デーテ 9. 両シチリア王国

 スペインのハプスブルク家は後嗣が無く途絶し、継承戦争によってフランスのブルボン家がスペインの君主となった。これがスペイン・ブルボン家。シチリア王国とナポリ王国もスペイン・ハプスブルク家の所領であったが、どうようにスペイン・ブルボン家の分家に領主が代わる。

 ピエモンテを含む欧州の多くの国は、憲法を持つ議会制民主主義の国家に移行しつつあった。大衆万能の時代が到来しつつあった。フランス革命によって生み出された人民軍の強さがそれを実証した。君主は主権者たる国民の上に君臨する存在としてのみ、存在を許されるようになってきた。

 ブルボン家の分家のまた分家、若きシチリア王フランチェスコは、バイエルン公の娘マリア・ゾフィーと結婚し、その直後に父フェルディナンドが崩御したために王位を継いで、まだ1年も経っていなかった。若干23歳。王妃マリアは5歳年下で、まだ18歳。

 フランチェスコは英邁な君主であった。彼にも自分の置かれた立場が、自分の国の命運が、見えていた。ブルボン家の本家がフランス革命で断絶したさまも、まざまざと目にしていた。しかし、歴史の渦中にいるものは皆、過去にあったことはよく見えても、未来はぼんやりとぼやけて見えないものである。その半透明のスクリーンに自分に都合の良い幻影を投映したがるものである。

 彼はまだ若く、治世の実績もなく、国難に対処するのは最初から不可能だった。正直な話、もうしばらく妻と新婚気分に浸っていたかったに違いない。彼に適確且つ果断な政治判断を期待するのは酷というものだ。国内には秘密結社がはびこり、反乱や暴動が頻発していた。町も村も治安は最悪。対外的にはイギリスとロシアの板挟みになり、北から南へ向かって、イタリアでは革命が進行しつつある。王は、破産寸前の会社を相続した世間知らずの若旦那のような立場に立たされていた。イタリアは今や、古い体制が自然崩壊し、フランスの影響を間近に受けて一足先に民主化と産業革命が進展したピエモンテを盟主として、新しい時代へ移行しようと急いでいるかのようだった。

 かたや両シチリア王国は、時代の流れに乗って国民国家となるにはあまりにも君臣の距離が隔絶していた。立憲君主制や議会制民主主義が成立するにはブルジョアジーが不可欠である。産業革命が生み出す新興勢力が必要である。富裕な市民を欠く革命は王政を根こそぎ倒してしまう。国民は躊躇無く王を捨て、自分たちの共和国を作ってしまうだろう。

 王フランチェスコにとってピエモンテとの同盟は、彼を、王国を救い得る最善にして最後の提案であったろう。しかし彼は、それに手を伸ばすことをためらった。フランチェスコにせよ、ヴィットーレ・エマヌエーレにせよ、君主らにとってカミッロ・ベンゾという男は苦い薬だった。

 ナポリやシチリアというところは、めまぐるしく領主が交替する。古代にはギリシャの植民都市があった。ナポリという町の名も、ギリシャ語のネアポリス(新しい町、という意味)が語源である。その後、一部がカルタゴ領になり、古代ローマ共和国の属州となり、ゲルマン民族移動によって東ゴート王国となり、アラブ領となり、東ローマ領となり、ノルマン人によって征服され、その後もハプスブルク家やブルボン家などの異邦の王族に支配されてきた。シチリア人やナポリ人といった現地住民による国が建てられることはなかった。ピエモンテやスイスとはまったく異なる国柄である、と言える。

 住民の気質はギリシャ人、コルシカ人、サルディーニャ人、或いはチュニジアのアラブ人らと近く、個人主義的、享楽的。その上土地は痩せ、大した産業もなく、人民は貧しく、地縁も血縁もない君主にとって、かわいげがなく、旨味も少ない領地である。勢い、専制的な搾取・収奪・そして弾圧が常態化していた。

