時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人
玉藻刈る沖にしづめぬ、
かちどきは今しとよめど
吉事(よごと)はもいよゝ重(し)けども
むらぎものわれのこころは いかにせむ
よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞かなにかのように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。

三島が割腹自殺したのは11月25日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは3ヶ月前の7月であったらしい。要するに三島はその場で歌を詠んだのではなくて、かなり久しい以前からこれらの辞世の句を準備していた、ということになろう。長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島はたぶん居合刀のことを言っているのだと思うが、私は、そんな鞘鳴りするような刀を見たことがない。居合の演武で、刀が鞘とぶつかってカタカタ音がするなどというぶざまなことはほぼあり得ないと思うのだ。けなしているというより、違和感を感じるというか、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものをこれらの歌から感じるのである(おそらくそれは三島作品すべてに言えることだろう)。

歌の嗜みがない人が辞世の歌だけはあらかじめ用意しておく。さいとうたかをの『鬼平犯科帳』には磔になる罪人が辞世を代詠してもらう話があるけれども、そういうことはあっても良いと思う。その上で敢えて言わせてもらうが、和歌というものは、無意識のうちにその場ですっと出てきたものが良いのである。巧んで時間をかけた作り事はすぐに見破られる。異臭がするのだ。作為の後が残る歌はダメだ。そのため歌人はふだんから歌を詠みならして、口慣らしをして、自然と歌が出てくるようにしておく。そうしていくつもいくつも歌を詠んでいって詠草がたまっていって、その中にたまたま良い歌が混じる。歌とはそうしたもののはずだ。

三島はおそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。鞘が鳴るたびに(おそらくそれは幻聴であろうが)、自決を、あるいは蹶起をうながされているような気持ちになる。その誘惑に、その衝動に、もう何年も耐えてきた。そしてついに今日自決するのだ。今朝、目の前には白い霜がおりている。もちろん腹を切るのも日本刀。介錯で首を落とすのも日本刀。私には戯画としか思えない。

三島由紀夫という人は歌人ではなかった、彼が生涯で詠んだわずか2首の歌、それも辞世の歌をドナルド・キーンがわざわざ取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。ドナルド・キーンは日本文学の研究者だ。その彼がなぜこんな特殊で奇妙な歌をわざわざ論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。ある種の悪意、あざとさ、とでもいえそうなものを私は感じる。そこに私は恣意的な切り取りを感じざるを得ないのだ。

この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。

三島由紀夫はネイティブ並に英語が話せたのでそりゃあ外国人には受けが良かったであったろう。しかもハラキリ自殺までしたのだ。それがキーンの執筆動機か?

キーンは石川啄木についても書いている。キーンが歌人について一番まとまった文章を書いているのは啄木だ。なぜ啄木だったのだろう。啄木は日本を代表する歌人であろうか。最も偉大な歌人であろうか?

啄木は大和歌の破壊者であった。彼は最初まともな古語で和歌を詠んでいたのだが、途中から疑似文語とでもいおうか、へんてこりんな言葉で歌を詠むようになった。彼がきっぱりと因習を離れ、すなおに現代口語で歌を詠むならそれはそれでよかったのだが、大和言葉を変に改造した、気持ちの悪い人工言語を発明した。それは大和言葉をゆがめ、その血管に毒を流し、死に至らしめる作用をする。啄木は意図的に大和言葉を殺そうとしてああいう歌を詠んだし、だからこそ啄木は名声を博したのである。おそらくドナルド・キーンはそのことを十分に察知していた。啄木という腹黒い男のことを熟知していたからこそ、ほかの歌人はほっといて、この明治の文明開化期に出てきた旧時代の破壊者啄木を取り上げたのだ。啄木だけを取り上げるということは啄木と対極にいる保守的な歌人らを暗に否定しているのだ。キーンもまた啄木の一味だということだ。

世間ではメディアの切り取りということがしばしば問題視されるが、ドナルド・キーンが、さまざまな日本の文物を見渡した上で、三島由紀夫とか、足利義政とか、石川啄木のような、尋常ではない部分を敢えてピックアップして蒸し返し、さも普遍的な日本文化であるかのように紹介することは、日本文化というものを奇形たらしむることになりはしないか。

実朝

小林秀雄はともかくたくさんものを書いているから、それらに一通り目を通さぬことには、小林秀雄について語ることはできまい。しかしながら、彼が歌人について書いたのはどうやら西行と実朝の二人だけらしい。昭和17年から18年にかけて、つまり戦争の真っ最中に。私は和歌についてはそれなりに学んできたと思っているので和歌について彼が語っている部分には多少口出ししても差し支えあるまい(和歌についてはもちろん彼は宣長のことも多く語っている)。

