カニバリズム

神経痛はだいぶ治ってきたがまだ痛む。年齢と同じくらいの日数かかるというから、順調に治ってきているのだとは思うが、ずいぶんとしつこい病気ではある。

「キリスト教とカニバリズム」というそのものずばりのタイトルを付けた本もあるようだが、実際にイエスが食われたかはともかく、初期のキリスト教が、なんらかの形でカニバリズムと関係していた可能性は高い。

後世、予言と見えるようなことはたいていは後付けの解釈である。日本書紀の地名説話にしても、大化の改新にしても、寺や温泉の由来にしても、韓国起源説にしても、後世になってわからなくなったことを後から適当に理由付けしたものである。福音書にしてもイエスの死後五十年以上して成立したもので、それは平家物語の成立とも似ているが、一時資料としての歴史的な信用性はない。

人を殺して神に捧げ、時にはその肉を食い、血を飲むというような宗教儀式は、古代には広くみられたはずだ。犠牲は人から牛や羊などとなり、後に血は酒で代用されるようになる。人よりは家畜、家畜よりは酒のほうがコストがかからないからだ。つまり食人の習慣が廃れた主たる理由は、人を使うのが「もったいない」からだ。中国では犠牲の血で青銅器を血塗り、その血を飲んで盟約を結んだ。今日ではマオタイ酒がその代わりをする。キリスト教でも、本来は血を飲んだかもしれないがそれがワインに変わったのかもしれない。ユダヤ教では血は飲まないので、明らかにユダヤ教以外の異種の宗教が混入したのである。おそらくはヒンドゥー教のカーリー信仰のようなものだった。アーリア人の宗教はインドからペルシャまで広く分布していて、当然ユダヤにも影響を与えた。というよりか、ユダヤ人はペルシャ人によって捕囚されたのだから、ペルシャ人の宗教の影響を受けないはずがない。

イエスの処刑というものは、ほとんどめだたない出来事だったはずだ。しかしイエスにごく近い異端の宗教指導者が、イエスを教祖に祭り上げる。初期は家畜の肉や血が聖餐に使われていたかもしれない。それは今のヒンドゥー教の儀式のようなものだったかもしれない。明らかにユダヤ教の正統の儀式ではない。

やがて肉と血はパンとワインで代用されるようになった。パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとはわかりにくい比喩である。そこをうまく説明づけるために、最初期の福音書は書かれたのではなかろうか。ただそれだけのことではないのか。

「アンデスの聖餐」などと呼ばれる事件があったが、要するに、他に生き残る手段がないときに、死者の肉を食べるのは、聖餐と同じであって許される、という解釈だ。

中国に食人の習慣があったのは有名だが、
小室直樹の『資本主義中国の挑戦』に詳しく書かれている。

日本には食人の習慣はあまりみられなかったようだが、殉死や人柱などの人身御供はかなり一般的だったのではないか。
ヨナ記にも海の神を鎮めるためにヨナが海に投げ込まれるなどいう話がある。
兵馬俑や日本の埴輪は生きた馬や人の代用だともいう。

神経痛2

なかなか治らない。

たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。

健康第一。年寄り臭い。

神経痛

急にやることがなくなった。じたばたしてもしかたない。

ウィルスはすでに免疫系によって退治されたようだが、破壊された神経がひりひり痛む。何もしないとどうということはないが、皮膚をさすると痛い。体の芯のほうでは腰痛のような痛みになる。これが神経痛というものなのだな。で、神経が回復するまで三週間くらいかかると。慢性化して残ることもあるらしい。こわいこわい。

もう年寄り臭い病気ばかりで困る。実際年よりなんだが。

こういう神経痛とかリューマチとかヘルペスとか皮膚病とか痛風とかにかかった老人が、米持ち込みで自分で炊いて何日も逗留するような湯治場を利用するんだなあと思うと、なんかしみじみとしてくるわな。そんなじじばばの中に混ざって、自分もじじいなわけだが、米をといで塩昆布かなんかで食べてるところを想像したりする。確実にあと20年で、はやければ5年か10年でそうなる。

ひりひり

気力が続かないのでこのへんにして脱稿すると思う。体の表面の腫れは収まってきたが、皮膚がひりひりするとこがあちこち飛び回ってなかなか収まらない。ウィルスは撤収を始めたが免疫系との最後の戦いを繰り広げているのだろうか。

はよう酒が飲みたい。

連休がつぶれたともいえるし、連休だから助かったともいえる。

帯状疱疹

変な赤いぶつぶつが出来たので皮膚科に行ったら、帯状疱疹という病気だと診断された。子供の頃に罹った水疱瘡のウィルスが体の中に潜伏していて、加齢によって体が弱ってくると活性化するらしい。50才以上の人に多いという。6、7人に1人くらい発症するという。

不思議なことに体の片側にしかできものができない。ウィルスが神経の奥の方をおかすからだという。神経は脊髄を中心に体の外側に向かって伸びている。その途中がウィルスにやられるとその下流が皮膚まで達してできものになるらしい。食あたりでリンパがやられたのかと思ったが全然違った。寝違えみたいな腰痛が伴う。風邪引いたときのふしぶしの痛みとも似ている。

ちゃんと治療しないと神経痛が残るそうである。なるほど神経が痛むというのはこういうものなのだ。痛みが体のあちこちに移る感じだ。肌をなでるとひりひりする。必ずしも強い痛みではないが、不快だ。