 飼い犬や飼い猫を愛さない人がいないように、領民や領国を愛さない領主もいない。しかし、次第に馴れ、思い通りにならず、期待に応えてくれないと、愛情は憎しみに変わっていく。飼い犬に手を噛まれた飼い主が、自分に忠実な犬に折檻を与えてしまうように。

 自然とイタリア諸国の中でピエモンテは開明的なイギリス・フランスに接近し、両シチリア王国はスペインやオーストリア、ローマ教皇など、どちらかと言えば古臭い後進国に親近感を持ち、特に当時世界最大の専制君主国であるロシア帝国に接近しようとする。これが世界帝国イギリスの逆鱗に触れた。

 ロシアは、黒海からエーゲ海を経て地中海へ、ジブラルタル海峡を経て大西洋、或いはスエズ運河を経てインド・アジアへと進出しようとしていた。オスマン帝国の弱体化に伴ってロシアが地中海に進出し、シチリアがロシアの寄港地になるようなことは、ジブラルタルやスエズを押さえるイギリスにとって決して容認できない。そこで、ロシアの地中海進出を徹底的に阻止しようとしたイギリスとの間で、クリミア戦争が勃発したのである。

 イギリスからみて、両シチリア王国は、煮えきらない、危険な国に見えた。王フランチェスコを見限ったイギリスは、力尽くでシチリアに権益を確保しようとする。特に不満分子が多いシチリアの住民に加担し、イタリアの革命家ジュゼッペ・ガリバルディをシチリア島の最西端マルサラに密航させた。ガリバルディは自らピエモンテで募った義勇軍とともに、オーストリアと戦っていた。それら義勇軍を再編成して、ジェノヴァから二隻の船に乗ってマルサラに上陸したのが、かの有名な赤シャツ隊、あるいは千人隊と呼ばれる部隊だ。それ以前にガリバルディはイタリア統一のための戦いに何度も従軍し、アメリカやイギリスに亡命したこともあり、軍略家、活動家、憂国の士としてすでに世界的に名高く、イギリス高官たちにも高い人気があった。そこでイギリスがシチリアに干渉するためのエージェントとして、彼に白羽の矢が立ったのである。

 シチリアの首府パレルモを落としたガリバルディは、イギリス海軍の支援を受けつつ、イタリア本土を隔てるメッシーナ海峡を渡る。カヴールはガリバルディに海峡を渡らぬよう、強く制止した。彼にしてみればガリバルディの軍事行動はイギリスによるイタリアへの干渉、シチリアの独立派の扇動に他ならないし、そもそもカヴールは未だに両シチリア王国の元首・フランチェスコを救いたい、と考えていた。カヴールは王ヴィットーリオ・エマヌエーレのために南イタリアを征服すべきだとは、考えていなかった。イタリア人民のためにイタリア連邦を作る最良の方法を模索していただけだ。南伊征服の野心を持っていたのはむしろサヴォイア公にしてピエモンテの君主、そしてサルディーニャ王たるヴィットーリオ・エマヌエーレではなかったか。彼はガリバルディに同情的で、彼の行動を黙認した。

 ナポリ王は長年スイス傭兵を親衛隊として雇っていた。スイス人の中には将軍となり、爵位をもらってナポリに永住するものさえいた。1848年にスイス連邦が発足すると、連邦政府は州兵の輸出を制限したため、多くのスイス傭兵が帰国したが、ナポリにはなお多くのスイス傭兵が残っていた。ナポリでは実質的には、現地ナポリやシチリアの貴族や民衆ではなく、スイス人が王の股肱(ここう)と頼む家臣だったのである。

 勤勉なスイス傭兵と、自堕落な地元貴族らは常に対立した。スイス兵にしてみれば、何もしないで特権を享受しているナポリやシチリアの貴族と同等かそれ以上の待遇を王に求めたい。ところがよそ者のスイス兵が重用されることに地元貴族は我慢がならない。当主フランチェスコがスイス人の親衛隊らと待遇改善交渉をしている間に、スイス兵は地元兵に包囲され、銃撃されてしまう。

