嵯峨天皇

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

三春出猟重城外 四望江山勢転雄

逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風

征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空

不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。当時の日本国というのは若い国家だった。この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、日本は、アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。

女系

えっと、あまり口出しするつもりはないのだけど、いろんなところですでに書いていることを要約すると、継体天皇とか天武天皇とか天智天皇の頃の皇統というのは、あまりに古すぎて、今の男系・女系の議論には絡めるべきではないと思う。古くて不確実すぎて参考にならない。天武天皇以後の議論をすべきだと思う。

で、藤原氏は天皇家の外祖父になることができたから、権力を握ったのだけど、もし天皇家が女系でもよいとなれば、女性天皇の夫が藤原氏でその子供がすぐに天皇に即位できることになる。藤原氏でもなくてもいいんだが、すごい野心家の男がいて、勝手に天皇を内親王に譲位させて自分がその天皇と結婚して、数ヶ月後には子供が生まれて、ただちにその子供に譲位させれば、あっという間に天皇家を乗っ取ってしまうことができる。

ところが、天皇が男系であれば、平清盛みたいに自分の娘を入内させて、息子が生まれたら譲位させて、とかいう面倒な手順を踏まなくてはならず、清盛が死んだときにはまだ天皇は幼少で、結局平氏一門による権力の継承はできなかった。

同じことは、天皇家と徳川家の関係にもいえる。つまり、天皇家と武家の関係、言い換えると王家と庶民の関係は、男系によって守られてきたのであり、守られたというよりは、一定の距離を保ちつつ進展してきたのであって、もし女系でもよいとなれば、皇統というものはもっと混乱しただろう。南北朝ですらあんなに混乱したのだから、万世一系とか悠長に構えている場合ではない。

頼朝と北条氏の関係を見てもわかるように外戚が力を持ちすぎるのは良くない。中国の歴史でもそう。天皇家が今日まで存続していた大きな理由は男系だったからかもしれない。

それでまあ今は女性天皇と野心のある男性が結婚して権力を握るなんてことはできようもないから、女系でもいいんじゃないのかという議論ならまだわかるが、男系というものの歴史的な意味というのをわかった上での議論ならまだ良いが、天武天皇と天智天皇がどうのこうのとか言ってるレベルではとても議論が尽くされたとは思えない。

それから、王家と王家の婚姻というのもかなり問題があって、東アジアには天皇家以外今は王家はなくなってしまったが、欧州にはまだたくさんいる。王国はなくなっても王家は存続している。欧州の王家が女系もありというのは、スペイン継承戦争とかなんとかかんとか見るとよい。それなりにリスクがある。イギリス王の継承順位とかみるととてつもなくたいへんなことになっていて、オーストリアのハプスブルク家の子孫がイギリス王に返り咲いてもおかしくない。そういう可能性まで含めて議論しているのか。まったくあり得ない話ではないが、イギリス王子が天皇家の内親王と結婚して、その内親王が即位すれば、イギリス王家にも天皇家の継承順位が回ってくるのである。

現在のイギリス王室はウィンザー朝だが、天皇が日本国の君主だとして(欧州的な表現をすれば、日本という国の相続権を持つとして)、ウィンザー家がイングランド王と天皇を兼ねれば、日本とイギリスは同君連合、もしくは日本は大英帝国の一邦(オーストラリアやニュージーランドがイギリス王を国家元首とするように)、になってしまう、可能性もある。男系であればそういう問題は回避される。というか、王位継承順位に男子優先というのはイギリス王家にもあるので、単純に欧州は女系もありね、とは言えない。

現時点では議論が不十分だ。

戦後の混乱期に皇籍離脱した宮家を復活させることで男系が維持できるのであれば、この問題はもう少し未来に持ち越して「継続審議」とするべきではないかと思う。

坑夫

『坑夫』を何年かぶりに再読したのだが、やはりこれはずいぶんへんてこな小説だ。坑道に入ってから出てくるところまでが一番面白いところだが、それまでが異様に長い。で、坑から出てくるとあっという間に終わってしまう。どうでもよさそうなことがくどくどと書いてある。漱石はつまり、わざと小説らしくない小説を書くためにこんな仕掛けにしたのだろうが、どうも迷惑だ。もう少し書きようがあるんじゃなかろうか。

も少し推理してみると、前半の異様に長い前振りはこれは漱石自身の体験を脚色したものだから、異様に詳しい。で、銅山の話は誰かから取材したもので漱石本人は銅山に登ったことさえない。だからさらっと書いてしまっている。