この西行と実朝の二人について書いたのは、芭蕉が弟子に「中頃の歌人は誰なるや」と問われて言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたからであるらしい。実に不純な動機である。まず芭蕉がほんとうにそういうことを言ったかどうか。小林秀雄は話のネタにするためにはどんな怪しげな伝説でも採り入れて勝手に話を作る。実際、

文学には文学の真相といふものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もつと深いところに行かうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。

などと言い訳している。なるほど小説などのフィクションならばそれでよかろうが、評論はどうか。時代小説なら?歴史小説なら?小林秀雄はその線引きを意図的にごまかし曖昧にして話を盛ろうとしているようにもみえる。と思えば別の所では

僕には、実朝が、そんな役者とはどうも考へられない。「吾妻鏡」編纂者達の、実朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思つてみる方が自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人達の無量の想ひを想像してみるのは更に興味ある事である。

などとしれっと書いていたりする。信じてみたり疑ってみたり変幻自在だ。

で、「西行」に比べれば「実朝」は割としっかり書かれた文章であって、やはり、小林秀雄はある程度まで和歌のことはわかっている人である、と思われる。

出でて去なば 主無き宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

が贋作なのは明白だが、私はかつて

もののふの 矢なみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

も贋作なのではなかろうか、と疑っていた。実朝がこんないかにも武士らしい、武張った歌を詠むとは思えなかったからだ。正岡子規もこの歌をべた褒めしていてますます怪しい。しかしいろいろ調べてみるに、これはそんな、いわゆる武家の棟梁が冬の那須高原で巻き狩りなぞをしている(父頼朝が富士の裾野でやったような)ところを目の当たりにして詠んだ歌ではなくて、単に人の歌を本歌取りにしただけの、宮廷趣味的な、或いは習作的なものであったのだろう、ということがわかってくる。おそらくこれはただ単に定家の

大空に たがぬく玉の 緒絶えして あられ乱るる 野辺の笹原

を多少アレンジしたものであったに違いなく、また、

時雨降る 大荒木野の 小篠原 濡れはひづとも 色に出でめや

わが恋は あはでふる野の 小篠原 いくよまでとか 霜の置くらむ

雪深み 深山の嵐 さえさえて 生駒の岳に あられふるらし

笹の葉の 深山もさやに あられ降り 寒き霜夜を ひとりかもねむ

笹の葉に あられさやぎて 深山辺の 峰のこがらし しきりて吹きぬ

などといったよく似た歌もある。あられの歌をあれこれ詠んでいたときにふと弓場で矢を射る武者の姿が目に入り、歌に採り入れてみただけだったかもしれない。まあしかし、いきさつはどうであれ、よく出来た歌だと思うし、実朝の真作であるとすればすごいことだと思う。

思うに小林秀雄は歌人について何かおもしろおかしく書いてほしいという依頼があって西行と実朝を取り上げて論じてみただけだと思う。あまり深読みしても仕方ないし、それほど歌人や和歌に興味があったとも思えない。彼は彼の書きたいようにものを書けば良いのであってそれは彼の自由であってそれに対してあれこれ言っても仕方ないのだけれど、世間一般の西行像、実朝像が、小林秀雄の言っていることとにたりよったりの焼き直しばかりなのは腹立たしい。もっと全然違う角度からいくらでも眺められるのに。ウィキペディアにせよ、ブログにせよ、AIにせよ、小林秀雄の個人的感想をそのまんま再生産している。

西行再説2

鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

この歌は『山家集』には採られていない。

西行こと佐藤義清は北面の武士であった。鳥羽離宮北の詰め所に彼は伺候していたわけだが、要するに御所の裏口、勝手口であって、彼がその職を辞するとき鳥羽院にこのような歌を奉っていとまごいとしたというのだが、ほとんどあり得ないだろう。謁見の機会すらほぼありようがなかったと思う。まして顔や名、詠んだ歌など覚えられてもいるまい。そういう関係で、こういう無礼な物言いの歌を院に詠むはずがない。さらに鳥羽院はまったく歌を残さない人だった。歌を詠まないか、歌に関心がない人だったはずだ。その鳥羽院にわざわざこんな過激な内容の歌を西行が詠んで出家した。後足で砂をかけるような勢いで。などということはどうみても創作、おそらく山伏か僧兵のごとき者たちが口ずさんでいたような当時の歌謡ではなかったか。

この歌に対して小林秀雄は

決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑はされなければ、一切がはつきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた廿三歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向つて開かれ、来るべきものに挑んでゐるのであつて、歌のすがたなぞにかまつてゐる余裕はないのである。

自分の運命に関する強い或は強過ぎる予感を持つてゐたのである。

などと言っている。なるほど上に掲げた歌は確かに当時抑圧され鬱屈していた若侍たちの荒ぶる心理を代弁したものに違いない。しかしそれを西行本人が詠んだかどうかということは別問題だ。

