今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

平淡==仏教的価値観

和歌を評するのに「平淡」「枯淡」「妖艶」などという形容詞を使うのが最近いちいち気になっている。『新古今』は妖艶だったが、年を取った定家が独撰した『新勅撰』から「平淡」になって、それを為家が『続後撰』で引き継いで、それが二条派の元になったのだ、という筋書きにしたいらしいのだけれども、そんなことをいえば俊成が年を取ってから独りで選んだ『千載集』だって枯淡だったはずだ。

定家が選んだ私撰集八代抄新勅撰をみれば定家がどのような歌を良い歌だと思っていたかということは如実にわかるのであって、選定基準が錯綜している『新古今』に比べれば定家撰の歌はどれも、定家という人を知っていれば安心して見ていられるものばかりなのである。あれっ。なんでこの歌選んだのかなという歌はほぼ無いと言って良い。『虚構の歌人 藤原定家』を書いたときも、まず私は定家がどのような歌を好むかその趣向から調べていき、定家という人の実像を把握しようと思ったのだ。そして世間一般がいわゆる定家的と思っていることがかなり偏った、かなり間違った定説によっていびつにゆがめられていると思うようになった。

思うに、室町後期になって、猿楽をむりやり高尚な古典芸能に祭り上げようとした人たちがいたのだと思う。或いは茶の湯というものをむりやり高尚な禅問答のようなものにしようとした。つまり、もともとは踊ったり歌ったり飯を食ったり茶を飲んだりするだけの民間の風俗であったものを、和歌と同じ程度に宮中で通用するありがたみのあるものにしようとする人たちがいた。俗人が藤原氏とか源氏などの姓を賜って殿上人になるようなものだ。

まあよい。和歌とても同じような過程を経て宮中儀礼になっていったのだから。本来卑俗なものを高貴なものに改変していこうというときに、おそらく主に仏教徒などが、わびさびとか、平淡とか、枯淡とか、そうした仏教由来の価値観を混入させていったのだろう。茶道に関していえば特に臨済宗が関与していた。

なんのことはない、平淡とかわびさびなんてものは、仏教思想、仏教観、特に禅宗の価値観を非宗教的な言葉に言い換えただけのものではないか。まあそうだということにしよう。そうすると定家や為家はそんなに仏教思想が強かったかといえばそんなことはあり得ない。もちろん彼らは仏教を愛好してはいたが同時に和泉式部など、仏教的とはとても言えない歌人を愛していたし、西行にしても彼は僧侶の身ではあるが仏教的価値観とは一線を画していた。禅と遠いものを妖艶などと言っているだけではないか。

室町末期、和歌を平べったく衰退させてしまった一因が禅宗の価値観であったことは否めまい。同じことは能楽にも言えると思う。能楽はもともともっと面白くエンターテインメントなものだったに違いない。ところが禅的価値観にがんじがらめにされてしまってあんな無味乾燥なものになってしまったのではないのか。

別に禅がダメだとは言わない。禅は禅だ。好きにすれば良い。そして和歌と根本的に相容れない部分があるのは事実だと思う。

岩波文庫版『新勅撰集』解題にも

新勅撰集には、しみじみと優しい述懐歌、格調の整った典雅な晴れの歌、新古今的な幻想的な歌、万葉集や実朝の作にみられるたけ高い歌と、さまざまな傾向の歌が混じており、決して単一な色調ではない

と言っていて、そんなことはそもそも、定家の趣味から言えば当たり前のことであって、この解題を書いた人もちゃんと一通り調べてみてわかっているはずであるのに、なぜかしら、全体的な論調は、新勅撰は定家が年取ってから選んだ平淡な歌集、という方向へ、むりやり引っ張られていて、この解題を読んだ人は、はあつまり、新勅撰は新古今よりはつまらないんだね、という感想しか持たないと思うのだ。

