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おやおや、こりゃおかしなことになって来たぞ。どうも今夜このデーテという女には、彼女の叔父さんの霊が憑依しているらしい。昔のピエモンテの戦争の話を始めやがった。語り口からして、彼女自身が話しているとは、とても思えない。
どれ、ピエモンテ産の冷えたワインで、ピエモンテ料理のバーニャカウダでも突きながら、ゆっくりと拝聴することにするか。なあ、君も食べたいだろう。
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敵国オーストリアの元帥はミラノ総督のギュライ将軍。彼は、かの行進曲で有名なヨーゼフ・ラデツキーの後任だった。ラデツキーはハンガリーの没落貴族の息子で叩き上げの軍人。ナポレオン戦争の頃から従軍しており、イタリア独立の野望をくじき、九十歳過ぎまで現役だったが、やはりハンガリー人のフェレンツ・ギュライに、ミラノ総督を交代する。ギュライの父はナポレオン戦争時代に名を成した将軍であった。
ギュライ軍はポー川の支流の一つ、国境のティチーノ川を渡り、ラデツキー将軍がピエモンテを破った戦いで有名な、ノヴァーラの街まで、すでに侵攻していた。
俺が最初にやらされた仕事は、やはりポー川支流のセージア川の堤防に発破をかけて決壊させ、辺りの水田を水浸しにすることだった。それ以来俺はずっと工兵部隊にいた。俺が今も大工仕事などやっているのは、軍隊で土木や建築やらの仕事を覚えたおかげだ。
4月終わりから5月にかけて、この時期ポー川の支流はアルプスの雪解け水でいずれもみなぎっていた。その上、ピエモンテに味方するかのように連日豪雨が続いた。おかげでギュライは数日間、ノヴァーラで足止めを食った。俺たちはそのすきにノヴァーラの対岸の町ヴェルチェッリに入ったが、やがてオーストリア軍が大挙してセージア川を渡ってきたので、ヴェルチェッリを放棄してポー川南岸のカザーレに移動した。
俺たちは結局、目的地のアレッサンドリアまではいかず、ここ最前線カザーレでふんばることになった。カザーレは、別名セメントの都とも呼ばれるくらい、セメントだらけの近代的な要塞の町だ。かつてラデツキー将軍もこの町を落とすことはできなかった。ヴェルチェッリにオーストリア軍が進駐してきた。俺たちはさらにカザーレの堡塁をセメントでがちがちに固める作業にかかった。カザーレの西とピエモンテの首都トリノの東に、南のアペニン山脈からコブのようにつきだしたモンフェッラート丘陵地帯はセメントの大産地なのだよ。モンフェッラートを迂回して、ポー川はカザーレから北を流れてトリノに至る。俺たちは毎日モッコを担いで、ポー川の中州から砂を採ったり、モンフェッラート山からセメントを運び出したりと、さんざんこきつかわれてね。
敵は、北イタリア一の大河、ポー川に懸かる橋を渡ろうとしたが、対岸はカザーレ要塞の真っ正面。集中砲撃を浴びてしまう、橋以外から渡河しようとしても何しろ川幅は広い。渡ったとしても、当時世界最大規模の星形要塞(※日本の五稜郭をさらに巨大にしたもの、と思えばよい)カザーレを落とすのは不可能に近い。カザーレとアレッサンドリアを無視して首都トリノへ向かえば、ミラノへの退路を断たれ、ピエモンテのど真ん中で孤立してしまうからね。結局ギュライはカザーレとアレッサンドリアを迂回しつつ東からじんわりとピエモンテ軍を包囲しはじめた。
