航西日記5

7日早朝、サイゴン川を遡る。両岸はどちらも平坦で草木が生い茂っている。村の家並みが点在して風景画のようだ。ところどころに非常に大きな椰子の木や蘇鉄の木が立っている。午後1時にわか雨。詩を作る。

寂寞とした漁村が途切れ途切れに続く
船を挟む深緑には薄いもやが立ちこめている
椰子林に降る一陣の雨が
たちまち涼しい風を客船に送るのを喜ぶ

2時、港に達する。香港からここへ至ること815里。船が港に入るとただちに埔頭に接して停泊する。しかしながら市街へ行くには、はしけ舟が来るのを待つほうが、速やかに行くことができる。市街を眺めると屋根瓦はすべて赤い。初めて椰子の実を食べてみる。形はスイカのようである。殻を開けてジュースを取り出すと味は極めて甘美である。その殻をそのまま椀としたり杯にすることができる。この日、香港にて病院を視察したことを軍医本部に報告し、また故郷に手紙を送った。

8日早朝。馬車を雇って花の庭園を見る。馬は痩せているが力は強い。街を覆う土は赤い。道路の両脇に樹を植えている。槐(えんじゅ)に似ている。いわゆる尼泪爾弗樹である。朝顔、芭蕉もある。民家は非常に狭く、屋根を覆ったり扉を編んだりするのにみな椰子の葉を用いている。網を二つの柱の間に張って腰掛け代わりにしているものもある。また竹のすだれを垂らしているものがある。室内は土間が多い。豚や鴨と共に住んでいる。シナ人で店を開いている者が多い。売っている木の実は、あるものはワンピ、またはフトモモ、みな食用である。現地人はみな山子を嗜む。一枚を切って四つに分けて、貯蔵することなくじかに、ハコベや石灰といっしょにこれを噛むので、男女ともみな歯が黒い。山子とはビンロウの実である。婦女は髪に櫛を挿しているが、日本の古代のものに似ている。馬を御する者はみな黒人である。首や肩に赤い布をまとっている。一つの川を渡る。鉄橋が架かっていて庭園に入ると草木はみな大きくうるわしい。香港の庭園にはこのような天然の色はなかった。庭園の中は蝉の声がやかましい。庭園を出てフランス兵の屯舎の前を過ぎる。兵卒がいて抜剣して門を守っている。途中一人の兵卒に会った。左の下肢に義足を付けていた。また別の庭園に入った。たくさんの動物を飼っている。鶴、孔雀、猩々、あるいはまた虎、豹、羆、熊、山猫、獺、兎、鹿、鼈(すっぽん)、蟒(うわばみ)などなどがいた。最も変わったものは巨大な鰐(わに)であった。そのうろこは老松の幹のようである。池には蛙がたくさんいて、その声はホラ貝を吹くようであった。午後船に帰った。夜寝床で詩を作った。

夕暮れ空は晴れ 人は暑さを忘れる 
初めて船の中で安らかに眠る
夜半にボーイがロウソクを吹いて火を消す
虫の声が窓に迫り寒い

この地は蚊や虻が多いと聞いていたが、今はそれほどでもない。寒暑計の針を見るとカ氏85度。

9日午前3時、サイゴン港を出発する。目が覚めたときにはすでに数十里、川を下っていた。風が強く吹いて夜になってもやまなかった。

10日、風がいまだに激しい。木々が倒れ伏している。三度食事をするほか何もやることがない。

11日早朝、マラッカ岬とスマトラの間を過ぎる。山脈は断続して南北にうねり長く連なっている。むしろを敷いたように海は平らに凪いでいる。詩を作る。

昨夜は風が生じてとても苦しんだが 
今朝は風がやんでみな笑っている
人間の悲喜こもごももこれと同じだ
ある日は眉をひそめ またある日は眉を開く

午前8時、シンガポールに達する。いわゆる「新港」である。サイゴン港のときのように船が埔頭に接する。沿岸にはすすけた倉庫が多い。子供が舟に乗って近づいてきて、銀貨を水中に投げよと請うて、水に潜ってこれを拾うのだが、百に一つも取り損なうことがない。その舟は狭くて爪でえぐったようだ。『嶺南雜記』に海人が水に入っても潜らず、客のために浮かんだ残り物を取るというのはこのようなことをいうのだろう。

