池田雅延氏 小林秀雄を語る

小林秀雄の『本居宣長』について今までいろいろ書き散らしてきたのだが(小林秀雄でこのブログを検索してもらったほうが話は早い)、担当編集者池田雅延氏の詳しい講演があり、『本居宣長』がどのように執筆されて成立したかがわかる。130分もあるので、ゆっくり聞くことにする。もともとは茂木健一郎がソニーのサイトにアップしたものらしいが、その大もとのMP3はもはやなく、適当に検索したら見つけたのが上のリンク。

単行本では50章に分かれているが、もともとは『新潮』に64回連載された記事であり、11年半も連載した。と、いうことは、2ヶ月に1回程度の寄稿であったか。それを1/3くらいに縮めて、最後に1章新たに付け足して、単行本にしたのだそうだ。ふーん。すごく削ったな、もったいないな、というより、そんなに削ったのにまだあんなに冗長なんだ、というのが素直な感想なんだが。

追記 wayback machine

Basilis

この写真によれば、ローマノスは ΡΩΜΑΝΟС ΒΑСΙΛΕҰС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれていて、エウドキアは ЕҮΔΟΚΙΑ ΒΑСΙΛΙС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。ローマ字表記すると、それぞれ、ROMANOS BASILEUS ROMAION、 EUDOKIA BASILIS ROMAION となる。 つまり、東ローマの皇帝はバシレウス、女帝はバシリス、というのが当時の正式な呼称であった。また、すでにギリシャ文字が一部キリル文字化しつつあるのが見てとれる。ΣではなくСが使われ、また、ユプシロンに当たる文字がҰとҮの二つあるように見える。オメガが、小文字の形をそのまま大きくして大文字として使っているが、これも珍しい。というかそういう文字がユニコードにあるのだろうか。

エウドキアの表紙は再び描き換えることになると思う。

英語のウィキペディアにはAugustaとして戴冠されたと書かれているが、実際にはBasilisだったわけで、ギリシャ語のウィキペディア見ても、皇帝 (Autokratoras) とかしか書かれてなくて、ほんとうはなんと呼ばれていたのか、当時の彫刻とかモザイク画くらいしか信用できない。しかもこんな鮮明に文字が残されているのは珍しい。他のはもっと読みにくい。

王冠の形だが、ゾーエーのモザイク画に似ているが微妙に違う気もする。

ところで女帝と皇后はほんとうに区別されていたのだろうか。よくわからん。

コンスタンティノス9世モノマコスでは、ゾーエーがΑҰΓΟҰСΤΑ (AUGOUSTA) と書かれていて、コンスタンティノスは単に ΒΑСΙΛΕҰСΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。もしかしてアウグスタというのは単に皇帝の后、皇后という意味だったかもしれん。アウグストゥスの妻がアウグスタと呼ばれたように。てことは、おそらくエウドキアは皇后の頃からアウグスタと呼ばれていて、その後バシリスとして即位したというのが正しいのではないか。

へレースポントス

『エウドキア』に「ヘーレスポントス」と書いていたのは「へレースポントス」の間違いだった。 修正せねばならない(※追記 より正確にはヘッレースポントスだろう)。 へレースポントスは海峡に名付けられた名ではなく、あの細長い海に付けられた名のようである。意味はずばり「ギリシャの海」。ヘラス、ヘレニズム、ヘレニカなどはすべてギリシャ人が自分らの国や言語のことを言う言葉だ。つまりへレースポントスという名は、ギリシャ人にとって非常に重大な意味を持っている。

黒海は単にポントスと呼ばれたらしい。ポントスとへレースポントスの間の海がプロポンティスだが、これはポントスの手前の海と解釈できる。へレースポントスからプロポンティスを経てポントスに入る、というニュアンスがそこにはある。っと細かく言えば、ボスポラス海峡は紛れもなく海峡である。プロポンティス海は海である。そして、へレースポントス海峡は、海峡ではなくて、古代ギリシャ人の感覚では、へレースポントス海と呼ぶべきだろう。

ではエーゲ海はなんと呼ばれていたかというと、この海はエーゲオペラーゴあるいはアルキペラーゴと言って、ポントスではない。ギリシャ語で「海」をペラーゴといったりポントスと言ったりするわけだが、もとは両方とも固有名詞であったか。あるいはポントスだけが固有名詞だったか。どういう使い分けか、よく分からない。ギリシャ人がいつから自分たちのことをヘラスとかヘレニカと言い出したのだろうか。その中心的な部族や土地はどこだったのだろう。