俺たち百人ばかりのスイス傭兵はまるごとピエモンテ軍に配属されたわけだが、このピエモンテ兵というのがカザーレに入ってみて知れたのだが、将官から歩兵まで合わせて総勢千人しかいない。たったこれだけであのオーストリア・ハンガリー大帝国に喧嘩を売ったのかと、俺はあきれかえった。総司令はエンリコ・チャルディーニ将軍。
チャルデーニは生粋のピエモンテ人ではない。領主の家柄でも、軍人の子でもない。彼の父は土木工学の技術者だったそうだ。オーストリアと教皇領の緩衝地帯、モデナ公国の出身。とはいえ彼が生まれたとき、モデナはナポレオン帝国の衛星国になっていたんだが、その後ヴィーン体制期にはオーストリア・ハプスブルク家の分家がモデナを治めていた。それでチャルディーニは20歳まで医学を学んだが、革命やらなにやらの政情不安で亡命しそれから軍隊に身を投じた。というよりも土木や医療ができる彼のような理系の人材を今の軍隊が欲していたし、彼自身一番良い食い扶持だと思ったんだろうね。1848年、ノヴァーラの戦いでロンバルディア義勇軍を率い、以後、ピエモンテの軍属となり、途中からピエモンテも参戦したクリミア戦争で一躍頭角を現したのである。
チャルディーニは絵に描いたようなおしゃれで陽気なイタリア男で、ある日俺たちスイス兵だけを集めて言った、
「やあ、諸君。はるばるスイスからようこそ。
我がイタリアが誇る山海の珍味をみなさんに御賞味してもらいたいところだが、あいにく農夫は野良で塹壕を掘り、漁師は丘に上がって薬莢に火薬を詰めるのに忙しく、コックたちもピザのかまどじゃなくて溶鉱炉の番をしているもんでね。我が軍自慢の糧食をご堪能いただくこともできなくて残念だ、ははは。」
ギャグをかましたつもりかもしれないが、無粋なスイス兵らはくすりとも笑わなかった。
「さてと。オーストリア軍というのは数ばかり多いが、ただの野合(やごう)だ。ミラノ駐屯軍は指揮官だけがオーストリアやハンガリーの貴族の出身で、下士官はロンバルディアやヴェネツィアの領主、兵卒は地元の農民だ。たまたまオーストリアに支配されているから税を納め軍役に就いているだけで、だれもオーストリアのために死のうというやつはいない。ちょっと小ずるく立ち働いて、出世してやろうと考えている単なる寄り合い所帯。
しかし我らピエモンテ兵は少数精鋭。ノヴァーラ、クリミアで実戦を経験したベテラン揃い。その上、小粒だがイタリア一の工業国ピエモンテと、図体ばかりでかくて旧態依然とした封建国家オーストリアとは近代兵力に雲泥の差がある。
しかもまもなくフランス軍が隣のアレッサンドリア要塞に到着する。こちらはなんと五万人だ。その上、宰相カヴール閣下が練りに練った秘策がある。必ず勝てる戦だ。
傭兵も勝ち戦に乗るか、負ける側につくかじゃあ、まるでうまみも違う。君たちは良いほうについたよ。」
俺は、チャルディーニ将軍の話を、話半分に聞いた。フランス軍が来るかどうか、いつ来るかなんて重大な機密を、将軍が俺たち傭兵にぺらぺら話すはずがない。逆にこんな膠着状態が何週間も、或いは何ヶ月も続くのじゃなかろうかと思ってたところが、なんと、フランス皇帝ナポレオン3世が、実はもう昨日のうちにアレッサンドリアに入ったと聞いて、びっくり仰天した。なぜって、彼は5日前にはまだパリに居たのだから。
ナポレオン3世は、ピエモンテに最後通牒が送られても、自国の陸軍司令部に武器弾薬や兵站の準備すら命じてなかった。最後通牒は4月23日、宣戦布告は4月29日、フランスがオーストリアに宣戦布告したのが5月3日、皇帝がパリを発ってイタリアへ向かったのが5月10日。アレッサンドリアに着いたのが14日のことだった。
