白雲

夏目漱石が白雲という言葉を好んで使っていることについてすでに何度も書いてきたが、「吾輩は猫である」にも2箇所「白雲」が出てくる。

 床の間の前に碁盤を中に据すえて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢おごるんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯やぎひげを引っ張りながら、こう云いった。
「そんな事をすると、せっかくの清戯せいぎを俗了ぞくりょうしてしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗せいはいを度外において、白雲の自然に岫しゅうを出でて冉々ぜんぜんたるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中こちゅうの味あじわいはわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然えんぜんたる列仙伝中の人物だね」
「無絃むげんの素琴そきんを弾じさ」

「白雲の自然に岫しゅうを出でて冉々ぜんぜんたるごとき」というあたりはいかにも西行の

おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲

を連想させる。

「ああ、眠かった。山上の白雲わが懶
ものう
きに似たりか。ああ、いい心持ちに寝
ね
たよ」

「山上白雲似我懶」どこかの漢詩にありそうだが、検索してもすぐには出てこない。「白雲」が出てくる作品が他にもあるかと思い青空文庫を検索してみるがなかなかでてこない。今のところ小説で「白雲」が出てくるのは「猫」の他には「草枕」しかない。

それはそうと黒澤明の『夢』、「こんな夢を見た」は明らかに夏目漱石の『夢十夜』をオマージュしているよな。

既に書いたつもりでいたがこのブログには書いてなかったらしい。他のところに書いていたので引用しておく。

漱石が好んで使う「白雲」という語(「白雲紅葉千山に満つ」「臥(ふ)して見る白雲の堆(うづたか)きを」「去路白雲悠たり」「此の去西天白雲多し」「窓外白雲帰る」「白雲往(ゆ)きて也(ま)た還る」「空中に独り唱ふ白雲の吟」「遊ぶに儘(まか)す碧水白雲の間」等々)

人は皆漱石を、I love you を「月がきれいですね」と訳すような、英語が達者でロマンティックな人だと思いたがる。はたして漱石はそんな人だっただろうか。漱石ならI love youをむしろ「雲が白いですね」とでも言ったかもしれない。

一夜

若い頃は昼夜逆転と言えば夜更かしをしすぎて昼間寝ているようなことであった。私が京都駿台予備校上賀茂寮に住んでいたときはまさにそれで、朝5時まで烏丸鞍馬口にあったゲーセンで遊び、6時まで四条河原町辺りの喫茶店でだらだらして、上賀茂に戻ってまかない飯も食わずに夜まで寝て、夜が更けたらまた烏丸鞍馬口まで遊びに行く、などという無茶なことをしていた。しかし今から思えばめちゃめちゃ有意義な京都暮らしであったとも言える。一生のうちで一度くらいはそういう生き方をしてもよい。

今はまったく別の意味で昼夜逆転している。テレビ業界で夕方はゴールデンタイムというのかもしれないが、私にはまったく無価値な時間帯であって、さっさと酒を飲んで寝てしまいたい。朝は3時くらいに起きて風呂に入り5時の始発で移動して、夕方はできるだけはやく帰宅して寝る、というのが肉体的にも精神的にも一番楽な生き方なので今はそうしている。とにかく人間社会というものが嫌で嫌で仕方ない。年を取ったから早起きになるというのは実はそういうものであったかといまさら思い至った。

夏目漱石はいきなり長編小説を書いたと以前書いた。それで嘘ではないのだが、短編も書いてないわけではない。たとえば「倫敦塔」。しかしこれを短編小説といってよいのかどうか。小説というよりエッセイのようなものではなかろうか。

『猫』を読んでいたら、

せんだっても私の友人で送籍
そうせき
と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧
もうろう
として取り留
と
めがつかないので、当人に逢って篤
とく
と主意のあるところを糺
ただ
して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡
たんかん
に送籍君を打ち留めた。

というくだりがあって、送籍とは漱石、つまり夏目漱石本人のことで、「一夜」という小説も青空文庫にあって読むことができる。

この「一夜」だが、誰も話題にもしないので私も今の今まで読んだこともなく、その存在も知らなかった。朦朧としてとりとめの無い話。まさにそうで、これに何か意味があって解読してみようと思った人もほとんどいないようだ。

普通小説家になろうという人はまず短編を書いてみてだんだん長くしていくものだ、と以前に書いた。その通りだと思う。夏目漱石はまず「猫」という長編小説を書いたように言われているが実はこの「一夜」が処女作なのではないかとまずは疑ってみた。

しかしたぶん違うだろう。では「猫」のあとに「一夜」を書いたのか。そうかもしれない。しかし思うに、漱石はたぶん誰か(子規であった可能性が高いがそうではないかもしれない)に、小説を書いたらホトトギス辺りに掲載しても良いよなどということを言われたに違いない。それで小説なんて書いたことないんだからどう書けば良いかわからない。適当に何本か、いろんな種類のものを書いてみた。漫談みたいなもの、留学の体験談みたいなもの、朦朧としたもの、などなど。それらが「猫」の第一話と「倫敦塔」、「幻影の盾」、「琴のそら音」「一夜」などの短編群だった。というあたりが当たりではないか。

それでそれらを読み比べてみて、とりあえず「猫」は一般受けしそうだからホトトギスに掲載してみたら非常に受けた。「猫」は連載が決まり、漱石は突然流行作家の道を歩き始めた。

朦朧としているあたりが詩人の特色である、などと書いているが、実際漱石は詩人、つまり漢詩人になりたかったのに違いなく、小説家なんぞになりたいわけではなかった。この「一夜」にも、「坑夫」にも、「草枕」にも、小説ではないという言い訳が書いてある。小説の書き方を知っていたわけでもなかった。ただ「猫」を書いたら偶然売れたのであとから小説というものはどう書いたら良いか試行錯誤したというのが当たっているのに違いない。そしていつの間にか、漱石は偶像化して、最初から小説家になろうとして、イギリス留学仕込みの英文学の素養を活かした小説を書き始めたということになってしまった。それはたぶん村上春樹には当てはまるけれども漱石はそんな人ではまるでなかった。漱石がもしそんな人であれば森鴎外と同じ頃から小説を書いていなくてはなるまい。

