身を持ち崩してから、父さんは生活もままならないから、ご先祖様が傭兵で立身出世したということもあると思うけど、もう一度家をもり立てようと、兼ねてから計画していた通りに、今度は自分から州兵に志願して、ピエモンテの外人部隊に加わった。父さんは夜寝る時に、僕に戦陣訓を語って聞かせたものだった。
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おまえもいずれ、我がスイスの一兵士として戦場に立つこともあろうから、今から覚悟して、良く聞いておけ。
決して他人事ではないのだ。
我がスイスは小国、欧州の真ん中に位置する小さな自治州の寄り合い所帯、常に大国間のパワーポリティクスの犠牲になってきた。しょせんアルプスの天険も我々を守ってはくれぬ。戦乱を避けることはおろか、独立を保つことすら、常にあやうい。スイスはもともと自治州が同盟を結んで神聖ローマ帝国、つまりハプスブルク家から独立して出来た国だ。ヴィルヘルム・テルの話はおまえも知っているだろう。自分の息子の頭に乗せたリンゴを射ることができたら罪を許そうと、オーストリア人の代官に命令されて見事一発で射抜いた。テルは、スイス独立初期の伝説的英雄なのだ(※1)。
独立によって神聖ローマ皇帝の命令でスイス兵が戦争に駆り出されることはなくなったけれども、他の大国、特にフランスから傭兵を貸してくれと言われれば、断り切れないいろいろな事情があるのだ。またスイスは貧乏な山国だったから、獣らといっしょに原野に育ち、忍耐強く頑健な男共は、外貨獲得のために傭兵になることが多かった。
我がスイスは、ヨーロッパのいろんな戦争に巻き込まれて、特にフランスとオーストリアという大国の板挟みにあって、スイス兵は立場の弱い傭兵なものだから、いつも最前線の危険な軍務に従事させられる。
ルイ14世の頃に欧州全土を巻き込んだ一連の戦争(※2)では、一度に4万人以上のスイス傭兵が敵味方に分かれて戦った。フランス革命の時、テュイルリー宮殿を護衛していて、ルイ16世に見捨てられて民衆に虐殺されたのも、スイスの傭兵だった。ナポレオンがモスクワ遠征から逃げ帰るときに、殿軍(しんがり)を任されてほとんど全滅しかけたのも、スイス兵だった。
そうやって国際政治にブンブン振り回されて、スイス傭兵があっちこっちに引っ張り出されては悲劇的な戦死を遂げたものだから、初代のナポレオン・ボナパルトが失脚したときに、ヴィーン会議で我がスイスは永世中立国となったのだがな。しかし、ヴィーン体制もまたわがスイスをうまく利用しようとしただけだった。そういう長年の血なまぐさい歴史の結果、今やスイスでは国外への傭兵派遣をほとんど完全に廃止しようとしている。少なくとも州単位での傭兵派遣はもはや禁じられた。
俺が従軍した戦いは主に4つ。最初の2つはオーストリア軍との戦いで、1つはマジェンタの戦い、もう1つは最大の激戦だったソルフェリーノの戦いだ。3つめは教皇軍とのカステルフィダルドの戦い、最後は両シチリア王国の残党たちの掃討戦だ。1859年早々、俺たちが所属していたスイス連邦部隊は、まだアルプス連峰が氷に閉ざされている頃合いに、ピエモンテでフランス軍に合流しそのまま戦闘に加わり、延々1861年の3月末まで、いわゆるイタリア統一戦争と呼ばれる戦争の全期間に渡って俺は従軍したわけだ。
俺はまずグラウビュンデン州で志願して、予備役として登録された。州都クールの庁舎の役人の言うことには、「10年前の欧州全土をゆさぶった革命以来、どこの国の政情も極めて不安定だ。イタリア方面ではピエモンテが盛んにオーストリアを挑発し、フランスが介入すれば今度はプロイセンが黙ってはいない。そうなればイギリス、スペイン、ロシアも巻き込まれて、ナポレオン戦争のときのような欧州大戦に発展するかもしれない。いずれにせよ傭兵の出番はこれからいくらでもあるだろう、」と。
それで日雇い人足の仕事などしながら待機していたが、1週間もしないうちに出頭命令があって、「とうとうオーストリアがピエモンテに宣戦布告して交戦状態に入った。フランスは自動的にピエモンテの側に立ってオーストリアに宣戦布告する。ついては、報酬は望み通りにはずむので、ピエモンテに速やかに大軍を投入してもらいたい、スイス連邦軍の精鋭をできるだけたくさん、ピエモンテ州のアレッサンドリアに派遣するように、」そう要請されたそうだ。そこで俺はまずピエモンテ軍所属の傭兵として、イタリアに行くことになった。
グラウビュンデンから南へ、残雪を踏みしめてサン・ベルナルディーノ峠を越え、マッジョーレ湖の上流、ティチーノ州に入る。そのまま下ると敵国オーストリアが支配するミラノだ。アレッサンドリアに行くにはミラノを迂回しなくてはならないが、すでにミラノからオーストリア軍がティチーノ川を越えてピエモンテ領内に侵入していた。いきなり戦闘の最前線を通り抜ける形になった。
※1 スイス独立は1291年。当時、神聖ローマ帝国は、大空位時代 (1254 ― 1273) の直後で、この権力の空白期間に、スイス出身のハプスブルク家が神聖ローマ帝国全土に影響力を及ぼすようになり、次第にハプスブルク家のオーストリア大公が神聖ローマ皇帝を世襲するようになる。同郷ハプスブルク家の支配を嫌ったスイスのいくつかの州が自治権を守るために連盟したのがスイスの始まり。ヴィルヘルム・テルがオーストリアの代官を射殺したのは1307年と言われる。
※2 ルイ14世(在位1643―1715)の時代には、ネーデルラント(1667―1668)、プファルツ選帝候領(1688―1697)、そしてスペイン(1701―1714)の継承戦争が起きた。ネーデルラント継承戦争は、スペイン王女マリー・ルイーズがルイ14世の王妃となるときに持参金を支払わなかったために、マリー・ルイーズの王位継承権は放棄されていない、つまりフランス王妃が南ネーデルラント(ベルギー)女王に即位できるはずだ、というルイ14世の主張で起きた。すでにスペインから独立し共和国となっていた北ネーデルラント(オランダ)はフランスの領土拡張を脅威とし、イギリス、スウェーデンと同盟してフランスを南ネーデルラントから退けたが、その報復にルイ14世は逆にイギリスとスウェーデンを味方につけてネーデルラント侵略戦争 (1672―1678) を起こす。ネーデルラント共和国はオーストリアとスペインに援助を求めて対抗した。プファルツ選帝候領継承戦争は、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットがプファルツ選帝侯カール2世の娘であったため継承権を主張した。スペイン継承戦争はスペイン・ハプスブルク家が断絶し、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがマリー・ルイーズの長男の次男であったために、スペイン王を相続してフェリペ五世となったが、これに反対したオランダ、オーストリアが宣戦したというもの。なおスペイン・ブルボン家は現在までスペイン王家として存続している。