太宰春台と平田鐵胤の墓

根津、天眼禅寺にある太宰春台のお墓にお参りした。享年1747年だから、今から300年近く前の墓にしては、きれいな墓石で、文字もはっきりと読める。手入れもされていて、苔むしたりはしていない。もともとそれなりに良い石を使ってあるのだろうか。

本堂には三つ葉葵の扉がある。松平家ゆかりの寺だが臨済宗なのは少しめずらしい。

今どきの御影石の墓石はきれいだが風情がない。最近はなんでもかんでも御影石だ。

そのあと巣鴨のとげぬき地蔵など行き、それから芥川龍之介、谷崎潤一郎などの墓などもお参りにいったのだが、途中珍しいお墓があったので寄ってみた。平田篤胤の娘と結婚して平田鐵胤(かねたね)と名乗った人だ。つまり篤胤に養子縁組した篤胤の弟子なのだ。このあたりは区画ごとに囲いがしてあって、なかなかたどり着けない。しかも一番奥で藪蚊がひどかった(クモの巣もある。行くには用心したほうがよい)。岡倉天心の墓のさらに奥。

平田篤胤は秋田の出身だが脱藩して江戸に住み、山鹿素行流兵学者の平田家に養子で入り、この墓はその平田家代々の墓であるらしい。平田篤胤の墓は本居宣長の墓の隣、つまり伊勢松坂にあるはずなので、ここではないということでよかろうか。

染井霊園は墓石の形はおおむね普通だが、明治政府が神葬祭地に指定し、東京府が管理したのだというから、ここのお墓はみな仏教徒ではなく神道家だということか。それから東京市に移管され、今は東京都が管理している都営霊園ということでよかろうか。なんかわからんことだらけだ。ウェブサイトなどもしっかりしていて万事ちゃんとしている。

このあたりはどこまでも墓地だが、寺が管理していたり都が管理していたり、その区画ごとに囲まれていて、かなり迷う。

護国寺や雑司ヶ谷霊園にも行こうと思ったのだが、眠いし暑いしで疲れ果ててしまった。荻生徂徠の墓は白金高輪のほうにあるし。正岡子規の墓は田端のほうだし。も少し時間をかけないとちゃんと墓参りはできない。

太宰春台

上田秋成『胆大小心録』に

聖人もだんだんご身代が大きうならしゃまして、悪人がたを加へねば、芝居がうてぬやうになつた事じゃ。ある儒者が、聖人とはなんでも国の乱れを治めたのが聖人じゃといふたは、末世の早算用なり。国を盗める候となる。候の心に仁義とはくだくだしいて聞こえにくい。その儒者どのが其の心ゆゑ、身持ちが悪くて、徂徠学じゃといへば、今の俳諧師のやうな相場じゃあったげな。太宰といふが力まれても、とかくに本家の評判が悪いから、とんとあとがない。

また頼山陽『山陽先生書後』「書徂徠集後」に

南郭の如きは王李に克肖し、其の師を踰ゆる有れど、而して観るに足らず。春台の能く其の師の非を悟るは豪傑と謂ふべし。

などとある。秋成の秋成節は何を言っているのかいつもながらよくわからんが、徂徠よりも春台のほうを高く評価しているようにもみえる。山陽も徂徠よりは春台のほうがまだましだと言っている。

しかし私が徂徠の書いたものと、春台が書いたものを見比べるに、春台は徂徠のおかげで名は売れて、文章も達者で、相当世間を騒がせたようだが、結局は徂徠の焼き直しにすぎず、徂徠と違うあたりには頭のおかしなことを言っているだけのようにみえる。それが「太宰といふが力まれても」という評になったか。

当時の人々にとって徂徠が有名だったのは間違いないが、何かしら徂徠はうとましい存在だったのかもしれない。春台のほうがなぜかしら好ましい人に見えたのかもしれない。しかし春台はろくに就職もしてないし、宮仕えなどできるような人でもなかったようにみえる。

要するには私には、山陽や秋成が春台を高く買っているのが不思議だということで、漱石も春台が嫌いではなかったし、春台がなぜそんなに評価されているのか、わけがわからないのである。

『山陽先生書後』なんだけど国会図書館デジタルコレクションには天保時代の木版本しかない。ふざけんなと言いたい。かっちりとした楷書で書かれているから読めるっちゃ読めるんだが(和文で、くずし字で書かれてたら死んでた。漢文だからまだ読めたのだ)、活字に起こして読み下し文とか現代語訳とか付けてほしい。ならおまえがやれ、と言われそうだが(追記。よく探したらあった)。

『徂徠集』にしてもいつの時代のものかしれぬ、出版者が松村九兵衛とかになってる木版本しかない。これはさすがに怒ってもいいんじゃないのか。国文学者らの怠慢ではないのか。