アレッサンドリアはジェノヴァの北、ピエモンテ州都トリノの東、ミラノの南西に位置し、トリノ、ノヴァーラに次いで、ピエモンテで三番目に大きな町だ。アレッサンドリアの郊外のマレンゴ村はナポレオン戦争時代の激戦地の一つ。かつてエジプト遠征から帰国したナポレオン・ボナパルトはクーデターを起こして第一統領となり、政権を掌握。片やオーストリア軍は、ナポレオンの留守中にマントヴァ・ミラノ・アレッサンドリア・ジェノヴァ・トリノを攻略。ロンバルディア・ピエモンテを完全に制圧し、さらにフランス本国へ侵攻しようとしていた。ナポレオンはオーストリア軍の退路を遮断すべく、レマン湖畔ジュネーヴに兵を集結し、ローヌ川上流の渓谷を抜け、グラン・サン・ベルナール峠を越えてミラノへ入城。ミラノ市民は、ナポレオンはすでにエジプトで戦死したと信じていた。市民たちはナポレオンを旧時代からの解放者としておおむね好意的に見ており、もろ手を挙げて開城し、ナポレオン軍を迎え入れた。敵の意表を衝いたナポレオンはモンテベッロでオーストリア軍を下し、さらにオーストリア軍が占拠していたアレッサンドリアに進軍中にマレンゴで両軍の全部隊が会戦。その結果、フランス軍が完勝したのだ。マレンゴは両軍が死力を尽くした、きわどい戦いだった。もしオーストリアが勝っていたら、北イタリアはまるごとオーストリア領となっていただろうね。
ピエモンテは、イギリスやベルギーなどと比べれば遅れていたが、当時イタリアの中では最も早く鉄道が発達していた。ましてオーストリアよりはずっと進んでいた。ピエモンテは、オーストリアと戦端を開くより以前から、戦争にこれらの鉄道を利用する秘策を考えていた。前の国王カルロ・アルベルトの時代から国費を投じて、首都トリノからアレッサンドリアを経て地中海の港町ジェノヴァをつなぐ鉄道の建設を始める。ジェノヴァはずっと独立した共和国だったがナポレオン戦争の結果ピエモンテに併合されていた。アレッサンドリアからジェノヴァまでの区間には、イタリア半島を縦断するアペニン山脈の北端が延びている。ピエモンテは当時としては世界最長のトンネルをこの山脈に通して鉄道を開通させる。これによりピエモンテに一本の動脈が通った。後発ではあったが、ピエモンテは鉄道技術に自信を持った。
さらに、トリノからサヴォイアとフランスの国境近くの町スーザまで、またアレッサンドリアからカザーレ、ヴェルチェッリ、ノヴァーラに至る鉄道を完成させる。スーザからフランス領までは、アルプス山脈が隔てており、当時の技術ではまだここに鉄道を通すことは不可能だった。
ナポレオン3世はフランス南部の町リヨンに集結させていた軍を徒歩と馬車でアルプスのモン・スニ峠(※3)経由でサヴォイアのスーザに移動させた。スーザからアレッサンドリアまでは、鉄道で一日もかからずに兵士や物資を輸送することができる。
フランスは必ずしも鉄道先進国ではなかったが、第二帝政開始とともに大投機時代に入り、1855年にはパリ=マルセイユ間が全線開通する。ナポレオン3世自身はパリからマルセイユまでを鉄道で、マルセイユからジェノヴァまでを船で、そしてジェノヴァからアレッサンドリアまでを鉄道で移動した。アレッサンドリアはピエモンテ領内の鉄道のジャンクションであり、故に連合軍の集結地点に選ばれたのだ。
世界戦史にも類を見ない「鉄道を使った電撃戦」。それがピエモンテの宰相カヴールとナポレオン3世の間で、練りに練られた策戦だった。産業革命がもたらした歴史的な転換点の一つだったとも言える。
チャルディーニ将軍は麾下の将兵を集めて言った、