こういう現代歌学における定説、刷り込みというものを一つ一つ正していかなくてはなるまい。

私は、和歌が平淡で無味乾燥になっていったのは日本人の精神が仏教に蝕まれ、中世以降厭世的悲観的価値観が蔓延したからだと思う。定家や為家が平淡美を理想としその理念を説いたというのは濡れ衣だ。むろん俊成は自らその責めを負わなくてはならないが。

平淡美

藤原為家は「平淡美」を理想としたとか「平淡美」を主張したとか、「平淡美」の理念を説き、などといろんなところに書いてあって、その根拠となるのが彼が書いた歌論書『詠歌一体(八雲口伝)』であるというのだが、この『八雲口伝』を読んでもどこにも「平淡」が良いなどとは書いてないように思える。たとえば『日本歌学大系 第三卷』の解題、これはおそらく編者の佐佐木信綱が書いたのだと思うが、

平淡美を理想とした彼の態度もよくあらはれて

とあるのだが、これは佐佐木信綱がそう思ったというだけではなかろうか。そして佐佐木信綱がそう書いたことを孫引きしてみんなが為家は平淡美なんだと思い込んでしまったのではなかろうか。

『八雲口伝』だが、まず「題をよくよく心得解くべきこと」とあり、題詠するときには与えられた題をおろそかにしてはならんというようなことが書いてある。次に「歌も折りによりて詠むべきさまあるべきこと」として、百首の歌を詠むときには中には地歌(平凡な歌)が混じっても良いが、二十首、三十首を詠むときには(ちゃんと精選して)良い歌だけを詠むべきだ、歌合では晴れの歌だけを詠め、などと書いてある。

三つ目は「歌の姿の事」。「詞なだらかに言ひくだし、きよげなるは姿の良きなり。」同じ風情でも悪く続けては台無しになる。同じ詞でも「聞き良く言ひ続けなす」のが上手、聞きにくい詞は三十一文字をけがす。

春立つと 言ふばかりにや みよしのの 山もかすみて 今朝は見ゆらむ

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 船をしぞ思ふ

すべて優れたる歌は面白き所無き由(と『九品十体』で)申すめり。

『九品十体』は何のことかよくわからないが、藤原清輔あたりだろうか。ここで優れた歌と言っているのは上品な歌、下品ではない歌という意味だ。「春立つと」は壬生忠岑の歌。「ほのぼのと」は『古今』詠み人知らずの歌。為家は下品な歌の例として

世の中の 憂きたびごとに 身を投げば 深き谷こそ あさくなりなめ

を挙げている。この例の対比から彼が何を上品、何を下品と言っているかはわかるだろう。下品とは要するに狂歌のような歌、俳諧歌、戯れ歌という意味だ。面白くても戯れ歌ではダメだよと言っているだけのことだ。ちなみに中品の歌として

春来ぬと 人は言へども うぐひすの 鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ

を挙げている。為家が上品として挙げた例は確かに平淡な歌と言って良いのだけれど、思うに佐佐木信綱は為家を平淡で単調でつまらない歌を新古今以降に流行らせた張本人だと決めつけているだけのように見えるのだ。まして私には彼が平淡を理想としていた、とはとても思えない。それは彼が詠んだ歌を見ればわかることだ。そして、佐佐木信綱だけでなくありとあらゆる人が「平淡美」「平淡美」と口をそろえて為家を評するのは滑稽というしかない。為家の歌論に「平淡」を言及した箇所が無いとはいわないが、彼は必ずしもそこばかりを強調したわけではない。もっといろんなことを言っている。

(み)(しほ)(なが)(ひ)(ま)も なかりけり (うら)(みなと)五月雨(さみだれ)(ころ)

早苗(さなへ)(と)(しづ)小山田 (をやまだ)(ふもと)まで (くも)(お)(た)五月雨(さみだれ)(ころ)

為家は非常に用心深く技巧を凝らした跡を残さぬようにしている。それゆえ一見平淡にも見える。しかしそこにあるのは絵画のような美麗な世界であり、動きがあって、匂いや温度や風の流れさえも感じられて、自然描写ですら、宮殿に飾られた風景画のようにゴージャスで、絢爛で、妖艶と言っても良いくらいだ。定家が選んだ『新勅撰集』が平淡だったからそれにならって為家も平淡なのだという主張もまったく見当違いだと思う。