今と同じく当時も小説家になりたい人はたくさんいた。樋口一葉も生活の足しにするために半井なんとかという新聞作家の弟子になって小説の書き方を学んだ。漱石はそれすらしていない。いきなり小説を書き始めた。今の人は小説家の型というものがあってそれを学ばなくては小説家にはなれないと思っている。ほとんどの人はそう思っているだろうが、夏目漱石はそうではなかった。小説のようなものを書いてみたら売れたから小説家になったのだ。出版社の編集者はああ書けこう書けという。それはただライターの都合だから、ほんとうに小説家になれるか、書いた物が小説になるか、書きたいものが書けるかということとはあんまり関係ないと思う。

「一夜」「二百十日」「草枕」はよく似ている。これらは実は三つとも同じモチーフから出てきたものではなかろうか、「一夜」をリライトしたものが「二百十日」「草枕」となったのではないか、という仮説を立ててみる。

となると「一夜」に出てくる二人の男と一人の女は、夏目漱石、山川信次郎、そして前田卓だったのではなかろうか。漱石にとってこの一夜のことは一生の思い出となるような興味深いものだったのではないか。しかし漱石は当時すでに結婚していたし、体験をそのまま書いては小説にもならないし、プライバシーもへったくれもない。しかし小説を書いた経験もほとんどない漱石としてはどう脚色すれば小説になるかもわからない(漱石は絵の描き方も知らずに水彩画を描き始めたり、バイオリンをいきなり弾き始める人だった)。そんなテクニックはまだ身につけていないのだ。だから詩人か画家の書いた朦朧とした小説、ということにした。漱石としてはもう少しまともな作品に書き直そうと思って、「二百十日」「草枕」ができたんだけど、この二つもなにやら怪しげな、小説らしからぬ小説になってしまった。世間一般では漱石といえば『猫』に『坊っちゃん』というイメージが定着してしまっていた。それと外れたものは無視され、存在すらしないものにされてしまった。というあたりが真相なのではなかろうか。

「一夜」にも漱石の詩が出てくるのだがこれは「草枕」にも出てくる。

春日静座
青春二三月 愁随芳草長
閑花落空庭 素琴横虚空
蟰蛸挂不動 篆烟繞竹梁
独坐無隻語 方寸認微光
人間徒多事 此境孰可忘
会得一日静 正知百年忙
遐懐寄何処 緬邈白雲郷

よほど好きな詩なのだろう。白雲という語は漱石や徂徠の詩にしばしば出る。荒井健・田口一郎 訳注『荻生徂徠全詩』によれば白雲は清浄な隠棲の象徴であるというが、漱石の場合それは具体的には熊本県天水町のことである、ということになる。遐懐、緬邈とは遠い熊本時代の思い出ということになる。独坐隻語無く、方寸微光を認むとあるが、必ずしもこれを信じる理由もない。彼の傍らには二人の友がいたはずだ。

人生は徒らに忙しい、山の中でたまたま一日静かに過ごすことができたがまた人の世界へ戻って行かなくてはならぬ。三十才頃の漱石の述懐だ。

蟰蛸挂りて動かずとは「一夜」に出てくる蜘蛛のことであろう。

「蓮の葉に蜘蛛下くだりけり香を焚たく」と吟じながら女一度に数弁すうべんを攫つかんで香炉の裏うちになげ込む。「蟰蛸懸かかって不揺、篆煙てんえん遶竹梁ちくりょうをめぐる」と誦じゅして髯ひげある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に画えを活いかす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。

私の本業は一応CGということになっている。世間一般が言うCGとは少し違うかもしれないが、CGを仕事にして生きている人の一人であるには違いない。私が若い頃CGはまだ未発達で、個人レベルでも新しい仕事が出来もしたのだが、今は何もかも発達してしまって、私一人いようがいまいが、CG業界には何の影響もない。私がやるよりもうまくできる人がいくらでもいるのに老い先短い私がわざわざやる必然性はまったくない。私は私にしかできない仕事がしたい。だからはやくCGの仕事なんてやめてしまって執筆活動に専念したいのだが(笑)、あいにく売文では食っていけないから仕方なく昔覚えた仕事を続けている。

私もまた小説でも書いて生活の足しにしようとかつて考えた一人であったから、漱石の気持ちを詮索したりしている。たぶんだいたい当たっているだろうと思う。こういう考察をした人はあまりいない、というか、全然いないのではないか。ちょっと調べれば「一夜」と「草枕」がこれほどまで類似していることはすぐに知れる。

こないだ書いたけどいつ出版されるかわからない本、というものがあって、もうこれ以上書くこともないのだが、書いたことが間違ってちゃいけないから出版されるまでにいろいろ調べているところだ。今の所大して訂正することはないと思っている。

八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜いちやを過した。彼らの一夜を描えがいたのは彼らの生涯しょうがいを描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性すじょうと性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。

髭のある人というのは明らかに漱石だ。

小説家が初期作品をリライトして長編に仕立て直す、ということはよくあることのように思われる。ヨハンナ・シュピリも「フローニの墓に一言」をリライトして「ハイディ」を書いたのだと私は思っている。

吾輩は猫である

仕方ないので『吾輩は猫である』を頭から通して読み始めた。

つい最近草枕4というものを書いたが、『草枕』が温泉旅館の女将を画工の目から見て描いた、当時流行っていた一種の暴露小説というか、自然主義小説というか、私小説の類いであって、また画工も漱石自身のカリカチュアであって、要するに『草枕』は漱石の自分語りというか、自分の実生活から取材してそれをそのまんまネタにした(当時の)現代小説である。

これに対して森鴎外の『阿部一族』などは全く別種の、純粋な歴史小説であり、ある対象を客観的に(あたかも医者が患者を観察するかのような視点で)記録したドキュメンタリーである。

『猫』は『草枕』とまったく同じで、猫の視点から描いた漱石そのものだ。漱石は教師をやったり、正岡子規と一緒に俳句を詠んだり、水彩画に凝ったり、新体詩を作ったり、バイオリンを弾いたりと、いろんなことを試してみるがどれも世間で評判になることはない、要するに世間によくいる、人よりもちょっとばかり高級な教育を受けたおっさんの一人、教養人の一人であった(そういう人を高等遊民というのはちょっと間違っていると思う)。それで、世間ではやはり小説を書くのが流行っていたので、ホトトギスを主宰している子規から勧められて小説を書いてみることになった。そしたら非常に好評だったので八話まで連載することになった。『猫』はただそれだけのものだ。