そういういくつかのネタを適当につなげた結果こんな具合になったのではなかろうか。これはまあ自分の体験にも基づくわけだが、自分が実際に経験したこととか実際に取材したことというのは、つい詳しくなるが、そうではない箇所も補完して書かなくちゃならない。そういうところはまあ、つい短くはしょってしまいがちだ。明らかにそんなふうな小説というのは世の中にざらにある。自分の小説も、だいたいそうだといえばそうだ。想像で書いたところ。wikipedia や google earth で適当にすませたところなんかは、正直自信がない。出版社がついてて編集とか担当もいれば、そこちょっと話薄いですね、とかいって、適当に話をもってくれたりカモフラージュしてくれるのだろう。あいにくそんなスタッフのようなものはない。全部自分で考えて自分で書いている。そのかわり儲けを折半する必要も無い。

たぶん銅山の話がなければあまりにつまらない話で、漱石としても、小説として発表するのが憚られたので、当時のキャッチーな話をとってつけたのではないか。だもんだから

自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

などというおかしな言い訳がついている。漱石らしくない、へんな嘘の付き方だ。

BNP上昇

ええっと、そんで、心室細動でICUに入れられたのが2011年10月27日なんだが、11月29日には退院して、それからずっと順調に回復していて、実はもう完全に良くなってたんじゃないかと思って、薬を飲むのもサボりがちだったのだが、いきなりBNPが250台になってしまった。たぶんアンカロンという薬を飲み忘れることが多かったせいだと思う。

アンカロンは強力な不整脈を抑える薬なので、この薬が効いているとBNPは5くらいまで下がるらしい。正常値は20以下。100を超えると心不全の確率が高い。

非常に強力な抗不整脈作用がある反面、新たな不整脈や、肺線維症など重篤な副作用が多いのが欠点です。日本では、専門医により、他の薬が無効な致死的な不整脈に限り用いることになっています。

なんかまあ恐ろしい薬だな。私の場合不整脈が出たら死ぬしかないから、つまり致死的な不整脈ってやつだから、しかたなくアンカロンを飲んでいるわけだ。幸い副作用は出てない。

よくわからんのだが、私はもともとBNPが高い体質だったのではなかろうか。BNPは普通の血液検査では調べないから、昔どのくらいだったかってことはわからんのだが。これからもずっとアンカロンは飲み続けなくてはならなさそうだ。次回の検査でBNPが下がっていればいいのだが。

コレステロール値も相変わらず高い。まあ死ぬまで節制しなさいってことだな。

夏目漱石『坑夫』

夏目漱石『坑夫』をkindle版で再読しているのだが、無駄に長い。冗長。こんなだらだらしたものを書きたいから書いたんだろうけど、付き合うほうはよほどおっとりした性格でなくてはなるまい。

昨夕東京を出て、千住の大橋まで来て

とあるから、おそらく日光街道を越谷、春日部あたりまでを二日がかりで徒歩で歩き、ここから鉄道で古河、小山、桐生、足尾とたどった、という設定だろうと思うのだが、越谷や春日部のあたりは一面の田んぼのはずであり、どこまでも続く松原、なんてものがあるとは思えない。

途中の街道の描写は川越街道、武蔵野の光景に酷似している。

だいたい二日もぶっとおし歩けば、川越か春日部あたりまでいけるだろう。

川越の手前は川越河岸というものがあって、ちょうど

いつの間まにやら松がなくなったら、板橋街道のようなけちな宿の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車が通る。

というのがこの川越河岸だか福岡河岸あたりの光景だろう。さらに進むと、

そのうちに人通りがだんだん多くなる。町並がしだいに立派になる。しまいには牛込の神楽坂くらいな繁昌する所へ出た。ここいらの店付や人の様子や、衣服は全く東京と同じ事であった。

これはおそらくは川越のことだろうと思う。春日部がどんなだかは知らない。

ここにはわざと云わない。

などと書いていて、しらばっくれているのは、ほんとうは春日部日光街道(奥州街道)なんだが、そっちは取材してなくて、たまたま知ってた川越街道のことを書いたんじゃなかろうか。或いはだれか(漱石本人か)が川越のあたりまで出奔したという話と、足尾銅山で働かされた誰か別の人からの取材があわさってできているのかもしれん。でないと、この前置きの冗長さを説明できん。