西行の真作とみておよそ間違いないと思われる歌を眺めてみて、この歌を見るといかにも異様で異常である。

小林秀雄は西行が出家するときには何かしら激情に駆られてこのような異常で苛烈な表現をとったのだと思ったのかもしれない。だがそれは非常に無理がある。平安朝末期の歌人とはいかような人種であるか、ということがわかってないのではないか。

西行とて当時の歌人の一人であった。ふだん穏やかな、どちらかといえば感傷的で耽美的な歌ばかり詠んでいる人がいきなりこんな歌を詠む、というような事例はない。ふだんから変な歌を詠む人は変な歌しか詠まないし、平凡な歌ばかり詠む人は平凡な歌しか詠まない。

西行のごくありきたりな、おもしろくもおかしくもない歌をたくさん見てみるとよい。そういう歌は他人がわざと西行の名をかたって詠んだりしないから、西行本人の歌である可能性が高い。逆に奇抜でなんだかおもしろそうな歌は、他人が西行の名で詠んだのではないかと疑ってみなくてはなるまい。『御裳濯河歌合』『宮河歌合』『山家心中集』などは西行本人の自選集とみなしてほぼよかろうと思うから、そうしたところを中心に見るとよい。『山家集』もまあ信じてよかろう。『異本 山家集(西行上人集)』には頓阿の跋があるが、西行の時代から離れすぎていて信じがたい。拾遺や追加などはほぼ信用できないと言って良いと思う。

そうしてだいたい西行が詠んだとして間違いなさそうな歌ばかりを見ていけばその全体像がわかってくるはずだ。そうしてたとえば「花の歌あまた詠みける中に」などという連作の中に出てくる

おしなべて 花の盛りと なりにけり 山のはごとに かかる白雲

などはどう考えても西行の歌に違いあるまい、と思えてくる(『御裳濯河歌合』にも出てくるから真作に違いないのだが)。こうした歌はどれも一見平凡だが、テンプレがなく、簡単に詠もうと思っても詠めない歌ばかりであることがわかる。言葉も平易で無理がなく、調べも整っている。癖が無くひっかかるところがないので見過ごしてしまいがちだ。ふだん和歌に親しんでいない人には単なる凡作にしか見えないだろう。それが西行の歌の特徴であって、逆に何か違和感(荒さとか雑味、と言っても良い)のあるものは偽物である可能性が高い。

風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな

西行は京極派のような、字余りの多い歌人だと言われているのだが、こんなふうに露骨に字余りのある歌を西行が詠むとはとても思えない。京極派の歌人が西行の歌を偽造したのではなかろうか、とさえ思える。

この歌に対して小林秀雄は

これを、自讃歌の第一に推したといふ伝説を、僕は信じる。

この歌が通俗と映る歌人の心は汚れてゐる。

などと言っているのだが、彼はどうしてこの歌をそれほどまでに気に入ったのだろうか。私にはまったく理解できない。私はこの歌を通俗とは思わない。ひどく不細工で、西行に全然似つかわしくないと思えるのである。こういうひどくいびつ(というかぞんざい)な歌は京極為兼以降に出てきたものであって、西行の時代にはまったく許容されていなかった。西行だから敢えてそれをしたのだという人もいるかもしれないが、私にはあり得ないと思う。

どうも西行という人はとんでもなく誤解されている。誰も西行のことを知らないし、まともに解説もできていない。

西行本人にまとわりついている、西行以外のなにか。西行はあまりにも有名で、あまりにも人気が高くて、その割に身分が低く、歌の真贋を確かめるすべがない。そこが利用されたのだ。もっと具体的に、ありていにいえば、当時の仏教徒たち、平家物語なんぞを創作した坊主たちによって好き勝手に脚色されているのだろうと思われる(ほとんど同様のことが太田道灌の歌にも言える)。それを今日の骨董趣味の連中がやはり自分たちの好き勝手に利用してきたのだ。西行、道灌ばかりではない。定家しかり。百人一首しかり。何もかも今一度きれいに洗濯してみてはどうか。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

この歌はもともと『詞花集』に採られた詠み人知らず、題知らずの歌であったが、『西行物語』に採られたために西行の歌ということになったらしい。「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と口ぶりが非常に良く似ている。桑原博史編『西行全歌集 』新典社には「別本山家集にはあって筑波大本には無い歌」の中に載る。要するに鎌倉時代になってから、適当に『詞花集』などからそれっぽい歌をみつくろって、「文武に秀でた青年であったが,25歳のとき友人の死を身近に見て無常の思いを強め,袂にすがる娘を縁側から蹴落として西山に走り,出家する。」などというドラマチックな物語をでっち上げたのであろう。実に馬鹿げたことだ。そして小林秀雄もかなりそのイメージに引きずられているように感じられる。というより、わざわざ西行が詠んだかどうだか疑わしい歌ばかりピックアップして虚構の西行像を造り上げようとしているようにも見える。