「ギュライは、フランス軍が海路マルセイユからトスカーナに上陸し、教皇領を保護し、それから内陸のモデナ、ロンバルディアへと侵攻してくるのだろうと考えていた。フランスはローマ教皇が大好きだ。ぜひとも自分の影響下に置きたい。かつ、フランス皇帝の甥がサヴォイア公の娘と結婚した上でモデナとトスカーナの君主になる、というもっぱらの噂だからだ。
モデナ公とトスカーナ大公はオーストリアと同じハプスブルク家。彼らはフランスとピエモンテが扇動した暴動のため、すでにお里のヴィーンに逃げ帰っている。
フランス軍は或いはジェノヴァに上陸するかアルプスを越えてくるのかもしれんが、どちらにせよ、イタリアまで来るにはだいぶ時間がかかるのに、パリの皇帝ボナパルトはのらりくらりしている。
そこですばやく、ミラノに隣接し比較的手薄なピエモンテを威嚇し、サヴォイア公を屈服させ、フランス皇帝の介入を未然に防ごうと考えた。
ところが、ナポレオン3世がいきなりピエモンテのど真ん中アレッサンドリアにいると知ったギュライはびっくりしたよな。ハンガリーはブダペスト生まれのフェレンツ・ギュライ伯。領主の家系でお父さんのイグナツ・ギュライも軍人、ラデツキー将軍の同輩で、ともにオスマン帝国や初代ナポレオン帝政と戦った。息子のフェレンツは1816年、17才で軍役に就いたが、彼の初陣は彼が49才の時、1848年の革命の時だったというから、ヨーロッパ全体が平和ぼけしてたヴィーン体制のまっただ中、ハプスブルク家の宮廷でのんきに出世して、老後にさしかかっていきなり実戦を経験したって人だな。
彼は宿敵ボナパルトにどう立ち向かえばよかろうか、と考える。父イグナツなら、あるいはラデツキー将軍なら、どうしただろうか、と。さあ、諸君。君らがもし、ラデツキー将軍なら。或いはギュライ将軍なら。この局面でピエモンテをどう攻めるか。」
最前列に居並ぶ青年将校の一人が言った。
「ミラノ駐屯軍全兵力5万をただちにアレッサンドリアに投入し、フランス本隊を叩きます。」
「なるほど。確かにそれが一番良い策だ。しかし、それはギュライが、フランス軍が実はまだ五千人しかピエモンテに着いてない、という情報をキャッチしていれば、の話だ。もしフランスがピエモンテ内の鉄道を駆使して兵を動員する、というところまで知っていたら、まず鉄道網を修復不能なまでに破壊するだろう。そして、断固としてアレッサンドリアへ進軍し、蟻の子も這い出ぬように包囲したら、ナポレオン三世は孤立無援、捕虜になるしかない。そしたら、たんまりと身代金を払ってパリへお帰り願うさ。しかし、帰ったところでもうパリにボナパルト君の居場所はなかろうね。
ところが、ギュライには、フランス軍が5万人いるか10万人いるかも今の時点ではわからない。どういう仕掛けかしらぬが、フランス大陸軍(グラン・ダルメ)が突如、ミラノから指呼の間、ピエモンテはアレッサンドリアに出現したってわけだ。敵ながら見事な演出。初代ナポレオンの謳い文句「戦争の芸術」って言葉がギュライ頭によぎったろうね。ではどうするかね、中佐(ルーテナント)殿。」
ピエモンテの中佐ということは、おそらくは貴族の子弟。中佐といえど、彼の若さで、千人しかいない国軍の中ではエリート中のエリートだろう。
「ええっと。慎重に敵情を偵察し、ラデツキー将軍のように、弱いところを先に攻め、時間差で個別に撃破すると思います。」
「その通り。10年前、ラデツキーは強かった。何故か。我々イタリア人民がばらばらだったからだ。バルカンでもポーランドでもティロルでも、ハンガリーでも、そしてイタリアでも、オーストリア帝国は、一箇所に味方兵力を集中し、敵には集まる時間を与えず、個別に攻略していく。
