デーテ 1. 生い立ち

 寒々しい灰色の雲が空を覆い、はるか北の海から吹き込んでくる秋風が色づいた木の葉を散らす。夜が明けたかと思うとあっという間に日は暮れ、ただひたすら退屈で長い夜が続く。そんな憂鬱な季節にも、人はいろんな工夫をして楽しみをこしらえる。俺たちは取材を兼ねて町へ繰り出した。近頃はここフランクフルトでも、ちょっと気の利いた10月の祭り、オクトーバーフェストって呼ばれる催しが開かれるようになったんだ。

 オクトーバーフェストといえばバイエルン王国の首都ミュンヒェンで、80年ほど前から行われているビールの祭典が有名だが、プロイセン王国を盟主として、ドイツ連邦の統一がなってからというもの、連邦内におけるドイツ民族の交流と融合が一気に進んで、我がフランクフルトだけでなくハンブルクやベルリンのようなドイツ全土の主要な都市でも、真似して開かれるようになったのだ。まあ要するに我が民族はとかく理由をつけてビールが飲めればそれで良いというわけだ。

 マイン川の河原に作られた露天の会場はやたらと混んでいて俺たち4人が座るテーブルとベンチを確保するだけでもたいへんだ。こういうお祭り騒ぎがあんまり好きじゃない俺はたちまち来るんじゃなかったと後悔した。残りの3人がめいめい食料やビールを調達にいく間、俺は川を上りくだりする夕暮れ時の貨物船や水上バスをながめながら、1人でぼーっと席の番をしていたのだが、隣の空席をめざとく見付けた四人ばかりの女たちが

 「ちょっとここ詰めてくださる。」

と割り込んできた。

 「いや、あと3人、連れがいるんだが。」

 「お連れは女性の方?」

 「いや、みんな男だが。」

 「あら、男4人と女4人なら、ちょうどいいぐあいにいっしょに飲めるじゃないの。」

などというので、それもそうかと俺ははじのほうへ席をどく。もどってきた男たちもいつのまにやら予期せぬ珍客が同伴していて喜んだようだった。

 「あなたたちは何やってる人?」

 「フランクフルター・ツァイトゥングっていう新聞知ってるか。」

 「さあ、知らないわねえ。」

 「地元の大衆向けの経済新聞だからな。お嬢様がたにはあまりなじみがないかもしれない。俺たちゃその、しがないタブロイド紙の記者仲間だよ。で、君らは?普通の会社務めかい?」

 「シュミット・ゼーゼマン・ニューギニア商会って知ってる?」

 「ああ、知ってる知ってる。わがドイツ連邦の国営東インド会社を、民間に払い下げるってんで、シュミットさんとゼーゼマンさんが、3年くらい前に合同で出資して作った会社だろ。」

そう連れの一人が答える。

 「あらー。ずいぶん詳しいのねえ、あなた。」

 「いやまあ、俺たちゃジャーナリストだし、たまたま俺はこないだ調べてその記事を書いたからね。ずいぶんでかい会社だよな、あの会社は。君たち、そこで働いてるわけ。」

 「ええそうよ。」

 「経理か営業かい。」

 「ま、当たらずとも遠からず、だわね。」

 わがドイツはつい最近統一を果たしたものだから、植民地獲得競争には四百年出遅れた。ポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、ロシア、オランダ、ベルギー、などなどが世界中をさんざん切り取り食い散らかした残り物にしかありつけない。イタリアもわがドイツと似たような状況だ。やっとのこと、ドイツも、太平洋にドイツ帝国領ニューギニア、あるいはビスマルク諸島なんていう拠点を確保したのが10年前。アフリカにも申し訳程度に割り込んだ。国策として貿易会社を作り、出資者を募って、ドイツ民族こぞって海外に雄飛しようとしているところだ。

 「ずいぶん、景気はいいのかい。」

 「ええ、おかげさまで。」

 「ふうん。ところで、君たちはみんな人妻かい。」

 どう見ても10代の娘たちにはみえない。30くらいか。

 「ええ。あいにく。この私以外は、みんな世帯もちよ。」

 そのデーテという独り身の女は、俺とほぼ同い年で、美人というのではないが愛嬌があってなかなか面白そうなやつだ。どういうわけでこんな年まで売れ残っているのかしらぬ。こちらも4人の中で独身なのは俺だけだったので、自然と俺がデーテの相手役となり、他の連中は最近生まれた子供の話などでもりあがりはじめた。