いやはや。しかし、昔書いたものを手直しすることの大変さと言ったら。

国語教科書の闇

ついでに読んでみた。

これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。そこから先は読まない。大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。

おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、それはあまりにも狭い世界で、定番で、既視感で、予定調和で、昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、或いは国内旅行に切り替えるようなもの。

別にね、ハリーポッターとか、シャーロックホームズとか、高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。ラノベは読みやすい。読者も多い。従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。

私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、その外の世界の存在を想定してないからだろう。

それから今回初めて森鴎外の舞姫を読んでみたのだが、なんじゃこりゃという感じ。

げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。

は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。

たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。なんかかっこよさそう。それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。

「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、その代用品を提供するというところにあるわけ。最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。

さらに、菊池寛とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。

今年のセンター国語、センター試験「国語(古文)」を解いてみる。などにも書いたことだが、今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。だから教材も定番なほうがいいに決まってる。どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。或いは特許とか?曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。

「山月記」はなぜ国民教材となったのか

私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、まず、高校国語教師というのは、おおよそただの人である。指導要領もなしに授業などできない。では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。

次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。いや、わかる必要はない。自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。

中島敦生誕百年やガス抜きとしての中島敦に書いた通りだが、ドナルド・キーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。

「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。

それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。漢学の家に生まれたわけでもない。商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、江戸時代ならもっといる。昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。

それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。

山月記自体は面白い教材だと思うが、私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。

というところは

隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚

の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、というあたりが真実だと思う。

追記: 人虎伝、中島敦の書簡と日記。

留置まし

反実仮想まとめが良く読まれているのがおかしいのだが、 たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。 記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先にまし、 とも・・・まし、 というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、 吉田松陰の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

という歌の解釈が難しいからである。 それでまあ、今改めて考えてみるに、 幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、 なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。 そうするともしかして「大和魂」もまた、 源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、 この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、 この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。 で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。 「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。 そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。 「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。 「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。 「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

資長のアリア(I)
おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に
謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ
願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき
憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。

敷島の道

「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。

しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。

和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。九条孝博

おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道

ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。だんだんと定着していったんだろうけど。

冷泉為相

これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道

二条為藤

住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道

住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道

うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。

為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。為相はどちらかといえば京極派?

玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、どちらかといえば京極派だったかもしれない。いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、と彼は考えただろう。尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。

なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける

すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。

こういうの調べ始めるときりがないんだけど。

追記: 敷島の道2

上田秋成の誤解

願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに

これは宣長の歌で、明らかに西行の歌

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃

を本歌としたものである。宣長らしいおもしろい返し方だ。上田秋成が、宣長の

敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほふ 山桜花

を批判しているのだが、

大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。

宣長は、賀茂真淵や平田篤胤とはまったく違う意味に「大和心」「大和魂」という言葉を使っていた。「大和心」「大和魂」がもともと源氏物語や赤染衛門の歌に出てくるように、それはもとはといえば女言葉であり、平安時代の日本の女性的な心をさすものであった。特に「漢学」に対する言葉だった。宣長はもちろんそういう意味で使っている。漢心(からごころ)、漢才(からざえ)に対して大和心という言葉を使っている。そのことを指摘したのは小林秀雄だったと思うが今ちょっと良く思い出せない。

宣長が「大和魂」などという言葉を使ったのだろうか。使った可能性もあるが、それは「たをやめ」の「弱く女々しい心」という意味に使ったはずだ。敷島の大和心とは何かと人に問われれば、それは「朝日ににほふ山桜花」をひたすら愛でる、私のような、女々しい心のことだ、と解釈しなくてはならない。宣長が詠んだ大量の桜の歌をみればその気持ちを補完できるだろう。

宣長は復古神道の創始者(の一人)ということになってしまった。だから「敷島の」の歌も誤解されている。秋成も誤解した。ただし秋成は「正しく誤解」している。つまり宣長があんまり外国よりも日本を崇拝するのが気持ち悪いという意味で言っている。宣長にしてみれば国学の重要性を強調したいが故に、極端な表現をした。それくらい当時の漢学崇拝は空気のように自然であり、宣長は孤立無援だった(ある意味今も宣長はほとんど誰にも理解されていないという意味で孤立無援である)。

しかし宣長の弟子の国学者たちは「間違って誤解」した。大和心、大和魂を日本男子の猛々しい心だと考えた。平安時代より前の武人の心だと解釈した。

そしてその誤解が宣長を余計に有名にしてしまった。すべては後の世の人たちの仕業である。

ちなみに和歌のことを「敷島の道」などと詠み始めたのは足利尊氏ではないか。少なくとも彼がその一人であるのは間違いない。尊氏も武士からぬ女々しい和歌を詠んだ。大量に詠んだ。室町時代に勅撰集がやたらと作られたのは尊氏のDNAのせいだろう。彼が和歌好きだったのは間違いない。実は周りの武士団が勇ましいだけで、その真ん中にいた尊氏はほんとに女々しいだけの人だったかもしれないと思う。

