デーテ 11. 叔父の帰郷

 ドムレシュクの人たちは、父さんが、ナポリではガリバルディの赤シャツ隊の切り込み隊長だったとか、シチリアでは悪虐非道の限りを尽くしたとか、私的な喧嘩で人を殴り殺したりとか、そのために軍隊を脱走したりとか、さんざん噂したのだけど、話には尾ひれがつくもので、実際には、そんなむちゃくちゃな行状はなかったのじゃないかなあ。何しろ父さんは工兵だったから、もっぱら後方支援に当たっていたのだと思うし。

 僕の生まれた年は、イタリア統一がなって3年後くらいだから、父さんが軍役を解かれて、まだナポリに滞在していた頃に僕は生まれたはずだ。でも、僕にはナポリの記憶がない。

 ナポリで経営がうまくいかなくなってから、僕たち親子は、イタリアのいろんなところをさまよった。父さんは、傭兵時代に知り合った、ピエモンテやロンバルディアの仲間たちをあちこち頼ったらしい。広い畑の中の町だったり、海のそばだったりした。でもいつも、僕がその土地に慣れるより前に引っ越してしまう。最後に大きな町、ミラノだと思うんだが、そこに着いたとき、「母さんはどうしてもスイスには帰りたくないという。だから母さんを残して二人でスイスに帰ろう、」などと父さんは言い出した。僕は、母さんと別れたくないと泣いて頼んだ。「母さん、父さんと一緒にスイスに行こうよ」僕は母さんにお願いした。そしたら母さんは「私と一緒にナポリに帰りましょう、トビアス。父さんは、どうしてもスイスに帰りたいというのだけど、私はイタリアを離れたくないの。」という。

 「母さん、僕と母さん二人きりでどうやって食べていくの。」そう聞くと、「スイスに帰ったって事情は同じよ。食うや食わずの生活をしなきゃならないんなら、スイスにいるよりイタリアにいるほうがずっとましだわ。」

 父さんは、とてもいらいらし始めて、「俺と一緒にスイスに来るか、母さんとイタリアに残るか、どちらか選べ」と言う。僕にはどちらも選べなかった。「ねえ、僕もすぐに大きくなって父さんの仕事を手伝えるようになるよ。僕が働けるようになるまでしんぼうして、ずっと三人で暮らそうよ。」僕はそういった。でも、父さんも母さんも、とても困った顔をして、黙りこくってしまった。

 その夜、母さんは、眠っている僕を起こして、「さあトビアス、服を着なさい、そして私と一緒に逃げよう。そしたら、父さんは一人でスイスに帰るでしょう。あんたが来なきゃ、私一人ででも、ナポリに帰りますよ。」そう言って、僕を連れ出そうとした。母さんは僕と自分の分の荷作りをしてすぐにも夜逃げする気だったんだけど、僕が母さんを引き留めて、母さんもその晩は諦めてしまった。

 結局父さんは母さんを無理矢理説得して、母さんはいやいや、僕たち親子3人は、アルプスをよじ登って、サン・ベルナルディーノ峠を越えて、ドムレシュクに戻ってきた。父さんにとっては2度目の帰郷、最初に故郷を出てから15年も経っていた。

 僕はといえば、初めて見る山国の景色に、僕には毎日が驚きの連続だった。

 スイスでの暮らしはやっぱり全然うまくいかなかった。母さんは子供の頃ずっと父親に糸車で糸を紡ぐ仕事をやらされていたんだけど、スイスに戻ってくるとやっぱりおんなじ仕事を朝から晩まで、来る日も来る日もしなくちゃならなかった。母さんはいつもナポリに帰りたがった。父さんと母さんの関係はギクシャクしていて、母さんは時々家出までして、しばらく家に戻らなかった。父さんはそのたびに癇癪を起こして母さんを殴った。そうしているうちに母さんは重い病気にかかってしまい、長患いした後、回復せず死んでしまったんだ。母さんにはまったく身寄りがなかった。親戚はみんな母さんより先に死んでしまっていたし、幼馴染みの友だちともまったく連絡を取っていなかったし、隣人に頼ったり助け合おうともしない人だった。なぜ母さんがそんな人だったのか、僕には良くわからない。ちょっと変わった性格の人だったことは確かだ。

 父さんはすっかり母さんに愛想を尽かしてしまっていて、母さんが勝手に病気にかかって死んでしまったと腹を立てて、お葬式もせず、お墓に墓標を立てることさえしなかった。まるで無縁仏みたいな扱いをされたんだ。