『猫』を読めば漱石が常日頃持病の胃弱に苦しめられており、知人にいろいろ勧められて試してみてもどれも効果がなかったことなど、彼の日常がそのまま書かれている。彼の妻、子供たち、使用人ら、付き合いのある友人ら、彼の仕事、日露戦争当時の世情などが、多少おもしろおかしく改変されてそのまま出てくる。なんのことはない、これは田山花袋の『蒲団』と同じでただの私小説だ。むしろエッセイに近い。ホトトギスという雑誌は新聞のように一般大衆が読むものではなかったのに違いない。それでも当時文芸に携わっている人はほとんどもれなく読んで、それでやっと漱石が世間に知られたというわけだ。そのことまでが全部第二話には書かれている。

国会図書館デジタルライブラリでホトトギスの誌面も見てみたのだが、筆名は「漱石」とだけ書かれていて、これが子規の友人である夏目金之助という人だとはすぐにはわからない、最初はほとんど匿名に近い投稿だったと思われる。挿絵が入っているのだが、これがまた話とは何の関係もない、日露戦争とか朝鮮の絵なのがおかしい。この挿絵、とっくに著作権保護期間は過ぎているはずだが、公開範囲は「送信サービスで閲覧可能」になっているからここに貼ることはできない。

漱石は私小説『猫』を書いてそれがたまたま当たったので『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』もまた私小説ではあるが、だいぶ脚色されている。それで『坊っちゃん』も当たったので今度は少しひねって『草枕』を書いたがこれまた一種の私小説であった(『草枕』はモデルとなった女性については漱石の妻が詳しく記述しているし、漱石が温泉を訪れた時のことも詳しく調べられているから、どういう素材をどういうふうに加工してああなったのか、分析するのにちょうど良い)。『草枕』も、評判は悪くはなかったがそれほど当たらなかった。自分自身のネタがだんだん尽きてきたので今度は他人を取材して『坑夫』を書いた。しかし『坑夫』にもある程度漱石自身が投影されているように思える。たぶん自己の体験と取材対象からの聞き取りを適当に混ぜ合わせて話を作ったのだろう(私が一番しっかりと、たびたび読み返したのは漱石の作品は『坑夫』である。だから『坑夫』のことは漱石の作品の中では一番良く知っている)。

でまあこのあたりで教員をやめて朝日新聞専属の作家になったりしたもんだから、まじめに(?)小説を書き始めた結果が『こころ』などになった。夏目漱石という人はただそれだけの人だったように思う。

それで、普通の人は、高校生くらいで教科書で『こころ』を読まされて、それで『猫』の冒頭部分やら『坊っちゃん』などをちょろっと読んで、あー俺も夏目漱石わかるわかると思って、夏目漱石という人は偉い人だな、俺にもわかるわーとか思って、それ以上漱石とはどんな人だったかなんてことは深くは考えない。『猫』にしても全部を通して読んだりしない。読んだとしてもさらっと流し読みしてそのまんま忘れている。要するに社会的に記号化された、記号としての漱石は知っているが、漱石とは何かというところまでは考えたりしない。試験に出るから覚えているだけのことだ。小林秀雄にしてもそうだ。世間で偉い文芸評論家だというから、ちらりと読んでみて、記号としての小林秀雄を知っているだけで、なぜこの人はこんなことを書こうと思ったんだろうというところまでは考えない。小林秀雄は漱石ほど頻繁に名前が挙がることはなく試験に出る頻度も少ないから知らない人は知らない。逆に漱石はみんなが知っている。ただそれだけのことなのではないか。

ほとんど無名時代の漱石が、ほとんど匿名で寄稿したこの一話読み切りの『猫』を当時の感覚で読んでみないことには『猫』を玩味することはできないと思うのだ。予備知識や先入観をできるだけ捨てて。そうしないと漱石という人がわかってこない。

『猫』で、猫の絵を描いているのだが目が描かれてないとか、猫なのか熊なのかわからないとか、色も全然違うとか、人の描いた絵を見ても何が描かれているか察することができないとか、そういうのは漱石が自分の絵を人に見せて言われたことをそのまま書いているのだろう。実際漱石は目を描くのが下手だと思う。目を描けない、顔や表情を描けないのでは絵描きになることはできまい。

阿部一族

武士にとって名前を残して死ぬことがすべてである。

私もなぜかいつの間にかその考え方に感化されていたようだ。森鴎外は明らかに武士であるが夏目金之助こと夏目漱石はその趣味や嗜好はともかくとして、まったく武士ではなかった。

森鴎外がなぜあれほどまで阿部一族で、いろんな人をサーベイして事細かに記録したかといえば、鴎外自身が武士であったからだ。彼は小説が書きたかったのではない。自分の小説が後世まで残る確証をすでに得ていた鴎外は、自分の小説に彼らの名前を記載し、彼らを永遠に人の記憶に残しておきたかったのだ。彼らを顕彰したかったのだ。

森鴎外にとって面白い小説を書くことなどなにほどのことでもなかった。おそらく鴎外は自分が売れっ子作家になろうという気持ちもなかった。彼はなすべきことは十分にやりすぎるほどなし終えていたから、さらに小説家として名声を得たいとおもっていたかどうか。

彼にとって、歴史に名を残すという仕事はもうし終えていた。だから、人に読まれ喜ばれる小説を書こうなどという気持ちはなかった。ただ阿部一族の人々を未来永劫、日本人の記憶にとどめる。そのためにだけあの小説書いたのだ。

二発目以降もよく売れた一発屋

森鴎外は長編も書くが短編も書いている。芥川龍之介だって、菊池寛だって、中島敦だって、志賀直哉だってそうだ。みんないろんなものを書いているが、夏目漱石はほとんど純粋に雑誌か新聞に連載する小説しか書かなかった。

普通小説家になろうとする人は短編か中編を書いてみて、だんだんに長くしていって長編小説を書くものだろう。漱石はいきなり長編を書いた。ずいぶんおかしな人だと思う。これもやはり連載小説という形であったからそうなっただけだとしかいいようがない。

