ナポレオン3世は、近代戦争の惨禍を目の当たりにして、つくづく戦争が嫌になった。うんざりした。自ら臨んだ外征における赫々たる戦捷。しかし勝利の美酒に酔うには、支払った代償はあまりにも大きかった。
彼は、皇帝に即位したとき、フランス国民に向けて、或いは欧州列国に向けて演説した、「帝政とは平和を意味する」と。叔父のナポレオンのような大戦争を始めるのではないか、イギリスやロシアや世界を巻き込んだドンパチを始めるのではないか、と。そんなフランス人民や諸外国の懸念を払拭することに務めたのである。彼はその時の気持ちに返っていた。「フランスが満足しているとき、世界は平和で平穏でいることができる。(※7)」ともあれ、自分が原因で欧州に戦乱の嵐をまき起こすことはもう金輪際やめよう、という気持ちになった。
すでに彼の頭の中は、フランスの首都パリを、世界のどの国にも負けない、薔薇の花あふれる庭園と、静かで清らかな森、そしてきらびやかな宮殿と整然とした市街を備えた、芸術作品のような都市に作り替えようという夢想で占められていた。彼自身放浪時代に庭師の免許を取得していたくらいだ。彼の叔父とはずいぶん毛並みが違っていたわけだ。
おお、花の都パリ。美女と美食の街。自分にはそんな文化事業こそ似つかわしい。戎服を着て天幕に野営するなんて、ああ、なんたる野蛮。がらにもないことはするもんじゃあないと。
パリで摂政となった皇后ウージェニーは、プロイセンが総動員態勢を敷いてフランスとの国境、ラインラントに数十万の兵を集めつつある、早く帰ってきてくれと執拗に催促する。プロイセンは昔からライン川流域に点々と領地を持っていたのだけど、ナポレオン戦争でライン川西岸のラインラントはフランス領となり、東岸のヴェストファーレンはナポレオンの弟が治める衛星国になった。ところがナポレオンが失脚したときにラインラントとヴェストファーレンはまるごと巨大なプロイセンの西の飛び地となり、フランスのエルザス・ロートリンゲン州はプロイセンと直接国境を接するようになってしまった。ベルギー、ルクセンブルク、オランダなどの周辺の小国は、強国プロイセンの前には鎧袖一触。まるごとプロイセンの餌食になってしまうだろう。
ラインラントこそは、フランスの柔らかい腹部に突きつけられたプロイセンの匕首(あいくち)、パリは指呼の間、なだらかな丘陵と平原が連なり、遮るものとてない。プロイセン騎兵師団ならば国境を越えて数日で走破するだろう。それに比べてロンバルディアは余りに遠い。もしプロイセンが同じドイツ民族のよしみでオーストリア側についてフランスに宣戦布告したら。ウージェニーもパリ市民も気が気ではなかった。
フランツ・ヨーゼフがいるヴィッラフランカという町はロンバルディア・ヴェローナ県に作られた矩形防衛地帯のほぼ真ん中に位置する。ここに逃げ込まれると、攻めにくい。しかもオーストリア軍は余力を残していた。フランスは、これまで連戦連勝で来ていたが、ここヴェローナで大敗するようなことがあったら、それこそ諸国の干渉を招いてしまうだろう。
イギリスは、プロイセンとオーストリアとフランスの間で、なし崩し的に大戦が再発することを恐れており、従ってフランスを牽制した。フランス人民に君臨する偶像皇帝。ワーテルローの戦いでは辛くもナポレオンを屈服させたイギリスであるが、未だにその膨大な戦債に苦しめられていた。フランス皇帝ナポレオン、何をしでかすかわからない。パリの宮廷でおとなしく惚けさせておくに限る。
フランツ・ヨーゼフもまた、戦争を早く終わらせたがっていた。彼はナポレオン三世の奇矯な采配に辟易した。ナポレオンの再来だかなんだか知らないが、こんな得体の知れない、ねじのぶっとんだ奴にこれ以上関わり合うのはごめんだ。もう奴の好きにさせてやろう。彼は、ソルフェリーノの敗戦直後から休戦の可能性を探っていたが、ナポレオン3世の陣営からヴィッラフランカに使者が送られてきて、ピエモンテの頭越しにフランツ・ヨーゼフと勝手に交渉に入る。フランツ・ヨーゼフは、ハンガリー方面軍をまるごとこの戦いに動員したため、いつ背後で叛乱が再燃するか気がかりでならなかった。ハンガリーだけではない。異民族は旧ポーランド領にもボヘミアにもバルカンにもいる。何しろ帝国は広い。1つのことばかりにかかずらってはおれぬ。
フランツ・ヨーゼフはこの初陣での大敗に懲りて、以後二度と親征軍を率いることがなかった。講和が成るとナポレオン3世とフランス軍はピエモンテ軍を残して戦線を離脱する。ロンバルディアの大半とミラノはピエモンテ領となったが、ヴェネツィアはオーストリア領に残った。
イギリスもプロイセンもとりあえずフランスとオーストリア間に成立した和議を喜んだ。欧州大国間では休戦の機運で一致していた。しかしこのままでは収まりがつかないのがイタリア人民だ。このヴィッラフランカの和約にイタリアの愛国者たちは激怒した。もとより、独立戦争を完遂するまで、戦いをやめない決意だ。宰相カヴール自身が和議に抗議して辞職した。ピエモンテはプロンビエール条約を無効として破棄。ナポレオン三世も、単独講和がプロンビエール条約違反であることは承知の上だ。
チャルディーニ軍は、ポー川南岸のハプスブルク領のモデナ公国、トスカーナ大公国へ侵攻した。 トスカーナでは、戦争と並行して革命が起き、治安維持の名目でピエモンテ軍が制圧した。トスカーナ大公はハプスブルク家出身で国外追放されていたが、ヴィッラフランカの和約によってトスカーナに帰ることができるはずだった。しかしピエモンテにとって、フランスとオーストリアの間で勝手に結ばれた条約など知ったこっちゃない。オーストリア、フランスの要求を拒絶してトスカーナを占拠し続ける。住民も旧領主による支配を、もはや望んではいなかった。北イタリア動乱の火種は、まもなく南イタリアにも飛び火することになる。
※7 ブルボン王朝とフランス革命、そしてナポレオン帝政の頃はたしかにフランスがおとなしくしていればヨーロッパは平和だった、と概ね言えるかもしれない。しかしナポレオン3世の時代にはもはやフランスは欧州の中心ではなく、同様のことはオーストリアにも言えた。ナポレオン3世の戦争の仕方をみると非常におっちょこちょいで、常に自分が最前線に突出しようとする。それが初代ナポレオンであれば戦略的に絶大な意味をもったかもしれないが、戦争音痴のナポレオン3世には粗忽・軽率という以外の意味はなかった。オーストリアはナポレオン3世がいきなりそんな奇策に出てきたのでびっくりして負けた。プロイセンのビスマルクはナポレオン3世の戦い方を良く観察したのであろう。普仏戦争のときにはパリから勇んで飛び出してきたナポレオン3世の退路をプロイセン軍が回り込んで遮断、皇帝ともどもフランス全軍をセダン要塞に包囲、皇帝みずからが捕虜となる大失態を演じた。