 母さんが死んで、みんなは父さんのせいで母さんが早死にしてしまったって父さんを責めた。そうなのかもしれない。でも僕には、父さんも母さんもどっちもどっちに見えた。母さんも父さんも意固地で聞き分けがなかった。父さんは人の忠告を聞かない人だけど、それは母さんも同じだ。実際、父さんは確かに癇癪持ちで厳しく、酔っ払うと暴れたけど、僕自身父さんから虐待を受けたとは思ってない。母さんは僕を嫌ってはいなかったが、僕をどう扱って良いかわからず、誰にも頼ることもできず、半ば育児放棄か、育児ノイローゼみたいになっていたと思う。僕は父さんも母さんも好きだ。二人がうまくやっていけなかったのはほんとうに不幸だったと思う。

 父さんもやはり1人で僕を育てることができず、途方に暮れて、ドムレシュクの親戚たちを頼った。ドムレシュクの人たちはみんな、父さんがいきなり目の前に現れて、まるで疫病神か亡霊を見るようで、若い人たちはもう父さんを知りもしない。年寄りばかりが知り合いだった。父さんは、浮浪者かと見紛うおちぶれようで、そのうえ、

 「この子が自分で働いて食っていけるようになるまで、しばらく預かってくれないか?今は俺も、このとおり落ちぶれて見る影もないが、そのうち何年かかろうと、金を稼いで、きっとお礼はする。」

と僕を親戚の誰かに預けて、自分はしばらく実入りの多い出稼ぎ仕事でもしようとしたのだけど、みんな父さんとこれ以上関わり合いになって面倒を被りたくなかったんだ。どこの家でも、ひどく冷たい仕打ちを受けたよ。父さんは

 「畜生、こんな田舎、もう二度と足を踏み入れてやるものか!」

とかんかんに腹を立てて、僕を連れて、さらに山を下って、グラウビュンデンのどんづまり、デルフリに住み着いたというわけだ。デルフリには僕や父さんの世話をしてくれる親戚もいなくはなかったし、父さんは、ヤギを飼ったり、ヤギの乳でチーズを作ったり、家具をこさえて売ったりしながら、村のはずれの掘立小屋で、自給自足に近い暮らしを始めて、僕を育ててくれた。父さんもデルフリを第二の生まれ故郷のように思って、それなりに気に入っているように見えた。

 それから何年かして、ようやく国民学校を卒業し、兵役にとられる年になると、僕はそのまんま傭兵にさせられてしまうところだった。父さんは、僕がただで手に職をつけるため、自分と同じように工兵にしたかったらしい。だけどスイスは連邦政府ができて、もう傭兵はやめようという流れになってきたし、僕はアーデルハイトとつきあいだしていたから臆病風に吹かれてしまい、彼女も父さんの話を聞くともう怖気をふるって、僕が戦争に行くのを嫌がったものだ。僕は結局、父さんや親戚、それからアーデルハイトの親に学費を前借りして、そのうち返すという約束で、メールスで徒弟になったんだ。

**

 とまあ、こんな具合に、トビアスは私に、おじさんが傭兵だった頃の話やヨーロッパの国際情勢のことやら、身の上話などを、たびたび話して聞かせたものだったわ。

 

 

 こいつは驚いた。身の上話から政治のことまで、よくまあ次から次へと、べらべら良くしゃべるスイス女だな、口から生まれたとはまさに彼女のことだと、俺はあきれたが、俺は、その話の腰を折ることもなく、辛抱強く、身内ネタばかりでわかりにくい彼女の物語りに耳を傾け、うんうんと頷きながら聞いてやった。

 なるほど、ソルフェリーノの戦いのことは俺も聞いたことがある。ちょうど俺が生まれて間もない、今から30年ほど前にイタリアであった戦争で、スイス傭兵という「血の輸出」禁止のきっかけともなり、またスイス人アンリ・デュナンによる赤十字運動の発端ともなった戦争だ。皇帝ナポレオンと諸大国の間で戦われたライプツィヒの戦いに次ぐ規模の、歴史的大会戦だ。

 トビアスという男、つまりこの女の義理の兄は、イタリア統一戦争の後に生まれたことになるから、今まだ生きていれば、やはり俺と同じくらい、30台半ばの年になっているはずだ。

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