漱石は『猫』以降も、基本的に長編小説しか書いてない。『猫』『坊っちゃん』が雑誌「ホトトギス」連載、『草枕』も雑誌連載、次の『二百十日』は『草枕』の続編か何かのような、熊本の山の中をただ歩きながら登場人物二人が会話ばかりしているへんてこな中編小説。その次の『野分』は「ホトトギス」連載。その後は全部朝日新聞連載。

処女作の『猫』がとにかくいきなり長い。最初は一話読み切りのつもりで、試しに書いてみたんだろうが、好評だったからなし崩しに連載になった。上巻、中巻、下巻と三部に分かれていて、猫が死んで終わりにしたのに、まだ続編を書いてくれと言われたと下巻の序に書いてある。とにかく読者からの要望が多かったからこんなに長い話になったのだろうが、これといってストーリーがあるわけでなく、だらだらと続く話だ。同じことは『坊っちゃん』にも『草枕』にも言えるだろう。

漱石も『こころ』あたりまでくるとちゃんとあらかじめしっかりストーリー構成して計画的に書いているが、『猫』はそうではない。まったく無計画に書いている。『草枕』もストーリーは基本なくて、書きたいことをただ書きたいように書いてみて、それで読者の反応を見ている感じ。『二百十日』はさすがに読者ももうわけがわからなくて、書いている本人もわからなくて、あんな落語か漫才の出来損ないみたいな話になった。

あとから朝日新聞に連載した作品群はともかくとして、基本的に漱石という人は一発屋である、というより二発目以降もよく売れた一発屋という性格の作家であって、人に言われるがままに書いて、それがなぜか毎度好評だったので、書き続けるしかなかった。彼はきっとなぜ自分が小説家のようなことをやっているのか最後までわからなかったのではないか。

当時は病弱で短命な人はいくらでもいたけれども、漱石もやはりそうした一人であって、小説を書き出した頃にはすでに相当病んでいたが、売れっ子作家になり、朝日新聞専属作家になったあとにますます症状が悪化して、死を意識しなくては作家活動もできなくなってしまっていただろうと思う。もしかして創作活動をきっぱりやめてしまえばもう少し長生きできたのかもしれない。そうした創作活動で精神をやられて体を壊してしまう人だったのではなかろうか。自分の好きな物を書くのでなくて、読者の評判を気にしすぎていたのかもしれない。一生熊本辺りで高校教師をしていたほうが楽しく暮らせたのではなかろうか。

自分の話をすると「エウメネス」も最初は、ゲドロシアの沙漠で兵士が捧げた兜一杯の水を捨てる話をメインにした短編だった。ところがこれが良く売れるので続編を3巻目まで出した。それでもまだ売れ続けたので切りのよい6巻目まで書いたのだった。必ずしも長編を書きたかったわけではなく、短編は中編も書いてはいたが、反応を見てだんだんに長編も書くようになった。逆に何の反応も無しに長編を書くことなんかできないと思う。

小説を書き始めたきっかけというのは、もう何度も書いているが、宮本昌孝『義輝異聞』を読んだからだった。ああこういうものを書いてもよいのか、こういう題材であれば私にも書けそうだという気になり、「将軍放浪記」というのを書いた。それより前に「アルプスの少女デーテ」などというものをちょこっと書いたこともあったのだが、何よりも私はたぶん、頼山陽とか本居宣長なんかにはまっていた頃だったから、そういうものをそのまま小説に書くのもありなんだなというとっかかりになった。一度書き始めると現代小説なども書いた。人が書いたものを読むだけというのにすっかり飽きてしまっていたから、自分が読みたいものを自分で書くようになった、というのが一番動機としては近いと思う。

それ以前はいろんなものを乱読していたのだが、久しぶりに部屋の片付けなどするとそうした乱読時代に買った本がたくさん出てきて、塩野七生なんかは今ではまったく嫌いになったけど昔は良く読んだよななどと思い返した。嫌いになったのはこの人が完全に西洋史観に完全に没入した人で、かつ歴史認識にもいろいろ問題があるからで、要するに、司馬遼太郎のたぐいで読めば読むほど嫌になるタイプの小説を書くからである。しかしながら彼女のハンニバル戦記などは「エウメネス」を書く上で大いに影響を受けているには違いない。昔自分が読んだ本を、自分が書いた物の原点を再確認する作業のつもりで読み直している。宮城谷昌光『重耳』は割と好きで読んだが、改めて読んでみてやはり面白いと感じる。他には子母沢寛、陳舜臣、酒見賢一などを読んでいた。宮崎市定は手に入るものはほとんど全部買ってあるのではないかと思う。そうしたものを読んだ上で次第に平家物語とか太平記とか吾妻鏡とか六国史や伊勢物語なんかの、より古いものを直接読むようになっていった。

幸田露伴『努力論』を読んでみたがまったく面白くない。こういう校長先生のお説教みたいな本をよくもまあ書いたもんだとしか思えない。幸田露伴ってどこが面白かったんだろう?

森鴎外の短編はまあまあ面白い。改めて不思議な人だなと思った。というより、鴎外もまた普通の人だし、漱石は漱石で普通の人であっただろうし、露伴は露伴で普通に真面目くさった人だったのだろう。

ドナルド・キーン再説

このブログはもうずいぶん昔(私が30才台の頃)から書き散らし書き殴っているもので、手直し・書き直しが必要なのだが(改編するというわけでなく書式などのメンテナンスが必要ということ)、ふと、25年も前(ということは35才の時)ドナルド・キーンついて批判している文をみつけた。

ドナルド・キーン、ドナルド・キーン2、ドナルド・キーン3、宣長の違和感、原勝郎、「山月記」はなぜ国民教材となったのか

どうであろうか。すでに書いたことはできるだけ繰り返さないが、司馬遼太郎がとんでもない歴史音痴なのは今更どうしようもないとして(そういえば合羽橋に行ったとき台東区立図書館の池波正太郎文庫に行ったら司馬遼太郎の本まで置いてあった。あれはけしからんことだ。ちゃんと分別してほしい。合羽橋には雨合羽は売ってなかった)、ドナルド・キーンはなぜよりにもよって、足利義政に興味を持ったのか。他に面白そうな人はいくらでもいるのになぜ義政の本をいくつも出したのか。