繰り返しになるがその当時そのように世の中に絶望し、やけくそになって出家した若者は実際に数多くいたのであろう。だからこそそんな物語が作られて世に流布した。しかしその主人公が西行であった可能性は低いと私は思う。

日本文学とか日本史とか、ちょっと冷静に客観的に考えてみれば、何もかも嘘っぱちだらけなんだが、みんななんでこの現状に耐えられるんだろう。そうか、みんな真実よりも伝説のほうが好きなんだな。リアリズムよりフィクションやファンタジーのほうが楽しいんだ。誰かにだまされているほうが幸せになれるんだ。そうに違いない。当時西行は身分が低すぎたから詞花集には詠み人知らずで採られたのだと。なるほど無名の武士が出家して詠んだ歌ではあったかもしれないが、それが西行とは限るまい。

西行再説

西行の歌、西行などを読み返しているのだが、

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

または

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

などはおそらく後世、西行の名をかたった偽作であろう。西行は民衆に仏道を説くような人ではなかったし、こういう露骨に抹香臭くお説教臭い歌を詠む人ではなかったはずだ。西行は悟りを開いて魂を救済されたい、現世は嫌だ、死後の世界で救われたい、などと思っていたのではないはずだ。俗世に未練たらたらな人だったはずだ。たとえば

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

などのような歌こそが西行の歌であるようにおもわれる。

「俗世を捨てて出家する人は、自分を捨てたのではない。後の世で救われるのであるからむしろ自分を拾ったのである。自分を助けたのである。現世で世を捨てぬ人は、あの世で自分を捨てているのである」とか。「この世は惜しむほどのものだろうか。この世を捨てて、出家して、身を捨てればこそ自分を助けることになるのだ」とか。こうした厭世観というか現世否定とか浄土思想とかあるいはあからさまな布教活動というものは西行には似つかわしくない(西行という名前には明確な浄土思想を感じるけれども)。だがたとえば兼好ならこんなふうな歌を喜々として詠むに違いない。

日本仏教は聖徳太子、役行者、弘法大師の頃から有名人を使ってやたらと奇跡や伝説をでっち上げて布教活動に利用してきた。キリスト教の聖遺物や聖者と似たようなものか。

小林秀雄はもしかすると、出家した直後の西行は俗世に対する執着心が捨てきれずに、それゆえ「馬鹿正直な拙い歌」を詠んだりもしたのだが、修行して悟りを開いてからは達観した歌を詠むようになったのだ、世の無常を知り悟りを開いたので、はかなく散る花や空を流れる雲の美しさを詠めるようになったとでも思ったのだろうか。

そうではあるまい。西行は出家する前も、出家した直後も、老いて死ぬ直前も、女々しい男であった。あくまでも人間的な、迷いを捨てきれぬ人だった。私はそう思う。そうでない歌は、西行の名を借りて仏教を広めようとする偽者が詠んだ歌であると思う。果たしてどちらが真実であろうか、悟ろうとして悟り得ない愚かな人間と、行いすまして悟りを目指し、人をも悟りへ導こうとする人と。他人の名声を盗用してまで己の教えを広めてもらいたいとは仏陀も思ってはいるまい。

阿部一族

武士にとって名前を残して死ぬことがすべてである。

私もなぜかいつの間にかその考え方に感化されていたようだ。森鴎外は明らかに武士であるが夏目金之助こと夏目漱石はその趣味や嗜好はともかくとして、まったく武士ではなかった。

森鴎外がなぜあれほどまで阿部一族で、いろんな人をサーベイして事細かに記録したかといえば、鴎外自身が武士であったからだ。彼は小説が書きたかったのではない。自分の小説が後世まで残る確証をすでに得ていた鴎外は、自分の小説に彼らの名前を記載し、彼らを永遠に人の記憶に残しておきたかったのだ。彼らを顕彰したかったのだ。

森鴎外にとって面白い小説を書くことなどなにほどのことでもなかった。おそらく鴎外は自分が売れっ子作家になろうという気持ちもなかった。彼はなすべきことは十分にやりすぎるほどなし終えていたから、さらに小説家として名声を得たいとおもっていたかどうか。

彼にとって、歴史に名を残すという仕事はもうし終えていた。だから、人に読まれ喜ばれる小説を書こうなどという気持ちはなかった。ただ阿部一族の人々を未来永劫、日本人の記憶にとどめる。そのためにだけあの小説書いたのだ。