つまり、ギュライ君がお馬鹿さんでなければ、ピエモンテ軍とフランス軍が集まる前に、一番弱い、千人しかいないピエモンテ軍を五万の兵で叩こうとするだろう。フランスのナポレオン親征軍はほっといて。しかし、それもどこにピエモンテがいてどこにフランスがいるか知っていればの話だ。戦場では悠長に偵察なんかしてるひまはない。実際戦ってみなければ敵情というものはわからぬものさ。だから、ギュライは我々連合軍の力量や構成を試すべく、初手は比較的少数の兵を繰り出し、弱いとみれば増援する。手強そうだと思えばミラノに籠城して、オーストリア本国の首都ヴィーンと、ハンガリーの首都ブダペストに駐屯する精鋭部隊がミラノ救援に到着するまで、一ヶ月ばかり持ちこたえようという戦略に切り替えるだろう。
ギュライは、ナポレオン戦争時代に確立した、教科書的な戦い方しかできぬはずだ。一方我々は、クリミアで実証された最新の科学戦争をしかける。我々は10年前の我々ではない。ラデツキーの勝利しか知らぬオーストリアがどうでるか。みものだ。」
チャルディーニが言った通りにギュライはモデナ・トスカーナ方面へ割いていた兵を呼び戻し、戦力をピエモンテ戦線に集中しつつ、兵を小出しにして我が方の当たりを探ってきた。アレッサンドリア東の村モンテベッロで戦闘が発生すると、オーストリア兵はフランス兵に榴弾の矢玉を雨あられと浴せられ、撃退された。あっぱれ皇帝直属の精鋭部隊。一応やる気満々。
アレッサンドリアからフランス軍が、カザーレからは俺たちピエモンテ・スイス軍がそれぞれ打って出て、セージア川を渡り、ノヴァーラをめざす。10年前のノヴァーラの大敗こそは、ピエモンテの悪夢であった。王ヴィットーリオ・エマヌエーレが、トリノの王宮から、自ら近衛兵を連れて、我らチャルディーニ軍が露営するセージア河畔のパレストロ村までやってきた。国家の、サヴォイア家の存亡がかかっているのだ。王も気が気じゃあない。
ギュライは、パレストロにいる我が部隊にも兵を差し向けた。とうとう敵にピエモンテ軍の本隊が捕捉されたわけだ。小生意気なピエモンテ兵め。とりあえずサヴォイア公以下ピエモンテ軍を血祭りに挙げれば、フランスはただの助っ人。後はどうとでも料理できよう。
ところがまさにこのとき、アルプスのモン・スニ峠を越えてきたフランス軍本隊が、セージア川対岸に姿を現した。ぎりぎりのタイミング。ギュライ軍は動揺し、すごすごと撤退した。モンテベッロの戦いから10日後、ナポレオン3世到着から15日後、チャルディーニは宿縁の地ノヴァーラを回復する。彼の軍歴はここノヴァーラの敗戦から始まったのだ。しかし感傷に浸っているひまはない。いざ、ミラノへ。
ギュライはティチーノ川を渡ってミラノ領内に後退。川に架かる橋を全て爆破させる。
ティチーノ川は大河で、徒歩では渡河できない。ミラノは11の城門と9つの突角堡をもつ巨大な城塞都市。大河ティチーノ川を防衛線にし、その周辺の水郷の村落を要塞化して待ち構えれば、普通に考えて陥落するような街ではない。
我々は壊れかけた橋を修繕し、また船を並べて浮き橋にしてミラノ領内へ侵攻する。