25年前の私は彼が先に、京都人か誰かに感化されて室町文化、東山文化に興味をもちそこから義政に興味をもったのではないか、と推測しているのであるが、それは原勝郎という人が

書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

と言っているのと同じだ。しかしそれだけでなく、今思うに、彼は義政を彼のライフワークである明治天皇にぶつけて、日本という国の典型的な最高権力者(しかも権威的な、象徴的な意味での)の、特に際立った、特徴的な二人を対比してみたかったのではなかろうか。

この、ドナルド・キーンという人に取り上げられたことは義政にとって非常に迷惑なことであった。同時に、足利義政の比較対象にされた明治天皇にとってもまったくありがたくはないことだったと思う。ドナルド・キーンによって日本史研究は多少とも進歩したのだろうか?非常に疑問だ。司馬遼太郎を引っ張り出してきてこんな対談をして合いの手を打たせたりするようでは、たかが知れている。むしろ日本史に対する誤解を再生産し変な箇所をことさら膨らませて奇形にしただけだったのではないか。

ドナルド・キーンという人が義政を「ろくでなし」「気違い」などと考えたということは(それを後白河法皇に対して言うのであればまだわかる気もする)、彼にそう思わせ、そう言わせた日本人が彼の周りに相当数いたということだ。また北条泰時のような天才に対して「鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。」などと発言していることも、彼がちゃんと自分で調べなかったせいというよりは、当時の日本の歴史観というものがそうしたものであった、特に、京都人はことさらに応仁の乱を馬鹿にして義政をあざけって悦にいり、鎌倉北条氏をおとしめて溜飲を下げていたのだろうと思われるのだ(ドナルド・キーンとどこかの公家の子孫が茶室かなんかでそんな話をしているシーンが目に浮かぶ)。足利氏にしても京都人にとっては北関東からでてきた野蛮人程度の認識なのだろう。

司馬遼太郎のように、室町将軍のことも応仁の乱の意味もなんにもしらずに、「どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが」と放言する輩が戦後日本には大勢いたのだろう(たぶん今もおおぜいいる)。

私は高校で日本史をとらず世界史を取った(とすでに書いているけれども)。どこかで日本史を小馬鹿にしていたのだと思う。当時の新聞が読むに値しなかったように、日本史などというものは学ぶに値しないものだと思っていたと思う。そしてのちに「日本外史」で日本史を一から独学した(これもすでに書いている)。江戸時代の人は室町時代を良く知っていた。今の私たちが明治時代を熟知しているように。

今の人たちはかつて関東で利根川を挟んで、西関東と東関東に分かれて戦争をしていた、なんて話をまったくしらない。は?それはいったいどんな歴史創作ものですか、何かちょっと面白そうですねなどと言われる。れっきとした事実である。そしてそれにそれを元ネタにした小説ももうある。江戸時代に滝沢馬琴が書いた南総里見八犬伝がそれだ。人は往々にして、太田道灌や、北条早雲やその子孫らがどういう経緯でどんな戦争を闘ったかなどということは把握しておらず、彼らの名前だけ知っているだけだ。江戸城も川越城も元はといえば、西関東を支配する関東管領上杉氏の家宰太田氏が、東関東の古河公方と対峙するために建てた城だ。

応仁の乱で京都が戦場になった、戦に焼かれてお寺もボー、などという話は良く知っているくせに。関東に生まれ育った人でもよっぽど郷土史に詳しい人しか南総里見八犬伝のベースとなった関東の歴史を知らない。自分が住んでいるところの郷土史としては知っていてもそれが日本史全体の中でどういう文脈にあるかを認識していない。

京都と関東は連動していた。京都しか見ていなくて応仁の乱がわかるはずがない。義教が関東をぶっ壊したせいで、関東は大乱となった。義政はそれをなんとか収めようとして余計火に油を注いだ。義政が何もしなかったのではない。無能だったのでもない。嫁の日野富子の尻に敷かれていたせいでもない。不可能だったのだ(もし義政が強権を発動すれば義教や義輝のように家臣に暗殺されるか義昭のように京都から追放されるおそれがあった。勢い合議制にならざるを得ず、細川、山名などの大族には遠慮せねばならぬ)。

京都の室町将軍と関東の鎌倉公方はもともと尊氏の息子たちだったがだんだんに血が遠くなり、足利本家の室町将軍と分家の鎌倉公方が対立するようになって(江戸時代に徳川氏が御三家、御三卿どうし対立しなかった(少なくとも戦争には発展しなかった)のは足利氏の前例を学んでいたからだ)、関東の方が先に幕府体制が崩壊していき、それが京都へ逆流してきて応仁の乱になった。足利将軍が守護を任命して日本全国を支配するという制度は東から西へと崩れていった。その全体的な流れを説明しなくては応仁の乱も戦国時代もわかるはずがない。日本外史を読めばその流れはわかる。南総里見八犬伝を読めばだいたいの雰囲気はわかる(あれを通読する人は滅多にいないとは思うが)。江戸時代の、京都の人はともかく、関東に住んでいた人たちはみんなわかっていたはずだ。ところが今の日本史では室町時代をほとんどまったく教えない。ただ京都室町御所で茶の湯がー、申楽がー、書院造りがー、連歌がーと芸能にうつつを抜かしていたら突然青天の霹靂のごとく応仁の乱が勃発し、義政は銀閣寺を建てて政治から逃避し、日野富子は義政を尻に敷き、ぐだぐだ戦争が続いて日本全体に波及して戦国時代になった、くらいのことしかいわない。で、司馬遼太郎の書いたものばかり読んでいる。室町時代がわかるはずがない。

私も関東に住み、東京神奈川、埼玉や千葉などあちこち経巡ってきたせいで、関東のことがだいぶわかるようになってきた。東京は日本の首都であるはずだが、日本人は関東のことをわかってない。

ともあれ。私が最近書いた本でも(いつ出版されるかわからないが)ドナルド・キーン批判をしたのだった。彼はいろいろわかってない。それはやむを得ないことだ。しかしながらみんなドナルド・キーンの研究はすごく優れたものだと思い込んでいて、実際にはろくに読んでもいないし、ちゃんとした検証などまったくされていない。これは困ったことである。