二発目以降もよく売れた一発屋

森鴎外は長編も書くが短編も書いている。芥川龍之介だって、菊池寛だって、中島敦だって、志賀直哉だってそうだ。みんないろんなものを書いているが、夏目漱石はほとんど純粋に雑誌か新聞に連載する小説しか書かなかった。

普通小説家になろうとする人は短編か中編を書いてみて、だんだんに長くしていって長編小説を書くものだろう。漱石はいきなり長編を書いた。ずいぶんおかしな人だと思う。これもやはり連載小説という形であったからそうなっただけだとしかいいようがない。

漱石は『猫』以降も、基本的に長編小説しか書いてない。『猫』『坊っちゃん』が雑誌「ホトトギス」連載、『草枕』も雑誌連載、次の『二百十日』は『草枕』の続編か何かのような、熊本の山の中をただ歩きながら登場人物二人が会話ばかりしているへんてこな中編小説。その次の『野分』は「ホトトギス」連載。その後は全部朝日新聞連載。

処女作の『猫』がとにかくいきなり長い。最初は一話読み切りのつもりで、試しに書いてみたんだろうが、好評だったからなし崩しに連載になった。上巻、中巻、下巻と三部に分かれていて、猫が死んで終わりにしたのに、まだ続編を書いてくれと言われたと下巻の序に書いてある。とにかく読者からの要望が多かったからこんなに長い話になったのだろうが、これといってストーリーがあるわけでなく、だらだらと続く話だ。同じことは『坊っちゃん』にも『草枕』にも言えるだろう。

漱石も『こころ』あたりまでくるとちゃんとあらかじめしっかりストーリー構成して計画的に書いているが、『猫』はそうではない。まったく無計画に書いている。『草枕』もストーリーは基本なくて、書きたいことをただ書きたいように書いてみて、それで読者の反応を見ている感じ。『二百十日』はさすがに読者ももうわけがわからなくて、書いている本人もわからなくて、あんな落語か漫才の出来損ないみたいな話になった。

あとから朝日新聞に連載した作品群はともかくとして、基本的に漱石という人は一発屋である、というより二発目以降もよく売れた一発屋という性格の作家であって、人に言われるがままに書いて、それがなぜか毎度好評だったので、書き続けるしかなかった。彼はきっとなぜ自分が小説家のようなことをやっているのか最後までわからなかったのではないか。

当時は病弱で短命な人はいくらでもいたけれども、漱石もやはりそうした一人であって、小説を書き出した頃にはすでに相当病んでいたが、売れっ子作家になり、朝日新聞専属作家になったあとにますます症状が悪化して、死を意識しなくては作家活動もできなくなってしまっていただろうと思う。もしかして創作活動をきっぱりやめてしまえばもう少し長生きできたのかもしれない。そうした創作活動で精神をやられて体を壊してしまう人だったのではなかろうか。自分の好きな物を書くのでなくて、読者の評判を気にしすぎていたのかもしれない。一生熊本辺りで高校教師をしていたほうが楽しく暮らせたのではなかろうか。

自分の話をすると「エウメネス」も最初は、ゲドロシアの沙漠で兵士が捧げた兜一杯の水を捨てる話をメインにした短編だった。ところがこれが良く売れるので続編を3巻目まで出した。それでもまだ売れ続けたので切りのよい6巻目まで書いたのだった。必ずしも長編を書きたかったわけではなく、短編は中編も書いてはいたが、反応を見てだんだんに長編も書くようになった。逆に何の反応も無しに長編を書くことなんかできないと思う。

小説を書き始めたきっかけというのは、もう何度も書いているが、宮本昌孝『義輝異聞』を読んだからだった。ああこういうものを書いてもよいのか、こういう題材であれば私にも書けそうだという気になり、「将軍放浪記」というのを書いた。それより前に「アルプスの少女デーテ」などというものをちょこっと書いたこともあったのだが、何よりも私はたぶん、頼山陽とか本居宣長なんかにはまっていた頃だったから、そういうものをそのまま小説に書くのもありなんだなというとっかかりになった。一度書き始めると現代小説なども書いた。人が書いたものを読むだけというのにすっかり飽きてしまっていたから、自分が読みたいものを自分で書くようになった、というのが一番動機としては近いと思う。