そういうどうでもいいごまかしのために、或いは文字数を増やすがために、やたらとだらだらわけのわからない文章を書かれては困る。川越なら川越、春日部なら春日部と書けば良いものを。わからんことは取材してから書けばよいのに、と思う。

きちんと実名を出し、余計な回想だかをくどくど繰り返さなきゃ、この鉱山行の話は十分の一ですっきり片付くだろうと思う。

板橋街道

というのがぽろっと出てくるがこれは中山道と川越街道が板橋で分かれる手前のあたりを言うと思われる。

追記あり

梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件

慶応四年、「神仏判然令」。
明治三年、「陰陽寮」廃止。
明治四年、廻国聖(山伏?)、普化宗(虚無僧)廃止。
明治五年、修験道廃止令、修験者(山伏)を天台宗か真言宗に帰属させる。
明治六年、梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件

「梓巫」は「あずさみこ」と読むらしい。「梓巫子」とも。「市子」(いちこ)は梓巫女にほぼ同じ。歩き巫女

梁塵秘抄

我が子は十余になりぬらん 巫(こうなぎ)してこそ歩くなれ 田子の浦に潮踏むと いかに海人(あまびと)集うらん まだしとて 問いみ問わずみなぶるらん いとおしや

梓巫女梓弓を鳴らす。

「憑祈祷」これはそのまんまか。

憑依。鎮魂帰神。神懸かり。『英霊の声』川崎君。

口寄せ」陰陽師が寄り人に物の怪を憑依させて口走らせること。筆記するのは「お筆先」みたいなものか。「神おろし」トランス。エクスタシー。入神、脱魂、恍惚、三昧、法悦。

「孤下ケ」(きつねさげ)。「狐憑き」「稲荷下げ」

イタコ
ユタ
霊媒
降霊術
交霊術
ネクロマンシー

明治初年の民間宗教禁止令

まー、普通に禁止されて当然だと思う。民間信仰から国家神道へ集約、ってことですかね。

吉野南朝

南朝の都は吉野城、つまり吉野山の金峯山寺にあったかと漠然と思っていたが、実はもっと南の奥吉野、天川村の天川弁財天社あたりなのだった。飛鳥時代の吉野宮というのは東の方、吉野川をさかのぼって菜摘とか宮滝とか言われる所にあった。

思うに、金峯山寺というところは確かに修験者の拠点ではあったかもしれないが、城とするにさほど適した場所ではないように思う。千早城や赤坂城にしても同じ。天川村というのはものすごい山奥だ。こんなところに入り込まれたらとても攻めがたかっただろうと思う。

人斬り鉤月斎

「人斬り鉤月斎」というものを書いているのだが、またどこかの新人賞に応募すると思う。百枚ぎりぎりくらい。

タイトルどおり普通の剣豪小説、時代小説のたぐいなのだが、自分的に剣豪小説書くのはすごく珍しい。たぶん初めて。書いてみるとわかるが、普通の陳腐な剣豪小説と差別化するのが難しいってのと、膨大な過去の蓄積があるから、やっぱどうしてもそれと比較されるのでやはり書くのがむずかしい。同じことか。これ普通の剣豪小説とどこが違うのとか言われそうで怖い。

自分なりに分析すると、戦前の菊池寛あたりの剣豪小説というのは古き良き体制的な剣豪小説であるが、戦後はそれを否定した反体制的、つまり、幕府とか主君というものに反抗するとか、庶民の目線でとか、個人主義的なとか、そんな剣豪小説が流行った。

しかし今の自分にとってはそういう反体制的な匂いのする剣豪小説というものがすでに、
鼻もちならん説教臭のする陳腐な話なのであって、その否定、つまり、反反体制的、みたいな。しかし、反反体制的だからといって体制的でも戦前的でもないみたいな。あれ、なんかポストモダンってもしかしてこんな話なのかな。ポストポストモダン、みたいなもんかな。まあともかく、既存の戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いてみました(笑)これまで、時代小説というか歴史小説みたいなの書いて、チャンバラが出てこないのはそういうのに反発感じてたからだと思う。

三月末までにもう一本くらい書けそうな気がしてきた。

渋谷新宿池袋

むかし渋谷というところには本屋とか電気屋が少なかった。 本屋はあるにはあったのだが、電気屋がめちゃくちゃ少ない。今は渋谷にもビックやヤマダが進出したのだという。

三茶にも電気屋や本屋が少ない。 一般的に世田谷とか目黒から南が少ない。 逆に新宿から北の方にはたくさんあるのだから不思議だ。 人種が違うのか。