源氏物語

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。桐壺帝は仁明天皇。桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。一院は嵯峨院。弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

ということを以前に書いた(ほかにもこれとかこれとか)。すると源氏物語に出てくる今上帝とは宇多天皇、今上帝の母、承香殿女御とは班子女王ということになる。ほかにも

光る君といふ名は 高麗人のめできこえてつけたてまつりける とぞ言ひ伝へたるとなむ

とか、

そのころ 高麗人の参れる中に かしこき相人ありけるを聞こし召して 宮の内に召さむことは 宇多の帝の御誡めあれば いみじう忍びて この御子を鴻臚館に遣はしたり
御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに 相人驚きて あまたたび傾きあやしぶ
国の親となりて 帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の そなたにて見れば 乱れ憂ふることやあらむ 朝廷の重鎮となりて 天の下を輔くる方にて見れば またその相違ふべし と言ふ
弁も いと才かしこき博士にて 言ひ交はしたることどもなむ いと興ありける

など、高麗人と幼い頃の光源氏が深い関係にあったことも注目すべきであろう。光源氏の母は百済人だった。それですべてがすんなりと説明できてしまう。百済王族は日本人、特に藤原氏に対抗して妃を入内させ天皇を立てることもできたはずだが、藤原氏は猛反発、おそらく実力行使に出ただろう。そうしてやがて百済人は歴史の表舞台から消えていった。

桓武天皇は百済人の子であった。妃にも百済人が多くいた。嵯峨天皇、仁明天皇のころまではそういう傾向が続いた。しかし時代が下り、文徳天皇のころになると百済人はやっと宮中でマイノリティになり、奈良時代のように藤原氏が実権を握り始めた。百済の王族の女が産んだ皇子は、親王になることはできない。親王の名は二文字、それ以外の王の名は一字をつける、というならわしがあった、ように見える。天皇の子であるのに源氏を賜り臣籍降下する、というのも源氏物語の記述と同じだ。

それでこの光の君の物語の原型が宇多天皇の時代、つまり、古今集が成立する直前くらいに成立したとしよう。それは西暦でいうとだいたい900年くらい。紫式部が生きたのがだいたい1000年くらい。源氏物語絵巻がつくられたり、最古の写本が出てくるのが平安末期、だいたい1150年くらいだろうか。藤原定家はほぼ現在と同じ形の源氏物語を読んでいたはずだ。菅原孝標女は紫式部より少しだけ後の人であるから、もし紫式部が源氏物語を書いたとすれば、紫式部が書いたそのままの源氏物語をほぼリアルタイムに読んだことになる。「更級日記」には「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」という形で出てくる。

紫式部が源氏物語を書いたことを疑う理由はないのでそうだとして、紫式部は嵯峨天皇 (800年頃)から宇多天皇 (900年頃) の時代に、日本人と渡来人の間で起きた皇位継承問題から成立した光の君伝説というものをもとにしてそれを膨らませて源氏物語を書き、それを菅原孝標女が読んだのだが、その後も100年以上の歳月をかけて、源氏物語はブラシアップされ、続編が書き足されていって、藤原定家の手に渡ったのであろうと思う。定家が書いた写本が最古の写本の一つとされているが、定家がいろんな写本を集めて今の源氏物語の形にした、つまり源氏物語の最終的な作者は定家である、ということもできるのではないか。

何度も書いているが「伊勢物語」は紀有常が漢文で書いた日記が元になり、それが拡散し、和文化することによって成立したのだと私は思っている。となると「伊勢物語」と「源氏物語」はどちらもほとんど同じ頃にその原型が成立したのだろうということになる。つまり、源氏物語の原型というものがあったとしたらそれは伊勢物語のように、一つの歌に少し長めの詞書きがついたようなものの集合体だったのではないか、そうしたものが村上天皇時代辺りに集積されつなぎ合わされた。その編集の主体は宮中に仕える女房らであった。

伊勢物語には惟喬親王や在原業平や紀有常らが藤原氏によって左遷されていくという政治的な要素も含まれている。源氏物語にはその要素は希薄ではあるが、というのは女房らにとってはそうした男たちの世界は直接興味がなかったからだろうが、しかしよくよく観察すると政治の世界のなまなましい駆け引きがみえかくれする。光源氏は浮世離れしたプレイボーイというだけではなかったのだろう。少なくともその原作においては。

さらに想像を膨らませると、百済王族が書いた漢文の日記があってそれがのちに伝説化、和文化して、全体のあらすじとして、源氏物語の冒頭に付加されたものが「桐壺」であったのかもしれない。

ファウスト

ファウスト第2部冒頭、アリエル(シェイクスピアのテンペストに出てくる空気の妖精らしい)が草地に寝そべっているファウストに歌う歌

Wenn der Blüthen Frühlings-Regen
Ueber Alle schwebend sinkt,
Wenn der Felder grüner Segen
Allen Erdgebornen blinkt,
Kleiner Elfen Geistergröße
Eilet wo sie helfen kann,
Ob er heilig? ob er böse?
Jammert sie der Unglücksmann.

der Blüthen は複数2格、der Felderは複数2格、Kleiner Elfen は単数2格強変化、に思えてならないのである。2格やばいよ2格。2格(所有格)は口語ではほぼ使われなくなった古い雅文的な言い方という。英語では ‘s で表されるアレ。

Kleiner Elfen Geistergröße Eilet wo sie helfen kann、これは、小さな妖精の魂の大きさは、が主語で、Größeは女性名詞だから人称代名詞はsieだけれども彼女ではなく、それ、と訳すべきではないかと思うんだ。だから直訳すれば「小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る(者がいる)場所へ急ぐ」となるはずだ。

普通は Kleiner Elfen が1格で主語、Geistergröße はその形容的な言い換えのようなものと思えるはずだ。しかしもしElfenがElf (もしくは Elfe) の複数1格だとしよう。もしそうだとすれば Kleine Elfen になるはずではなかろうか。

いろんな訳を見てみたが(英訳を含めて)妖精たちとか妖精の群れとか little elves などと訳しているものが多いのだが、私にはどうもこれが複数には見えないのだ。sie eilet, sie jammert どちらも単数にしか見えないではないか。3人称複数(あるいは2人称複数)なら sie eilen, sie jammern となるんじゃないの?