 この事件の結果、王は親衛隊の維持を諦め、スイス傭兵らを解散し、王国に残るも去るも自由にさせた。一部の傭兵は帰国し、一部は王とともに最後まで運命を共にすることを誓う。

 王の家臣たちは、保守的な独立派と、議会制への移行を望む開明派と、過激なイタリア統一派とに分かれ、激しく対立して、収拾がつかなくなっていた。穏健なリベラル派は、叛徒と歩み寄って、王国の民主化を求めたが、貴族や領主からなる王党派は、断固として、徹底的に戦うべきであると譲らなかった。

  ガリバルディ軍がイタリア本土に足を踏み入れると、ピエモンテ軍もポー川を越えて教皇領に侵攻し、両シチリア王国を目指すことになった。

「諸君。5万のフランス兵は母国に引き揚げていった。今我々は真の意味で、イタリア国軍を創設せねばならぬ。ピエモンテのみならず、ハプスブルク家のくびきにつながれていたトスカーナや、我が故郷モデナからもぞくぞくと志願兵が集まり、見よ今や、6万人の大軍団となった。俺がクリミア戦争で指揮を執ったときにはわずか1000人、いや500人しかいなかったのに、今や6万だよ、6万。その兵士らの身命、家族や同胞らの運命が俺の双肩にかかっているかと思うと、重責に押しつぶされそうだ。

 この俺も父は土木技師。子供の頃から土木を仕込まれたが、土木よりゃちょっとはましな仕事がしたいと医者の学校へ進学した。ところがここががちがちの宣教師どもがやってる学校で俺はとうとう寄宿舎を飛び出してしまったよ。」

 耳にたこができるくらいなんども聞かされたチャルディーニ将軍の身の上話だ。

「だがな諸君。それがゆえにピエモンテは、鉄道を敷いてはるばるフランスから援軍を連れて来れた。大河を自由自在に堰き止め決壊させてオーストリア軍を翻弄した。そしてミラノを取った。この俺がエンジニアだったからできた芸当だ。そうだろう?

 しかしこれから、イタリアが統一され、国軍を持つとなると話は違う。そう思っとるだろう?

 あの土木現場監督に過ぎぬチャルディーニに何ができるとみんな思っとる。思っとるだろう、諸君。ああその通りだ。だがな、イタリアは、オーストリアみたいに、歴代、領主の家に生まれたボンボンが将軍職を継ぐ、そんな国にしちゃあいけない。俺みたいな土木技師がおり、鉄道技師がおり、機械工がおり、なあ見ろ、あのカヴール閣下だって農学者、化学者だ。化学肥料で農業改革を促進した人だ。そういう技術者が身を立て、大臣になり、将軍になる。そういう国にしなきゃならん。そう思うだろ諸君。だから俺は自分の出自に誇りを持っとる。俺が現場のもっこ担ぎ、ドカチンふぜいから国軍の元帥にまで出世したことを誇りに思っとるのだ。

 クリミアで鉄道を海から山の上まで開通させた。この俺がだ。嘘じゃない。イギリスももちろん手伝ったが実働部隊はピエモンテだ。そのピエモンテの工兵を指揮したのが俺だ。それで山の上まで大砲と砲弾を運び、セバストポリ軍港めがけてどっかんどっかんと爆撃した。単線じゃないぞ単線じゃ。複線だぞ。単線じゃトロッコは一度に一台しか使えない。それを上げて下げるだけ。複線なら何台も一度にトロッコで砲弾を運び上げられる。同時に空のトロッコを下ろせる。輸送の速さが桁違いだ。おかげでイギリスはロシアに勝てた。ピエモンテのおかげでロシアに勝てた。俺のおかげでロシアに勝てたのだ。そしてピエモンテも俺のおかげでオーストリアに勝てたのだ。ただ自慢したいだけでこういう話をしておるのじゃないのだ。今の時代どうすれば戦に勝てるか、そのためにはどんな将軍に、どんな国についていけば得をするかって話をしているんだよ。」