平淡美とはあまり為家には当てはまっていないと思う。

定家の『新勅撰集』や為家以降の二条派など、特に三条西実隆あたりにはふさわしい形容かもしれないが、為家は違うだろう。もっとほかに適切な評価のされ方があると思う。後世の二条派の悪いところを全部為家のせいにしている、為家は濡れ衣を着せられている、そんなふうにも思える。

家康の和歌

井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』、明治書院改訂新版とあるがところどころに誤字など残る。あるいは改訂後の加筆か。近衛信尹の「姉前子」とあるが、これは妹でなくてはならない。前子は信尹より10才年下のはずだ。

「近衛殿、様狂気に御成候、竜山様、御子様の事也」「宮中、異形にて御注進也」「以外之儀間、九州薩摩へ御下被成」

などと書かれていて笑う。

「近衛殿は海上にて生害了と」「実否は知らず」

とはつまり海上で自殺したと言われているが真否はわからんなどとも書かれている。

信尹の側近が作ったという『犬枕』という仮名草子があるそうだ。『犬之草紙』というものもあるらしい。

p.657 天正16年8月15日「衆妙集によると家康のは幽斎の代作であった。」p.673「その晴れの歌の一首が幽斎の代作であることは分かっている」

などと書いているのだが、根拠はあるのだろうか。『衆妙集』は細川幽斎の歌集だが、いったいどこにそんな話が載っているのだろう。たしかに『衆妙集』には「人々にかはりて」詠んだ歌というものがいくつも載っているが、家康の歌と同じものはないように思う。

伊勢物語

しばらく放置していた[カクヨムの伊勢物語](https://kakuyomu.jp/works/1177354054881894159)をまた書き始めた。

なんで伊勢物語を書き始めたかといえば、
『古今和歌集の真相』の手直しをしていて、伊勢物語と関係する部分がどんどん膨らんでしまったので、
分けることにしたのだ。

で、なんでカクヨムかというと、伊勢物語は『古今』のおまけだからタダでいいかなという気分だったからだ。

伊勢物語の謎はすでにほぼ解いたと思う。
肝心の部分はもう書いて公開してある。
伊勢物語がなぜ伊勢物語と呼ばれるのか。
それがどのように変容していったか。
なんで変容したのか。
かっちりとではないが、おおまかな流れは見えた。

それでまあこんなわかってしまえば簡単なことを1120年近くわからずにいたのだよ。
なぜ自分にわかったかというよりもなぜ今まで誰にもわからなかったかのほうが不思議だ(もちろん部分的に指摘した人はいたのだが)。
なんか大言壮語してみた。

カクヨムだが、割とgoogle検索の上のほうに上がってくるので、カクヨムに書いておくことには意味はあるな、と思い始めている。
『妻が僕を選んだ理由』と『新歌物語』は前半15000字くらいをカクヨムで読めるようにしている。
誘導効果はあると思う。

まあね。私は学術的なことを書くしかないんだよ。
ときどきエンタメ。それでいい。

伊勢物語の真相2

66、67、68

69、70、71、72
例の伊勢斎宮の話。

ちはやぶる 神のいがきも 越えぬべし 大宮人の見まくほしさに

恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる 神のいさむる 道ならなくに

これはもともと万葉集11-2663

千葉破 神之伊垣毛 可越 今者吾名之 惜無

ちはやぶる かみのいがきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし

73、74

75
これは有常が妻を任地の伊勢に連れて行こうとした話だろう。
「見る」と「逢ふ」が区別されているのだが、「見る」とは「文を見る」の意味だろう。

76
これの謎解きは『古今和歌集の真相』に書いた通り。

77、78
文徳天皇、女御・多賀幾子、藤原常行、在原業平の話。

79
貞数親王の話。
父は清和天皇、母は在原行平の娘・文子。

80

むかし、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。

在原氏と藤原氏のたとえだというのだが、それはどうだろうか。

81
源融の話

82、83
惟喬親王、在原業平、紀有常の話

84
長岡

85
出家後の惟喬親王

86
有常と妻の話か?