追記:昔の記事を読み返すとほとんど同じことを書いていた。国意考。ついでに敷島の道。

娑羅双樹の花

西行の歌に

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃

というのがあるのだが、旧暦2月15日はおよそ春分の日のことであり、桜が咲くには早すぎる、と以前から思っていた。旧暦2月15日は釈迦涅槃の日でもあって、娑羅双樹の木の下で死んだことになっているから、ここで花というのはおそらく娑羅双樹の花をさしている。こんなことを私が初めて発見したわけはないと思いググってみると、川田順という人が「古典日本文学全集西行集」の中で言及しているらしい。

娑羅双樹なんて日本に生えているわけがない。また娑羅双樹の花が咲くのは初夏であり、
涅槃日とされる春分の日には絶対に咲かない。また桜の花でもあり得ない。つまり、「願はくは」は完全に空想の歌であり、何か具体的な花をさしているのではなく、ある抽象的・観念的な死の花を言っている。あるいは死後の西方浄土の世界を詠んでいる。現実の、春分の頃に咲く梅とか桃とかの花ですらない、ということになる。

おそらく後世の人があやまって(あるいは故意に)山家集の桜の歌の中に「願はくは」の歌を混ぜてしまったのだろう。特にその次に

仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば

をもってきたのはまずかった。当然「願はくは」の花は桜だという誤解を定着させた。しかるに、もしこの花が娑羅双樹の花だとわかるように歌集の中に配置されたり詞書がついてたりしたら、このように有名になることも、西行の代表歌になることもなかっただろう。

西行と桜のイメージの相乗効果によってこの歌も西行も有名になったのだ。こういうふうに後世の人の誤解(脚色)のせいで有名になることはたくさんあると思う。そもそも釈迦の涅槃が春分の日であるというのも根拠がない。後世の人がえいやっと春分の日を涅槃日ということにしたのにすぎない。クリスマスがちょうど冬至の日にあたっているようなものだ。当然、西行が春分の日に死んだことになってるのもただの伝説にすぎない。人は真実を知るよりもむしろ美しい嘘にだまされたいものなのだ。

「古今和歌集の真相」の記述も少し書き換える必要がある。「西行秘伝」はもともとフィクションだからいじる必要はない。

そうして疑ってみると「願はくは」の一つ前の歌

はなにそむこころのいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我が身に

これも実景を詠んだのではなく、釈迦入滅の心境を詠んだものかもしれない、とも思える。釈迦が死の直前に弟子のアーナンダに「この世界は美しい。そして、人生は甘美である」と言ったとあるが、この時釈迦が見ていた花はマンゴーの花であったかもしれない。そして西行はこの臨終の際に釈迦が言った言葉を和歌に翻訳してみたのかもしれない。


追記: 娑羅双樹の花が咲くのはインド暦で2番目の月だそうだ。

西行秘伝レビュー

『西行秘伝』にレビュー を書いてくださった方がいて、 その方が書いた他のレビューも読ませていただいたが、 日本史の専門家の方というよりは一般の読者のようにお見受けしました。

非常に的確なご指摘で、感謝しております。 「確かな歴史観に裏打ちされた良質なフィクション」とは私には最高の褒め言葉です。 「歴史に基づかないいいかげんなドキュメンタリー」の逆ということですよね。

私自身は理系なので歴史の高等教育を受けたわけではなくて独学なのだけど (古文と漢文はIIまでやったけど)、 ごく普通の読者が一気に読めてしまったというのに驚いている。 もちろん私も誰にも読めないような難解な話を書くつもりはなく、 「読んで楽しくためになる」ものを書いているつもりだけど、 たぶん一般読者には読めないのだろうなと尻込みしていた。 たとえば和歌や古文に特に現代語訳を付けてないところがあって、 高校古文II程度の学力があれば普通に読めるとは思うが、 世の中そんな人ばかりではないはず。

『将軍家の仲人』なども読めない人とさらっと読んでしまうひとがいる。 読める人のために信じるように書けばよいということだと思った。

追記: 今ちょっと読み返してみたのだが、 最後の、後白河院に頼朝が謁見するあたりが、かなりわかりにくい。 もう少しなんとかしなきゃならないなと思う。 まあ、これはこれで、このまま放置するという手もあるのだが。