それ以前はいろんなものを乱読していたのだが、久しぶりに部屋の片付けなどするとそうした乱読時代に買った本がたくさん出てきて、塩野七生なんかは今ではまったく嫌いになったけど昔は良く読んだよななどと思い返した。嫌いになったのはこの人が完全に西洋史観に完全に没入した人で、かつ歴史認識にもいろいろ問題があるからで、要するに、司馬遼太郎のたぐいで読めば読むほど嫌になるタイプの小説を書くからである。しかしながら彼女のハンニバル戦記などは「エウメネス」を書く上で大いに影響を受けているには違いない。昔自分が読んだ本を、自分が書いた物の原点を再確認する作業のつもりで読み直している。宮城谷昌光『重耳』は割と好きで読んだが、改めて読んでみてやはり面白いと感じる。他には子母沢寛、陳舜臣、酒見賢一などを読んでいた。宮崎市定は手に入るものはほとんど全部買ってあるのではないかと思う。そうしたものを読んだ上で次第に平家物語とか太平記とか吾妻鏡とか六国史や伊勢物語なんかの、より古いものを直接読むようになっていった。

幸田露伴『努力論』を読んでみたがまったく面白くない。こういう校長先生のお説教みたいな本をよくもまあ書いたもんだとしか思えない。幸田露伴ってどこが面白かったんだろう?

森鴎外の短編はまあまあ面白い。改めて不思議な人だなと思った。というより、鴎外もまた普通の人だし、漱石は漱石で普通の人であっただろうし、露伴は露伴で普通に真面目くさった人だったのだろう。

ドナルド・キーン再説

このブログはもうずいぶん昔(私が30才台の頃)から書き散らし書き殴っているもので、手直し・書き直しが必要なのだが(改編するというわけでなく書式などのメンテナンスが必要ということ)、ふと、25年も前(ということは35才の時)ドナルド・キーンついて批判している文をみつけた。

ドナルド・キーン、ドナルド・キーン2、ドナルド・キーン3、宣長の違和感、原勝郎、「山月記」はなぜ国民教材となったのか

どうであろうか。すでに書いたことはできるだけ繰り返さないが、司馬遼太郎がとんでもない歴史音痴なのは今更どうしようもないとして(そういえば合羽橋に行ったとき台東区立図書館の池波正太郎文庫に行ったら司馬遼太郎の本まで置いてあった。あれはけしからんことだ。ちゃんと分別してほしい。合羽橋には雨合羽は売ってなかった)、ドナルド・キーンはなぜよりにもよって、足利義政に興味を持ったのか。他に面白そうな人はいくらでもいるのになぜ義政の本をいくつも出したのか。

25年前の私は彼が先に、京都人か誰かに感化されて室町文化、東山文化に興味をもちそこから義政に興味をもったのではないか、と推測しているのであるが、それは原勝郎という人が

書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

と言っているのと同じだ。しかしそれだけでなく、今思うに、彼は義政を彼のライフワークである明治天皇にぶつけて、日本という国の典型的な最高権力者(しかも権威的な、象徴的な意味での)の、特に際立った、特徴的な二人を対比してみたかったのではなかろうか。

この、ドナルド・キーンという人に取り上げられたことは義政にとって非常に迷惑なことであった。同時に、足利義政の比較対象にされた明治天皇にとってもまったくありがたくはないことだったと思う。ドナルド・キーンによって日本史研究は多少とも進歩したのだろうか?非常に疑問だ。司馬遼太郎を引っ張り出してきてこんな対談をして合いの手を打たせたりするようでは、たかが知れている。むしろ日本史に対する誤解を再生産し変な箇所をことさら膨らませて奇形にしただけだったのではないか。

ドナルド・キーンという人が義政を「ろくでなし」「気違い」などと考えたということは(それを後白河法皇に対して言うのであればまだわかる気もする)、彼にそう思わせ、そう言わせた日本人が彼の周りに相当数いたということだ。また北条泰時のような天才に対して「鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。」などと発言していることも、彼がちゃんと自分で調べなかったせいというよりは、当時の日本の歴史観というものがそうしたものであった、特に、京都人はことさらに応仁の乱を馬鹿にして義政をあざけって悦にいり、鎌倉北条氏をおとしめて溜飲を下げていたのだろうと思われるのだ(ドナルド・キーンとどこかの公家の子孫が茶室かなんかでそんな話をしているシーンが目に浮かぶ)。足利氏にしても京都人にとっては北関東からでてきた野蛮人程度の認識なのだろう。

司馬遼太郎のように、室町将軍のことも応仁の乱の意味もなんにもしらずに、「どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが」と放言する輩が戦後日本には大勢いたのだろう(たぶん今もおおぜいいる)。

私は高校で日本史をとらず世界史を取った(とすでに書いているけれども)。どこかで日本史を小馬鹿にしていたのだと思う。当時の新聞が読むに値しなかったように、日本史などというものは学ぶに値しないものだと思っていたと思う。そしてのちに「日本外史」で日本史を一から独学した(これもすでに書いている)。江戸時代の人は室町時代を良く知っていた。今の私たちが明治時代を熟知しているように。