 話を聞くに、黒髪で鳶色の瞳の、そのデーテという女は、よほどふだん仕事のストレスをためているのか、誰でも良いから、日頃の鬱憤を何もかもしゃべってみたいようす。だから俺がこの際、その聞き役になってやるつもりだ。

 流れで別れたあと、俺がそいつを連れ込んだのは、オフィス街の中にある、知り合いから教えてもらった、煉瓦造りの酒蔵を改装した、静かな地下のバー。たまに立ち寄る程度で、なじみというのでは全くなく、バーテンダーたちも俺の顔を覚えちゃいない。

 俺は、カウンターテーブル沿いに取り付けられた、ふっくらしたくるくる回る背もたれ椅子に、その女と隣りあわせて腰掛けた。おごっていただけるんでしょう、と言うので、ああ、好きなだけ飲んでくれ、というと、女はカクテルを二杯、あっという間に飲み干した。なかなか良い飲みっぷりだ。

 半開きのまぶたで、目はとろんとしている。そのまま寝てしまうんじゃないかと思っていると、「ちょっと聞いてくれる、私の身の上話を、」と、3杯目のショットグラスを今度はじっくりとなめながら、その女は語り始めた。

 私は今、この世界で一番と言っても良いくらい賑やかな、フランクフルトの街中に1人暮らししているけど、もとは生まれも育ちもスイスのグラウビュンデン州のマイエンフェルトという小さな町、そこに25歳まで暮らしたの。

 マイエンフェルトは、スイス東部の山岳地帯から、ライン川の源流が北へ、オーストリアやリヒテンシュタインを東にかすめながら、ドイツへと流れだす、グラウビュンデンの出口に当たっている。グラウビュンデンは拓けたスイス中央の高原地帯や南ドイツとは違って、アルプス山脈のど真ん中の盆地で、渓谷はとても急峻で、至るところが崖になっていて、ライン川やその支流もみな、激しい急流になっている。

 農地と言っても、ライン川が刻んだ谷底にほんの少し、猫の額くらいある程度で、あとはアルムまたはアルプと呼ばれる、森林限界より高いところにある痩せた岩場の草地。夏の間そこへ、牛飼いや山羊飼いたちが、朝早く麓から家畜を放牧に連れていき、夕方に下りてくる。山の新鮮な牧草を雌牛や雌山羊に食べさせて、良い乳をたくさん出させるため。秋が来て北風が吹き始めると、家畜も人もみな突風で谷底に吹き飛ばされてしまうから、その年の放牧はおしまい。それから深い雪にとざされて長い冬が始まり、翌年の遅い春まではずうっと村の中に閉じ込められる。

 気候はごく寒冷で、産業といえば、わずかな葡萄農園、夏場の林業、炭焼き、牧畜。冬場は家の中でできる木工や酪農程度。私が生まれ育ったのは、そんなアルムの麓に位置する貧しい山里の1つなのです。

 自然の景色は立派だけど、厳しい気候の村だったわ。

 マイエンフェルトの郊外にデルフリっていう小さな集落があって、私の家はそこにあった。父はデルフリの生まれ。母はライン川のずっと上流のドムレシュクという村からお嫁にきたのだけど、母が私を生んだあと、父はすぐに亡くなってしまって、姉のアーデルハイトは少し父の面影を覚えていたようだけど、私はまだほんの赤ん坊だったから、全然どんな人だったか思い出せないの。母が言うには、父はデルフリでは割と裕福な酪農家で、牛も昔はたくさん飼っていた。お酒が大好きで、毎晩仕事の後の晩酌は欠かさない人だった。だけど、原因はよくわからないけど、だんだんに体調を崩してしまって、平地の少ない山里だというのに、坂を登るとき途中何度も休憩しなきゃならなくなって、とうとう寝たきりになり、養生の甲斐なく、衰弱しきって死んでしまったそうよ。私が物心ついたころには、母と姉妹二人、女ばかり三人暮らしの家庭だった。

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