87

津の国莵原の郡芦屋の里

阿保親王の領地であるという。

88

95
藤原高子に仕える男女の話。

97
藤原基経

98
藤原良房

99
業平

101
行平

102
尼となった斎宮の宮とは誰だろうか。晏子か恬子だろうか。

103
仁明天皇に仕えた男。850年までの話になる。

106
竜田川。渚の院、業平。

107
藤原敏行

114
光孝天皇。伊勢物語の中では比較的新しい。

115、116
陸奥の話

125

むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、

つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

後付けな感じがするが『古今集』に採られているので古い歌なのだろう。
業平かどうかは疑わしい。

伊勢物語の真相

『古今和歌集の真相』を手直ししてて、『伊勢物語』が気になり始めた。

『伊勢物語』125段、藤原定家版以外なく、つまり、定家までどのような形で伝承してきたかすら、わからないということだ。

それでまあ、紀氏の家に紀有常の物語が残り、また藤原高子と遍昭の物語がこれとは独立してあった。
紀有常物語を執筆したのは紀貫之である可能性が高いと思う。
この二つの物語は比較的似ているし成立時期も重なっているので、
のちに一つに合体してしまい、
さらに似たようなエピソードも追加されて、
主人公は在原業平であることにされてしまったのではないか。

奈良や大和の話が多いのも気になる。
平城天皇系統の物語が在原氏を経て残ったのかもしれない。
京都からわざわざ奈良に来たときの話ではなく、平安時代になってもまだ奈良に住んでいた人たちの話。

1と2はよくわからんが、3から6段までは、高子と遍昭の若い頃の話。
高子入内866年より前。
1と2は後から巻頭に付け足された可能性もある。

7段は、有常が伊勢に権守として赴任したときの話だろう。857年。

8段は、有常が信濃に権守として赴任したときの話だろうから、871年頃。

9、10、11、12、13段は、有常が下野に権守として赴任したときの話。867年。
12段は、おそらく「国の守」である有常が下野に向かう途中に武蔵野辺りで盗人を捕らえて連行したという話だろう。

14、15段。

陸奥の国にすゞろに行きいたりけり。

下野は白河の関を越えれば陸奥であるから、そういうこともあったかもしれない。

16段。これはまさしく有常とその妻の話である。
時期はよくわからないが東国に赴任するころと一致するのに違いない。

17、18、19、20、21、22、23、24、25、26、27、28、29、30、31、32、33、34、35、36、37段。謎。
26段は高子の話か。
断片的なエピソードが集められた感じだ。

田舎わたらひ

むかし、男かた田舎に住みけり。男宮仕へしにとて、

子供の頃は奈良で育ったが、宮仕えしようと京都に移り住んだ、という意味ではなかろうか。
ならばやはり在原氏の話ではなかろうか。業平とは限らない。
業平の父・阿保親王だとすると田舎とは太宰府であることになる。
奈良ではなく長岡京かもしれない。

38段。これも明白に有常の話。

39段。淳和天皇と、崇子内親王と、源至の話。848年。

40段。謎。

41段。

武蔵野の心なるべし

とあるから、有常の話か。

42
謎。

43
賀陽親王の話。
賀陽親王は桓武平氏の祖葛原親王の実母弟。871年まで生きたので、
有常より20歳ほど年上だが、同時代人とも言える。

44
有常の馬の餞の話か。

45
謎。

46
地方に下った有常へ京都の友が消息した話か。

47
謎。

48
これも有常の馬の餞の話か。

49
謎だが、有常の話であるとすれば、
妹とは、仁明天皇更衣の種子、
文徳天皇更衣の静子かもしれない。
妹に

聞こえけり

とあるのが暗示している。

50、・・・、59
謎。

60、61。
有常が肥後権守となったときの話か。

62
謎。

63
在五中将、つまり業平の話。

64
謎。

65
非常に興味深い話だ。
ここには藤原高子と清和天皇と在原某が出てくる。
清和親王の母・藤原明子(染殿后・文徳天皇の女御・藤原良房の娘)も出てくる。
高子入内後の話としてもよいが、それだと