今の人たちはかつて関東で利根川を挟んで、西関東と東関東に分かれて戦争をしていた、なんて話をまったくしらない。は?それはいったいどんな歴史創作ものですか、何かちょっと面白そうですねなどと言われる。れっきとした事実である。そしてそれにそれを元ネタにした小説ももうある。江戸時代に滝沢馬琴が書いた南総里見八犬伝がそれだ。人は往々にして、太田道灌や、北条早雲やその子孫らがどういう経緯でどんな戦争を闘ったかなどということは把握しておらず、彼らの名前だけ知っているだけだ。江戸城も川越城も元はといえば、西関東を支配する関東管領上杉氏の家宰太田氏が、東関東の古河公方と対峙するために建てた城だ。

応仁の乱で京都が戦場になった、戦に焼かれてお寺もボー、などという話は良く知っているくせに。関東に生まれ育った人でもよっぽど郷土史に詳しい人しか南総里見八犬伝のベースとなった関東の歴史を知らない。自分が住んでいるところの郷土史としては知っていてもそれが日本史全体の中でどういう文脈にあるかを認識していない。

京都と関東は連動していた。京都しか見ていなくて応仁の乱がわかるはずがない。義教が関東をぶっ壊したせいで、関東は大乱となった。義政はそれをなんとか収めようとして余計火に油を注いだ。義政が何もしなかったのではない。無能だったのでもない。嫁の日野富子の尻に敷かれていたせいでもない。不可能だったのだ(もし義政が強権を発動すれば義教や義輝のように家臣に暗殺されるか義昭のように京都から追放されるおそれがあった。勢い合議制にならざるを得ず、細川、山名などの大族には遠慮せねばならぬ)。

京都の室町将軍と関東の鎌倉公方はもともと尊氏の息子たちだったがだんだんに血が遠くなり、足利本家の室町将軍と分家の鎌倉公方が対立するようになって(江戸時代に徳川氏が御三家、御三卿どうし対立しなかった(少なくとも戦争には発展しなかった)のは足利氏の前例を学んでいたからだ)、関東の方が先に幕府体制が崩壊していき、それが京都へ逆流してきて応仁の乱になった。足利将軍が守護を任命して日本全国を支配するという制度は東から西へと崩れていった。その全体的な流れを説明しなくては応仁の乱も戦国時代もわかるはずがない。日本外史を読めばその流れはわかる。南総里見八犬伝を読めばだいたいの雰囲気はわかる(あれを通読する人は滅多にいないとは思うが)。江戸時代の、京都の人はともかく、関東に住んでいた人たちはみんなわかっていたはずだ。ところが今の日本史では室町時代をほとんどまったく教えない。ただ京都室町御所で茶の湯がー、申楽がー、書院造りがー、連歌がーと芸能にうつつを抜かしていたら突然青天の霹靂のごとく応仁の乱が勃発し、義政は銀閣寺を建てて政治から逃避し、日野富子は義政を尻に敷き、ぐだぐだ戦争が続いて日本全体に波及して戦国時代になった、くらいのことしかいわない。で、司馬遼太郎の書いたものばかり読んでいる。室町時代がわかるはずがない。

私も関東に住み、東京神奈川、埼玉や千葉などあちこち経巡ってきたせいで、関東のことがだいぶわかるようになってきた。東京は日本の首都であるはずだが、日本人は関東のことをわかってない。

ともあれ。私が最近書いた本でも(いつ出版されるかわからないが)ドナルド・キーン批判をしたのだった。彼はいろいろわかってない。それはやむを得ないことだ。しかしながらみんなドナルド・キーンの研究はすごく優れたものだと思い込んでいて、実際にはろくに読んでもいないし、ちゃんとした検証などまったくされていない。これは困ったことである。

根岸の里

よせば良いのに、山谷堀から墨田公園まで歩いてみたのだが、人が多くて騒々しいだけだった。待乳山もただ人が多いだけ。美しくもなければ気持ちよくもない。江戸の情緒なんてひとかけらもない。花見がしたければ浅草以外のどこかへ行ったほうが良い。

私のようなせっかちな人間が人混みを歩くことほど危険で、精神をすり減らすことはない。早朝や、平日の午後などに移動することにしよう。

下は、昨日雨の中、根岸の里という公園で撮った写真。人はおらず鳩が大量に群れていた。こっちのほうが美しくてなごむよね?