午前11時、馬車を雇ってさまざまな寺院や庭園を見物する。街を覆う土の色が赤いのはサイゴンと同じだ。多くのシナ人が店を開いて食べ物を売っている。また人力車を引いて生業としている。現地人は全身黒く、肩や腰に紅白の布をまとっている。女は鼻に金の輪を通している。皆はだしである。イスラム教徒らは桶のような形の帽子をかぶっている。車を引く牛は肩が突出していてラクダのようだ。庭園には椰子やサトウキビをたくさん植えている。シナ寺院に掲げられた扁額には「環州會舘」と書かれている。そのほかイギリスやフランスの礼拝堂があるが、特記すべきほどのものはない。庭園に入る。盆栽を束ねて人の形を作っている。我が国の菊人形のようなものだ。ヨーロッパ式のホテルで休憩したが、香港のホテルよりも数等劣っている。

午後3時、船に帰る。たまたまフランス船、屋幾斯号が入港する。日本客がいると聞くので見に行く。その姓名を記録すると次の通り。今村淸之助、福原允。並びに陸奧宗光を送って帰る者、圓中孤平、巖見鑑造。そのほか商人ら。晩餐の後、近くの岸辺を散歩する。港の入り口に島嶼が星のように連なり、幾万という船の灯りがその間に灯っている。おそらくこの地はマレーの島々の一つにすぎなかったが、イギリス人が開港して以来、シナとインド、二つの海の喉を扼しているから、その盛んなことは論じるまでもないことである。詩を作る。

聞くところによれば ここシンガポールは蛮族が焚く煙が漂う水郷であったという 
今その埔頭を見ると千隻の船が連なっている
イギリス人はまさに錬金術を持っている
錆びた鉄の塊もたちまちに光を放つ

また、

日暮れに船を離れて木陰に立つ 
林を隔てて寺から鐘の音が聞こえてくる
子供らが数人 はだしで色は黒い
土地の言葉を話しながら色鮮やかな鳥を売っている

この日、故郷に手紙を送る。寒暑計の針はカ氏85度。

12日、日の出を見る。赤く大きな輪が海を離れるのはまるで盆のようで、偉観だ。午前8時雨が降る。9時シンガポールを出発する。航海ははなはだ穏やかである。

13日、スマトラの海浜に沿って進んで行く。この地はオランダ人が領有しているが、原住民との戦いはいまだにやんでいないと聞く。数年前、オランダ軍はアチェ王国を攻めたが、我が林君紀が軍中にあって『閼珍紀行』を著した。私はかつてこの著書を読んで知っていた。今、この地に訪れて、その人をずいぶん久しぶりに思い出した。アチェはスマトラの首都であり、その北西端にある。詩を作る、曰く、

万里船を浮かべてスマトラ島を過ぎる 
アチェの府城がかなたのもやの中に見える
昔、林君は詔書を奉じて 身を奮ってオランダ軍に従軍した
元来、医者の道は簡単ではない
思い通りにいったりいかなかったり とてもややこしい
いわんや戦争の最中ならばなおさらだが
従容として傷病兵を措置し殊勲を建てた
林君は名高い家柄に生まれ
気象は英邁、人よりも抜きんでいた
西洋人の手段をすでに見抜いて
そのやり方を胸の内におさめた
日本に帰ってからその計画を天子に奏上した
その弁論は認められて高い官禄を得た
それ以来しばしば変事を調査した
君が残した策略は世に知られぬものもない
私はこの地にきて慷慨して彼方をみつめる
水煙がたちこめて夕日をおおっている
今誰が立ち上がって君の雄志を継ぐだろうか
当時の医学界にはすでに君がいたのだ