おほやけおぼしてつかう給ふ女の、色ゆるされたるありけり

皇后ならば禁色を許されているのは当たり前だろう。
だから高子がもう少し若い頃の話ではないか。
そしてそれより若い在原某は業平ではあり得なく、
業平の息子の棟梁、あるいは孫の元方であるかもしれない。
棟梁は有常の娘の子である。

清和天皇は幼主であったから女盛りの高子が不倫していてもなにもおかしくはない。

『伊勢物語』の主人公は紀有常ではなかろうか。

そして『伊勢物語』の筆者は紀氏の誰か、有常から昔話を聞けただれかだろう。
紀貫之である可能性もある。
貫之は『土佐日記』で渚の院に言及しているが、
彼は当然、渚の院における惟喬親王や在原業平、そして紀有常の故事を知り得る立場にいた。

紀有常は名虎の子で、妹に静子があり、静子は文徳天皇の更衣となり、文徳の長男・惟喬親王を生んだ。
藤原良房の関心は文徳からその皇子の惟仁(後の清和天皇)に移りつつあった。
文徳朝末期、有常は伊勢権守となる。
これゆえに『伊勢物語』というのではないか。
権守というのだから実際に伊勢に赴任したのである(ほんものの伊勢守はおそらく王(皇族)で遥任)。
69段、

昔、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつそこに来させけり。かくてねむごろにいたつきけり。

二日といふ夜、男われて「あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど人目しげければえ逢はず。使ざねとある人なれば遠くも宿さず。女の閨近くありければ、女人をしづめて、子ひとつばかりに男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見出して臥せるに、月のおぼろなるに小さき童を先に立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所にゐて入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて寝ずなりにけり。

つとめていぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより詞(ことば)はなくて、

君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か ねてかさめてか

男いといたう泣きてよめる、

かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ

とよみてやりて狩に出でぬ。野にありけど心は空にて、こよひだに人しづめていととく逢はむと思ふに、国の守、斎宮の守かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せどえ逢はず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたより出だす杯の皿に歌を書きて出だしたり。とりて見れば、

かち人の 渡れど濡れぬ えにしあれば

と書きて末はなし。その杯の皿に続松の炭して歌の末を書きつぐ。

又あふ坂の 関はこえなむ

とて明くれば尾張の国へ越えにけり。

斎宮は水尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。

これが実話であるとすると、伊勢国の守、兼、斎宮の守というのが有常。
「狩の使」とは朝廷の用にあてる鳥獣を狩るために地方に使わされた使者だが、
負担が大きいとして、平安初期から延喜五年までしか行われなかった。
この狩の使というのは、誰だかわからないが業平である可能性は必ずしも高くない。

有常が伊勢に赴任したのは857年。
この年の伊勢斎宮は晏子内親王。
文徳天皇の第一皇女だが、惟喬親王の実母妹ではない。
惟喬親王の実母妹、つまり静子の娘・恬子内親王が伊勢斎宮であるというのが通説のようだが、
なんか違う気がする。
業平との年の差は20歳くらいある。
有常815年生まれ、業平825年生まれ、惟喬844年生まれ、恬子848?年生まれ。
恬子は晏子の次、861年(13歳頃)に伊勢に下る。

斎宮が晏子だとすると
「伊勢の斎宮なりける人の親」とは文徳天皇のことではなくて藤原列子(従四位上・藤原是雄の女)ということになり、
その列子が「つねの使よりは、この人よくいたはれ」と言った勅使の男とは、はて、誰だろうか。
普通に考えれば藤原氏の誰かだろう。
だがまあ、もともとは有常と晏子の話だったのが、だんだんに恬子と混同され、業平の話になっていった可能性はある。