となると、「小さな妖精の魂の大きさ」とはアリエルが操る妖精の群れ、ではなく、アリエル自身のことにならんか。アリエルが自分でファウストを助ける、という意味なのではないのか。私は体は小さいが心は大きいからあなたを助けてあげましょう、と言っているようにみえる。

Segen blinkt は他動詞とみるしかあるまいと思う。

というわけでできるだけ直訳してみると、

花の春雨があらゆるものの上に漂い落ちる時、野の緑の恵みが地に生まれ出たあらゆるものをきらめかす時、小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る所へ急ぐ。彼が善良であろうと、彼が邪悪であろうと、それは不運な者を憐れむ。

となるのではないか。ちなみに英訳すると、

when spring rain of the flower falls floating on all, when green blessing of the fields sparkles all birth on earth, spiritual greatness of the little elf harries where it can help, whether he is holy or he is evil, it pities the unlucky man.

とでもなるか。

難しいなゲーテ。特に2格!人称代名詞を略したり、適当に意訳したりしてごまかすことはできるんだがなー。

ちなみに森鴎外はこう訳している。

雨のごと散る春の花
人皆の頭の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵青人草に
かがやきて見ゆる時、
身は細けれど胸広きエルフ(Elf)の群は
救はれむ人ある方へ急ぐなり。
聖にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。

桜井政隆という人はおそらく鴎外訳を参考にして、次のように訳している。

咲匂ふ花、春雨のごと、
なべての上に漂ひ散れば、
野も狭に満つる緑の恵み、
天が下もろ人の眼に輝けば、
細身のエルフの群は強き霊もて、
救ひ得る方へと急ぎゆく、
聖なりとも、悪しき人なりとも、
幸なき者をあはれと見つつ、

中島清という人はこう訳す。

樹々の花、春の雨にもまがひつつ、
すべての者の上にひらひら降りかかり、
みどり色なす野の恵み、輝き匂ひ、
地に生まれたる者皆に笑みかくる時、
小さきエルフェの大いなる霊のつとめと、
群れて急ぐは、救はれむ人あるところ。
よし其の人に罪はありとも、あらずとも、
その幸なきぞエルフェの身には傷ましき。

秦豊吉という人はこう訳す。

花は春の雨のごとく
すべての上にひらめき落ち
野の緑なる恵みは
すべての地に生ふる者に輝けば
心大きく身は小さきエルフは
人を救はんと急ぎゆくなり。
尊き人をも悪しき人をも
幸なき者を哀れと思ふなり。

ヰタ・セクスアリス

ちと気になって「ヰタ・セクスアリス」を読んでみようと思ったらなんと冒頭に夏目漱石の話が出てくるではないか。

 金井湛しずか君は哲学が職業である。
 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道げどう哲学と Sokrates 前の希臘ギリシャ哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。殊ことに縁の遠い物、何の関係もないような物を藉かりて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳に留とめて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目まじめな講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。
 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかし若もし何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう積つもりで書いているものが、極きわめて滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却かえって悲しかったりする。
 金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。
 そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢ぎようを感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついつい嫌いやになってなんにも書かずにしまった。
 そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

森鴎外は小説でも翻訳でも何でも書く人だが、小説は1897年から1906年までちょっとした休止期があった。その後また小説を書くようになって1909年にはついに「ヰタ・セクスアリス」を書いて懲戒されてしまう。私はなんとなくこれは、夏目漱石が新聞小説を書くようになって、鴎外もそれに刺激されて、さらに自然主義というものが流行るようになって、鴎外も何か使命感のようなものを感じて「ヰタ・セクスアリス」を書いたんじゃないかなと思っていたのだが、その「ヰタ・セクスアリス」にそのへんの事情がそのまんま書いてあるではないか。

この金井君というのは半分くらいまでは鴎外自身のことだろう。鴎外が濫筆家であるのに対して金井君は何も書かない。そこだけが違っている。そりゃまあそうで、小説というものは虚構でなければならず、金井=作者ではまずすぎる。他人だということにしておかなきゃならないからねそこは。ましかし、田山花袋あたりの私小説というか自然主義小説っていうのかな。そういうのにも明らかに影響受けているよね。あー。蒲団は1907年かー。蒲団が許されるんなら俺も書いちゃおうかなーとでも思ったのかな。

鴎外はもともと漱石という人を知っていたのだろう。子規のことも知っていたのだろう。そりゃそうで鴎外はアララギ派に加わったのだから、1903年の時点で子規を知っていたし、子規の古くからの友人である漱石のことも知っていたに違いない。それで漱石が「吾輩は猫である」を新聞に連載し始めて、それが世間で大いに評判になったから、自分も何か書かずにはおれない気持ちになったんだと思う。

ていうかウィキペディアを読んでもそんなこと何にも書かれてないのだが、今まで誰もこのことに気付かなかったのだろうか?誰も指摘してないの?いやそんなはずはない。「ヰタ・セクスアリス」と「吾輩は猫である」の関係について研究した論文はあるはずだが、誰もそんなことには興味がないのだろう。

たとえば「作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。」「作者が悲しいとか悲壮なとかいう積つもりで書いているものが、極きわめて滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却かえって悲しかったりする。」というのは鴎外自身のことであろうし、「芸術品として見るのではない。」「芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。」と思っているのも鴎外であろう。鴎外は芸術品としての小説を書こうとして世間の評判がよろしくなかったから、しばらくやめていた。鴎外がどんな作品を書こうと思っていたかは初期の作品や日記をみれば明らかだろう。また芸術品と言うに足る小説とはたとえば彼が激賞した樋口一葉の小説のようなものをいうのだろう。

「技癢」とは何かがしたくてむずむずうずうずすること。鴎外も『猫』や『蒲団』を読んで、技癢を感じていたのだ。秀才で、良いとこのボンボンで、好奇心旺盛で、何でも自分でやってみなくては済まない人だったんだと思うなあ。