ミラノ近郊で起きたマジェンタの戦いは、榴弾の戦い、でもあった。中世、黒色火薬の原料の一つ硝石は、厩肥から作られていた。要するに馬や牛の糞尿、藁、堆肥などから作られていたから、大量生産はできない。ところがスエズ運河が通ってからというもの、インドの鉱山から採れる硝石が安く大量に供給されるようになった。ジェノヴァには火薬工場や兵器廠が作られ、武器弾薬を鉄道で最前線のアレッサンドリアやノヴァーラに運ぶ。それまでの戦争を「馬糞戦争」と呼ぶならば、以後の戦争は「化学戦争」と言える。オーストリアはモンテベッロやマジェンタで、それまでの何十倍、何百倍もの榴弾を喰らった。数千人が榴弾の爆撃で死んだらしいよ。味方の被害も多かったんだが、この千人万人単位の傷病兵の救護ってのは、それまでの戦争の常識では、ありえなかったものだ。恐ろしいね、近代戦争というものは。
いずれにせよ、勝利は勝利である。我々はマジェンタの勝利の余勢を駆ってミラノに入城する。俺たち連合軍は結局やっとミラノで全軍が集結したのだった。
俺は、カザーレやアレッサンドリアの星形要塞の巨大さにも度肝を抜かれたが、このミラノのばかでかさと言ったら、もう比べものにもならない。
1848年の革命以来、ミラノは再びイタリア人のものとなった。パリ市民は夜通し煌々と灯りを灯して浮かれ騒ぎ、共和国広場から北駅までに完成した新しい通りは「マジェンタ通り」と名付けられ、また発明されたばかりの化学染料にも「マジェンタ」の名が付けられた。
一方、ミラノを追われた敗軍の将ギュライは更迭、ヴィーンに召還され、華やかな宮廷生活から一転、惨めな老後を送ることになる。オーストリアは代わりに皇帝フランツ・ヨーゼフ一世みずからロンバルディアに入った。
緒戦における心理戦は、ナポレオン3世の大勝利だった。彼の叔父ナポレオン1世ボナパルトも実に無茶なやつだった。常識外れの戦い方をしてなぜか勝ってしまう。ギュライやオーストリア兵がそんな初代ナポレオンの亡霊を彼の甥に見て恐慌状態に陥ったのは、ある意味仕方ないかもしれん。また、ナポレオン3世が叔父にならって無茶な戦い方をしたのも、やはりある意味必然だった。嫌でも彼の叔父の代役を演じるしかなかったのだろう、彼自身に特別な才能はなかったのだから、強引で無茶な叔父のイメージを利用せざるを得ない。
鉄道を兵站に利用することは、ほんの5年前、クリミア戦争で初めて試みられた。ロシアのセバストポリ軍港の背後に位置するバラクラヴァ湾を奪取したイギリス他の連合軍は、セバストポリとバラクラヴァの間にある丘の上まで、約7週間で11kmの複線の鉄道を敷設し、バラクラヴァから兵士や物資を運んだのである。これによってセバストポリ要塞はたまらず陥落した。ピエモンテとフランスはイギリスの側で派兵したのだが、このときクリミア半島で補給に使われた鉄道を見て、今回のアイディアを思いついたのかもしれない。
アメリカのリンカーン大統領は、これらの近代戦を研究し、鉄道や電信などの最新技術を駆使して、軍隊を戦略拠点に迅速に移動させることが、決定的に重要な意味を持つことを見出し、アメリカ全土に鉄道網や電信網を張り巡らして、北軍を勝利に導いたのである。プロイセンのビスマルクも、普墺戦争や普仏戦争でその戦略を踏襲した。
※3 この峠はおそらく古代ローマ時代にハンニバルがアルプス越えしたルートである。或いは、越えた可能性のある峠の中でも、最もありえそうな峠の一つである。
1868年には、この峠を越えて、フランス側のモーリエンヌと、イタリア側のスーザまで、モン・スニ峠鉄道が開通する。このころには統一イタリアによってスーザから南イタリアのブリンディシまで鉄道が通っており、またフランス国内もカレーからモーリエンヌまで鉄道が通っていた。インドを獲得しスエズ運河を開通させたイギリスは、モン・スニ峠に鉄道を敷設する会社を設立する。1871年にはアルプス初のフレジュス鉄道トンネルが開通することによってモン・スニ鉄道は廃止される。