デーテ 12. 姪と二人の暮らし

 話は戻るけど、遺された姉夫婦の子、姪のハイディを母と私が引き取ったのだけど、私はそのときまだ22才だったわ。いろいろ遊びたい盛りだったけど、贅沢なんて言えない状況だったの。姉夫婦が健在だったら、私も今頃はどこかの家に嫁いでいたに違いないわ。縁談の話もいくつかあったのだけど、うちにハイディという小さな子がいて、母は老い先短く、家にはたいした資産もなく、私と結婚するともれなくハイディもついてくる、という状況では、普通の殿方ならどうしても躊躇してしまうわよね。

 私の青春は、身内に引き続いた不幸のために台無しになってしまった。特にハイディという幼子のために。老いた母と自分を養うだけでもたいへんなのに、まだお乳を飲み、おしめもとれない子供の世話するのだから、ほんとうに毎日働いて食べていくだけで精一杯だったわ。

 そして、ハイディが4才のときとうとう母もいろんな苦労がたたって死んでしまった。

 母は、亡くなる間際まで私にハイディをくれぐれも頼むと言い残していた。ハイディの祖父のおじさんは山に引き籠もったきりになってしまい、みんなからは「アルムおじさん」と呼ばれるようになった。つまり、人里離れた山の牧草地に住んでる変人のおじさんという意味ね。もともと、ナポリ帰りの元傭兵で、凶状持ちだっていう噂だし、山に篭ってからは、村人たちはおじさんを完全に野蛮人か修験者扱い、私とハイディはその唯一の身寄りなものだから、私まで肩身が狭くて仕方がなかったわ。おじさんはおじさんで、人付き合いすると、悪いことばかり覚えて、何一つ良いことはないと、もう極力、下界との接触を避け、「神でも人でもないもの(自然の獣たち)」とだけつきあうようになってしまった。

 それで、おじさんはまったく当てにならないし。どうにも仕方がないので当時25才だった私が姪のハイディを一人で育てることになった。私がおじさんと違って村で信用があるのは、私がハイディを女手一つで立派に育てて、村のしきたりにしろ寄り合いにしても手を抜かず、きちんと真面目に暮らしてきたからよ。

 ずいぶん苦労しただろうねって、そりゃあ、いくらおしゃべりの私だって、言葉で尽くせないほどの苦労があったのよ。

 ハイディはおじさんや父親のトビアスによく似て、髪の毛は真っ黒なちぢれっ毛のもじゃもじゃ。瞳も真っ黒。でも目鼻立ちは姉のアーデルハイトに似て整っていて、肌も赤みがかった白できれいだわ。頭は良くて自分一人でおとなしく遊んでいるから、手はかからないけど、コブ付きでは私が働ける仕事も限られる。

 私のうちには、父が残してくれたデルフリの土地や屋敷、家畜など、わずかながら先祖代々の資産があって、父が死んだあとはそれを人に貸したり母が内職したりなどして、なんとか食べていけたのだけど、その遺産もとっくに食いつぶしてしまって、毎年返す当てのない借金が増えるばかり。なんとか利子だけは返して、頭を下げまくって返済を待ってもらうの。ああ、貧乏ってほんとに嫌なものね。デルフリでは食べていけるような仕事もないので、デルフリ村の父の実家や土地などはすでに借金の担保に押さえられていたけど、それも一切合切処分して、わずかばかりのお金に替えて、 ラガーツ温泉の大きな旅館で、住み込み仲居兼お針子として働くことにしたの。

 ラガーツはもと、ライン川を挟んだ、マイエンフェルトの対岸の、普通の石ころだらけの河原に過ぎなかった。タミナ川が深い渓谷を作って、ここラガーツでライン川に合流する。このタミナ渓谷に温泉が発見されたのは、13世紀の頃。道なき道の奥の崖の下に湧き出る秘湯中の秘湯。当初は、狭い崖の底へロープをつたって下りたのだそうよ。それでもその頃から大勢の人が、難病を癒すために、この湯治場を訪れていた。

 タミナ渓谷は、古来、プフェファース修道院の所領で、18世紀頃までに、タミナ渓谷の出口に当たるプフェファース村に、修道院が簡易宿泊施設付きの療養所を用意する。

 今世紀になって、いわゆる蒸気機関車というものが実用化され、私が生まれた頃に、ちょうどスイスでも州政府が民間会社に鉄道の敷設を認可し始めたので、スイス国内でもバーゼルからチューリッヒ、クールからサンクトマルグレーテンまでつながって、ドイツからバーゼルまで鉄道が延びてきて、最後にチューリッヒとサルガンスの間にも鉄道が敷かれたから、とうとうドイツ各地からグラウビュンデンまで鉄道で旅できるようになってしまった。

 そうすると、鉄道経由でやってくるお客様目当てに、線路沿いのラガーツまで木製のパイプラインでもって温泉を引いてきて、保養所やホテルを建てようって計画が持ち上がったの。

 ドイツの大手資本がどんどん進出してきて、当時世界で初めての温水プールなども作られたりして。まあ、源泉は36.5℃しかないから、パイプラインで引いてくるうちに冷えてしまって、温泉というよりは鉱泉に近いんだけどね。

 で、たちまちいっぱしのリゾート地のようになって、山育ちのスイス娘たちにも、女中や仲居に大勢募集があって、ここら一帯では一番の観光産業の拠点となって、あっという間に一つの大きな町ができあがったというわけなのよ。

 今やマイエンフェルトからフランクフルトまでは、ライン川沿いの鉄道を、夜行列車に乗って一晩で着くことができるようになったわ。なんて便利な時代になったのかしらねえ。スイスにも毎年大勢の観光客が訪れて、観光業がスイスの一大産業に数えられるようになったのも、この頃からよ。

 プフェファース修道院には、私みたいに、ラガーツで働く子持ちの女から、その連れ子を何人も預かって育てていた。ハイディの担当はウルゼルばあさんという、少し耳の遠い人。ともかくこの修道院があるから、私は安心してハイディを預けて仕事することができたの。プフェファースはラガーツから険しくうねった山道を一時間は登らないといけない。私は毎日朝から晩まで忙しいから、ハイディと会えるのは週に一度、二人で教会に礼拝に行く日曜日だけ、あとはウルゼルばあさんに、ハイディのことは何もかも任せきりにするしかなかった。

 でも、仕方ないでしょう。他にどんな方法があったというのかしら。どうやって2人食べていくか、全部自分で考えて、自分できりもりして。これまで無我夢中で生きてきたわ。

 みんないつも、物心つくまえに両親に死なれて、1人残されたハイディが不憫でならない、かわいそう、って、そればっかり言うけど、ほんとにかわいそうなのは私の方よ。うら若い、これからっていう娘が、結婚もしてないのに子育てと雇われ仕事に追われるなんて。ほんとうに私って絵に描いたような不幸な星の下に生まれたのね。気づいたときにはもう30過ぎの独り身のおばさんになってしまったわ。

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