伊勢物語23段

筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき

これは有常とその妻(藤原内麻呂の娘)のなれそめの歌ではなかろうか。

さらに867年、有常(52歳)は下野国の権守となる。このころではなかったか、

名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

この歌が詠まれたのは。
そして伊勢物語16段は、有常が貧乏なので妻(藤原内麻呂の娘)が尼になるという話。

昔、紀の有常といふ人ありけり。三代の帝につかうまつりて、時にあひけれど、のちは世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしくあてはかなることを好みて、こと人にも似ず。貧しく経ても、猶昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、男、まことにむつましきことこそなかりけれ、今はと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければ、するわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、「かうかう今はとてまかるを、何事もいささかなることもえせで、遣はすこと」と書きて、おくに、

手を折りて あひ見し事を かぞふれば とをといひつつ 四つは経にけり

かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる、

年だにも とをとて四つは 経にけるを いくたび君を たのみ来ぬらむ

かくいひやりたりければ、

これやこの あまの羽衣 むべしこそ 君がみけしと たてまつりけれ

よろこびにたへで、又、

秋や来る 露やまがふと 思ふまで あるは涙の 降るにぞありける

有常の歌は82段にも載る。業平の歌への返しである。

ひととせに ひとたびきます 君待てば 宿貸す人も あらじとぞおもふ

あるいは

おしなべて 峰も平に なりななむ 山の端なくは 月も入らじを

業平の室は有常の娘、その子が棟梁、棟梁の子が元方である。

丹念に探せばもっと証拠が見付かるかもしれない。

業平は確かに50過ぎて相模権守になってるから、相模までは行ったことがあるはずだが、
相模の国府は寒川辺りだ。
武蔵と下総の境の隅田川をこえて下野国まで行ったのは有常であった。
また彼が愛妻家であったことも確かだろう。
彼の場合は赴任というよりは左遷に近かった。
藤原良房や高子、基経らにとっては邪魔な惟喬親王の近親であったからだ。
文徳朝後期以降、抑圧され不遇に暮らした。

身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。

京都にはろくに仕事もない地方官にでもなろう、というやけくそな感じではなかったか。

『伊勢物語』に出て来る藤原高子関係の話は、紀氏の伝承とはソースが別なような気がする。
高子は遍昭の愛人だったはずだが、それがいつ頃からはわからない。
業平や有常とはあまり関係ないような気がするがよくわからない。

以下は関連する書きかけのメモ。

仁明天皇の皇太子には最初、嵯峨天皇によって淳和天皇の皇子・恒世親王(母は桓武天皇皇女)が想定されていた。
恒世親王が死ぬとやはり淳和天皇の皇子・恒貞親王(母は嵯峨天皇皇女)が皇太子になった。
ところが承和の変で恒貞親王は廃太子され、
代わりに仁明天皇の皇子・道康親王(母は藤原順子、冬嗣の長女で、良房の妹)が立太子される。

この頃すでに天皇と内親王の間にできた皇子は政治的経済的基盤が弱く、
有力な外戚を持つ皇子には勝てなくなっていたのである。

道康親王は即位して文徳天皇となる。
文徳天皇の長男・惟喬親王の母は紀静子、名虎の娘であった。
紀氏は家柄としては藤原氏にはとうてい勝てなかった。
文徳と藤原明子(良房の娘)の間に皇子・惟仁が生まれると、生後八か月で皇太子となる。

文徳が死ぬと、惟仁は九才で即位、清和天皇となる。

清和天皇と藤原高子(長良の娘、良房の養子、基経の妹)の間に皇子・貞明が生まれるとわずか生後三ヶ月で立太子される。
惟喬親王が出家したのはその四年後なのだが、
おそらくこのとき承和の変に匹敵する政変があったはずだ。
幼主の外戚となり、自ら摂関となる。摂家の濫觴、「貞観の変」とでも呼ぼうか。

源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?