 プロイセン王のように、上にピンと跳ね上げた髭を生やし、オールバックにコテコテに固めた、気苦労というものがそんなにありそうにも見えないチャルディーニ将軍は、おおげさな身振り手振りを交えて、全軍を前にそう言った。きっとカエサルの霊が彼に降りてきたのだろう。イタリアでは良くあることらしい。俺はあたりを見渡して、はて、6万人もいるだろうか、ちと盛りすぎではあるまいか、と思ったが、戦争の動員数というのは、そんな具合にいつも大げさなのであろう。

 我々は結局ミンチョ川を渡ることなく南下し、モデナに入り、教皇領のボローニャまで来た。チャルディーニはここで、フィレンツェ・ローマ方面に別働隊を割き、自らはそのままエミリア街道をナポリへと向かった。途中、サンマリノ共和国の手前で、なんの変哲もない小川に架かる橋を渡った。渡った後、一兵卒が、橋のたもとに立っている石像を指さしていった。「こいつはカエサルですよ。今渡った川が、かの有名なルビコン川ですよ、」と。

 全軍がざわついたので、チャルディーニもそれに気付いた。

 「しまった。せっかくイタリアの将軍になったのに、何か気の利いたことを言う絶好のチャンスを逃してしまった。もう一度渡り直すかい?」

 イタリア観光巡りではないのである。行軍中にそんな悠長なことをしてるヒマは無い。

 「ところでカエサルは、この川を渡るとき、何と言ったんだっけ。」

 「たしか、ここがルビコン川だ、踊ってみろ、だったと思います。」

 「いや確か、ダーツは投げられた、ではなかったでしょうか。」

 「ダーツじゃなくて、手袋では。」

などと兵卒らは口々に囁いたが、どれも正解とは思えなかった。

 ピエモンテとガリバルディが教皇領に南北から侵攻すると教皇は世界中のカトリック信者たちに呼びかける。イタリアを救え、と。主にフランス、それからベルギーから義勇兵が集まってきた。

 チャルディーニ軍がアドリア海沿岸の港町アンコーナを接収しようと、その近くの村カステルフィダルドに宿営しているときに、教皇の義勇軍による奇襲を受けた。我らにも少なからぬ犠牲が出たが、チャルディーニは、オーストリア兵にしたような、無慈悲な榴弾爆撃を、彼らの上に降らせるようなことはしなかった。イタリア人の誰一人として、教皇と武力対決しようというものなどいない。戦闘はわずか数時間で終わり、彼らはアンコーナに立て籠もった。我らはアンコーナを放置しナポリに向かうことにした。ローマ市はフランスが守備していたので、我々は敢えて手を出さなかった。他にも教皇領内の敵対する諸都市や砦は、あちらから打って出てこない限り、基本的に無視することにしたのである。教皇はサヴォイア公ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を破門することで対抗したが、王はもはや意に介さなかった。その後イタリア人のほとんど全員が「バチカンの囚人」ピウス9世によって破門された。どうにもしようがなかった。教皇領はフランク王国時代に寄進されて以来、1000年以上続いてきたわけだが、今の国民主権の時代にそぐわないのは明らかであった。実際、教皇の持つ世俗の封建領主としての財力や権力は「歴史的欺瞞であり、政治的詐欺であり、そして宗教的不道徳」と言われても仕方のない状況にあった。

 ガリバルディ軍とチャルディーニ軍はそれぞれナポリ近郊のヴォルトゥルノ、カプアで両シチリア軍を撃破し、とうとう直接対峙した。両軍は激突寸前かと思われた。が、サヴォイア公ビットーリオ・エマヌエーレ2世みずからがナポリの北テアーノという村に御幸して、ガリバルディとの交渉に臨むと、ガリバルディはカヴール軍に降って、南イタリアの占領地をサヴォイア公に献上した。それから、チャルディーニ軍はガリバルディ軍と共同で、両シチリア王国の掃討戦に向かった。

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