謎のコッペパン専門店にも行った。観光地でもないのに食べ歩きなどしてしまった。ほとんど人はいなかったので迷惑はかけてないと思う。

根岸の里と言っても、正岡子規の庵がある辺りはゴミゴミしてるし車も多いし、タバコ臭いし、「根岸の里のわび住まい」どころじゃないから、寄りつきたくないんだよな。

メンタルが急速に弱まっていくのを感じる。twitterもむやみにフォローするのはやめる。フォロワーを増やそうなんてことはもうやらん。自然に減っていってそのうちフェードアウトするのが良い。twitterには極力書かないようにするし、他人ともからまないようにする。精神衛生上ここのブログには適当に書くとして、その他のSNSにもできるだけかかわらないようにする。実生活でももうこれ以上人付き合いを増やすことなく、特に親しい人以外は会わないようにする。

そうやって社会とのつながりをどんどん断ち切っていったからといって、この世ではもうこれ以上やることもないのだからなんの問題もない。これまでは仕事してお金を稼がなくてはならないからむりやり社会に出て行った。それももう必要ない。やることがなくなりすぎて、退屈で死にそうになるのが困るかもしれないけど。

源氏物語

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。桐壺帝は仁明天皇。桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。一院は嵯峨院。弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

ということを以前に書いた(ほかにもこれとかこれとか)。すると源氏物語に出てくる今上帝とは宇多天皇、今上帝の母、承香殿女御とは班子女王ということになる。ほかにも

光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ言ひ伝へたるとなむ

とか、

そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける

など、高麗人と幼い頃の光源氏が深い関係にあったことも注目すべきであろう。光源氏の母は百済人だった。それですべてがすんなりと説明できてしまう。百済王族は日本人、特に藤原氏に対抗して妃を入内させ天皇を立てることもできたはずだが、藤原氏は猛反発、おそらく実力行使に出ただろう。そうしてやがて百済人は歴史の表舞台から消えていった。

桓武天皇は百済人の子であった。妃にも百済人が多くいた。嵯峨天皇、仁明天皇のころまではそういう傾向が続いた。しかし時代が下り、文徳天皇のころになると百済人はやっと宮中でマイノリティになり、奈良時代のように藤原氏が実権を握り始めた。百済の王族の女が産んだ皇子は、親王になることはできない。親王の名は二文字、それ以外の王の名は一字をつける、というならわしがあった、ように見える。天皇の子であるのに源氏を賜り臣籍降下する、というのも源氏物語の記述と同じだ。

それでこの光の君の物語の原型が宇多天皇の時代、つまり、古今集が成立する直前くらいに成立したとしよう。それは西暦でいうとだいたい900年くらい。紫式部が生きたのがだいたい1000年くらい。源氏物語絵巻がつくられたり、最古の写本が出てくるのが平安末期、だいたい1150年くらいだろうか。藤原定家はほぼ現在と同じ形の源氏物語を読んでいたはずだ。菅原孝標女は紫式部より少しだけ後の人であるから、もし紫式部が源氏物語を書いたとすれば、紫式部が書いたそのままの源氏物語をほぼリアルタイムに読んだことになる。「更級日記」には「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」という形で出てくる。

紫式部が源氏物語を書いたことを疑う理由はないのでそうだとして、紫式部は嵯峨天皇 (800年頃)から宇多天皇 (900年頃) の時代に、日本人と渡来人の間で起きた皇位継承問題から成立した光の君伝説というものをもとにしてそれを膨らませて源氏物語を書き、それを菅原孝標女が読んだのだが、その後も100年以上の歳月をかけて、源氏物語はブラシアップされ、続編が書き足されていって、藤原定家の手に渡ったのであろうと思う。定家が書いた写本が最古の写本の一つとされているが、定家がいろんな写本を集めて今の源氏物語の形にした、つまり源氏物語の最終的な作者は定家である、ということもできるのではないか。

何度も書いているが「伊勢物語」は紀有常が漢文で書いた日記が元になり、それが拡散し、和文化することによって成立したのだと私は思っている。となると「伊勢物語」と「源氏物語」はどちらもほとんど同じ頃にその原型が成立したのだろうということになる。つまり、源氏物語の原型というものがあったとしたらそれは伊勢物語のように、一つの歌に少し長めの詞書きがついたようなものの集合体だったのではないか、そうしたものが村上天皇時代辺りに集積されつなぎ合わされた。その編集の主体は宮中に仕える女房らであった。

伊勢物語には惟喬親王や在原業平や紀有常らが藤原氏によって左遷されていくという政治的な要素も含まれている。源氏物語にはその要素は希薄ではあるが、というのは女房らにとってはそうした男たちの世界は直接興味がなかったからだろうが、しかしよくよく観察すると政治の世界のなまなましい駆け引きがみえかくれする。光源氏は浮世離れしたプレイボーイというだけではなかったのだろう。少なくともその原作においては。

さらに想像を膨らませると、百済王族が書いた漢文の日記があってそれがのちに伝説化、和文化して、全体のあらすじとして、源氏物語の冒頭に付加されたものが「桐壺」であったのかもしれない。