それはそうと成島柳北も「航西日乗」という紀行文を書いていてしかもそれはすべて漢詩だけでできている。鴎外は柳北の「航西日乗」を見て自分も日記を書こうと思ったのに違いない。だからあんなにやたらと詩が多いのだ。こうしてみていくと鴎外という人はけっこう人に影響されることが多いような気がする。

成島柳北「航西日乗」から少々詩を引用してみよう。かなりひどい詩が多い。

回頭故国在何辺 休唱頼翁天草篇 一髪青山看不見 半輪明月大於船

見渡す限り青海原で陸地は見えない。頼山陽が天草あたりで大海原の詩を作ったが、俺様はもっと遠くまできたんだぞ。海に浮かぶ半月は船よりも大きく見える。

幾個蛮奴聚港頭 排陳土産語啾啾 巻毛黒面脚皆赤 笑殺売猴人似猴

現地人がたくさん港に集まり土産物を並べてぺちゃくちゃしゃべっている。巻き毛、黒い顔、赤い足。サルを売っている人間がサルに似ていて思い切り笑った。

成島柳北やっぱ面白い人だわ。永井荷風に好かれてたのもわかる。

ついでに頼山陽の詩「泊天草洋」も引用しておく。

雲耶山耶呉耶越 水天髣髴靑一髮 萬里泊舟天草洋 烟橫篷日漸沒 瞥見大魚波閒跳 太白當船明似月

雲か山か呉か越か 海と空の境が一筋の青い髪のように見分けがたい 万里の旅をしてきて天草灘に船宿りする 窓の外にはもやがかかり日はようやく沈もうとしている 大魚が波間に跳ねるのが見えた 宵の明星が船の上に出て月のように明るい

1984

なぜか若者らに 1984 (1Q84じゃないほう) の読書感想文を書かせるということをやったのだがなかなか興味深い。ビッグブラザーやニュースピークは悪いという、確かにビッグブラザーはプライバシーを無視したあからさまな監視社会、管理社会であって、よろしくない。ただ納税とその対価としての公共サービスというものがある以上、市民はある程度まで管理されなくてはならず、もし管理が緩いと税や社会保障費負担の不公平とかさまざまな問題が生じる。マイナンバーカードはやめろというのと同じだ。

漢字の種類を制限しようということは秦の始皇帝のころからすでにあったわけで、中国共産党の専売特許というわけではない。言語は人工的なものだ。義務教育は富国強兵殖産興業のため、近代国家は言語を、教育を管理する。学習効率をよくしようとすることは必ずしも悪いことではない。ドイツ語が簡略化して英語が生まれ、さらにピジンやクレオールが生まれる。サンスクリットからパーリ語がうまれる。古典語から現代口語がうまれる。あるいは簡単に学習できることを目的としたエスペラントなどの世界共通語が考案されたりもした。ニュースピークというものはそうしたものの一種だ。Basic English、Simplified Technical English、ウィキペディアにもシンプル英語版などというものがある。

政府ばかりではない。マスメディアも報道しない権利を行使することによって、SNSもシステムの匙加減である言葉ははやらせたり、他の言葉は人の目に触れないようにすることができる。

問題は良いか悪いかということが明確ではなく、周りが間違っているように見えるが間違っているのはしばしば自分のほうだ、ということだ。正岡子規が「再び歌よみに与ふる書」で「見る所狭ければ自分の汽車の動くのを知らで、隣の汽車が動くやうに覚ゆる者に御座候。」と言っているが、子規が乗っている汽車が動いているのか止まっているのか、子規自身にすらわかるまい。過去を断罪することはたやすいが、これから全く新しいメディアが発明されれば人はまだそのメディアに対して免疫がないから、経験に頼ることもできず、昔の人と同じように扇動されたり同調圧力に屈したり、付和雷同したり、思考停止したり、陰謀論が流行ったりするわけで、ホモサピエンスという種は何十万年もまったく進化していないから、ナチスドイツやコロナ騒ぎのようなことは再び起こるし、それをできるだけ早く察知して回避するにはやはり、すべてのことをとりあえず疑ってみる、比較してみるというのは大事だろう。

大阪の中之島図書館を図書館として残すか残さないかという話が twitter で盛り上がっていたが、私は維新の会に同情を禁じえなかった。建築物の価値と、その建物が図書館として使われるかどうかは別問題だろうと思う。あれは明治のころには意味があったかもしれないが、現代において図書館としての機能を充実させたければ、郊外か地下かもしくはビルの中に倉庫のようなフロアを作ってそこを図書館にすれば十分だろ。もしくはオンラインの、青空文庫や国会図書館デジタルコレクションのようなものを充実させたほうが良いに決まっている。また中之島の建物は、民間に払い下げて商業施設にするかどうかはともかく、図書館として使い続ける意味はほぼないと思う。本好きにはしばしば本を実際に読まない人、図書館を利用しない人、図書館の利用方法や価値がわからぬ人、本を読むという目的以外に図書館を使いたがる人が多く(実際多くの読書家は本を読んでいる自分、というか、本を読んでリラックスしている時間とか雰囲気、が好きなだけで本の中身なんかどうでも良いんじゃないかと思えることが多い)、そうした人たちの声ばかりがバズるのが問題だ。

神宮外苑の銀杏並木にしてもあれは関東大震災以後に植えたもので、せいぜい100年の歴史しかないのだから、伐りたきゃ切れば良い。こればかりは小池都知事に同情する。あれを切ってならんというのであればさっさとお濠や墨田川沿いに建てた高速道路を撤去して江戸時代の景観を戻してほしい。

航西日記を現代語訳していて wordpress に「更新に失敗しました。データベース内の投稿を更新できませんでした。」と怒られるので調べてみると、phpMyAdmin で文字コードを utf8mb4 にしろなどと書いてある。使われている漢字が特殊すぎてデータベースに格納できないのかと思って、調べてみるとデータベースは最初から utf8mb4 になっているじゃないか。わけがわからない。しかし特定の漢字とデータベースの相性が悪いことが原因なのは確からしいんで、できるだけ普通の漢字に置き換えてやり過ごした。wikisource に原文はあるのだし、森鴎外が使った漢字にこだわる理由もない。

1984については以前も書いていた。

これも。

georg-orwell.org 1984

似たようなことを以前にも書いていた。