酒も飲んではいけないらしい。年を取るというのはほんとに面倒だ。

百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

四十而惑五十而未知天命

今年49才で、まさに「四十ニシテ惑ヒ、五十ニシテ未ダ天命を知ラズ」の感が強い。

同じ町、同じ職場にずっと居続けるとその嫌な部分がどんどん見えてきて、最初良かったと思ったことがつまらなく退屈に感じてしまう。これはひとつの錯覚であって、転職し転居したらまたいつの間にか煮詰まってしまうのだろう。私はいつも自分の職場がほんとうにひどいところだと思ってしまうのだが、ではどこにひどくない職場というものがあるかと考えるときっとどこにもないのだ。人間関係も制度も組織も必ずどこかに歪みがあって矛盾がある。

たとえば、私自身はパチンコが大嫌いだが、たまたま渡世の義理で警察庁長官をやらされることになったとしたら、「警察はパチンコの景品の換金については一切関知してません」
というようなコメントを立場上言わざるを得ないだろう。法務大臣になってたら人殺しは嫌いでも死刑執行の書類にサインをしなきゃならないだろう。原子力規制委員会の委員長になってたら、原発は完全に安全とは言えない、といったような歯切れの悪い発言をしなきゃならないだろう。そういう公の仕事にすら気持ちの悪い立場というものはあるのだから、私の仕事が気持ち悪いのは当たり前なのだ。

もし気持ち悪い仕事がしたくなければ世の中とほとんど接点がなくて、一人でできる仕事をやるべきだが、一人でできて食っていけるうまい仕事なんてなかなかない。

孔子はどういう気持ちで「四十而不惑五十而知天命」などと言ったのだろうか。自嘲気味に言ったのか。本気でそんな気持ちになるとしたらただの老人の自己満足誇大妄想なんじゃないのか。逆説的な意味で言ったのかも知れない。「天命を知る」とはもうこれ以上自分の力ではどうにもならないという意味かもしれない。それはつまりは「未だ天命を知らず」ということではないか。「六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」も隠居した老人は若い者の迷惑にならないように、おとなしくしていようというような諦めの境地かもしれん。

※ 白川静が似たようなことを言っていた。確か年寄りは諦めが肝心だという程度の意味だと。

32までは似たような仕事をしていた。少し方向転換して44くらいまでまた同じようなことをした。その後また少し方向転換して今にいたる。もう32頃にやってた仕事はまったくやる気がない。完全に新しい仕事新しい人生を始めたい気分だ。

だがそれは錯覚なのだ。今の立場で、今いる場所でできることをそつなくこなしていけば良いだけなのだ。おそらくそれが最善の策。それ以上の、それ以外の事をやろうというのが無茶。私の力量を超えている。

田舎から19で東京へ出てきた。28か32くらいまでに田舎に戻っていれば、たぶんかなり無難な人生を送れたと思う。しかし32の頃はまだ東京に未練があった。まだまだやりたいことが残っていた。49になると身動きがとれぬ。父母にも迷惑をかけた。今までさんざんほっつき歩いていて、今更帰っても間抜けな気がする。でも人間関係でがんじがらめになればなるほど田舎に帰りたい気もしてくる。もし、働かなくて食っていけるならすぐにもやめて、田舎でのんびり暮らすだろうと思う。

指月殿

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以前に修善寺温泉というのですでに書いたのだが、京都旅行をして気になったので少し加筆する。

伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時創建のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならない。それ以前に拝観料払わないと見れないだろう。

壁は古色蒼然としているがやたらとお札が貼られている。屋根が綺麗すぎるから葺き替えだろうし、ガラス戸は当然最近付けられたものだ。もとは経堂だったというが、そのお経はみんな焼けてしまったというし、お経が焼けるくらいだから経堂も一緒に焼けたのに違いない。

伊豆最古の木造建築、というのは、もしかすると当たってるかもしれない。ちなみに今の修善寺本堂は明治時代の再建。それよか韮山反射炉のほうが古いわな。

※追記。これ、実はかなり新しいものではないか。ガラス戸が最初からついていたとすれば古くて大正、明治末期くらいだろう。伊豆最古の木造建築というのを信じるとすれば江戸末期くらいのものか。

京都

京都には十ヶ月ほど住んだことがあるのでだいたい土地勘はあるのだが、普段あまり近寄らない清水寺に出かけてみて最悪だと思った。五条から歩いて登ろうとすると歩道は狭いし車は多いし、途中で引き返した。本堂は国宝らしいが、家光の時代の再建だ。せいぜい重要文化財止まりではないのか。京都は古そうに見えて徳川の世になってから再建されたものが多い。仁和寺なんかは日露戦争より後に修復された。そういうものをいちいち国宝にしててはきりがない。清水寺が国宝なら根津神社だって国宝ではないか。

京都で平安時代から残っているものは案外少ない。法住寺の三十三間堂は古い。あれは清盛が後白河のために建ててやったものだから、正真正銘平安時代だ(※追記。火災で焼失し鎌倉時代1266年に再建されたもの)。他になんか残っているかというと思いつかない。

銀閣寺は義政の頃から残っているから、古い。確かに国宝だ。他にも竜安寺石庭など室町時代のものはいくつかあるようだ。

それはそうと、伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならないのだが、あまり有名でもない。壁は古色蒼然としているが、屋根が綺麗すぎるから葺き替えかもしれん。国宝になってないということはだいぶ改築されたのではなかろうか(※追記。多分ごく最近建てられたものだろう)。

京都の話に戻ると、修学旅行生は、嵐山、映画村、龍安寺、金閣寺、大徳寺、北野天満宮、二条城、三十三間堂、銀閣寺、哲学の道、清水寺、などを回るようだ。まあそのことにいちいち文句を言う気はないのだが、京都が文化遺産になった根拠の一つとして、平安遷都以前からの由緒がある上賀茂神社をなぜ見ないのかと思う。いや、上賀茂神社に中学生や高校生がわらわら来られても困るわけだが、修学旅行生はほんとの京都を見ていないことになると思うなあ。