ああ、林君は志を得た立派な人であったがパリで客死したのはまことに惜しむべきことだった。

14日、ベンガル海に入る。

15日、風が強い。魚群が海面を飛んでいる。青い背中、白い腹。長さは1尺ばかり。

16日、風がますます強い。

17日、セイロン島に近づく。島はイギリス人が領有している。椰子の林が数十里続いているようだ。詩を作る。

インド洋の波は山のように大きい
トビウオが鳥のように何匹となく飛ぶ
今宵からセイロン島に近づく
青い霞が十里の椰子の林にかかっている

午後5時、ポアン・ド・ゴール港を望む。

本文

初七日早。遡塞棍河。兩岸皆平澤。艸木蓊然。點綴村舍。風景如畫。間見椰樹蘇鐵樹甚大。午後一時驟雨。有詩。寂寞漁村斷復連。夾舟深綠鎖輕烟。喜他一陣椰林雨。乍送微凉到客船。二時達港。自香港抵此八百十五里。舟之入港也。直接埔頭而駐焉。然赴市街者。猶有待於三版。取其捷也。瞻望市街。屋瓦皆赤。始試椰子。形如西瓜。解穀得漿。味極甘美。其穀可以爲椀爲盃。此日報軍醫本部。以香港觀病院之事。又發鄕書。

初八日早。倩馬車見花苑。馬瘦軀而多力。街上土色殷赤。兩邊種樹似槐。所謂尼泪爾弗樹也。有牽牛花及芭蕉。民家甚矮小。覆屋編扉。皆用椰葉。有繫網於二柱間。代榻用之者。又有垂竹簾者。室內多土床。與豕鴨同居。多支那人開廛。所鬻之果。曰黃彈。曰蒲桃。皆可食。土人皆嗜山子。一枚切爲四片。以蔞葉石灰幷嚼之。不復須劉穆之之金柈。故男女齒牙皆黑。山子者檳榔實也。婦女插梳。似我古代物。馭馬者皆黑人。首肩纏紅布。渡一川。有鐵橋架焉。入苑。草木皆偉麗。香港花苑。無此天然之色也。苑中蟬聲聒耳。出過佛兵屯舍前。有卒拔劒衞門。途逢一卒。左下肢挂假脚。又人一苑。多養動物。有鶴、孔雀、猩々、果然、虎、豹、羆、熊、山猫、獺、兎、鹿、鼈、蟒等。尤奇者爲巨鱷。鱗甲如老松幹。有池多蛙。聲若吹螺。午時歸舟。夜枕上有詩。暮天雨霽人忘熱。始覺舟中一枕安。夜半房奴吹燭滅。蟲聲喞喞迫窓寒。原聞地多蚊蚋。今殊不然。撿寒暑鍼八十五度。

初九日午前三時。發塞棍港。眠覺則既下河數十里矣。大風。至夜不歇。

初十日。風猶厲。多僵臥。不缺三餐耳。

十一日早。過麻陸岬蘇門答臘之間。山脈斷續。蜿蜒南北。波平如席。有詩。昨夜風生太苦辛。今朝風止笑顏新。人間悲喜何殊此。一日攢眉一日伸。午前八時。達星嘉坡。所謂新港。舟接埔頭。如塞棍港。沿岸多煤庫。有兒童乘舟來。請投銀錢於水中。沒而拾之。百不失一。舟狹而小。如刳瓜。嶺南雜記云。蛋戶入水不沒。每爲客泅取遺物。亦此類。午前十一時。倩馬車觀諸寺院及花苑。街上土色之赤。與塞棍同。多支那人。開廛鬻食。又挽腕車爲活。土人渾身黧黑。肩腰纏紅白布。女鼻穿金環。皆跣足。奉囘敎者。戴帽若桶。有牛挽車。肩峯突起。似駱駝。園多植椰子甘蔗。支那寺院。扁曰環州會舘。其他英佛禮拜堂。無足記者。入花苑。束盆樹作偶人。猶我菊偶也。憩於歐羅巴客舘。劣于香港客舘數等矣。午後三時歸舟。偶佛舶屋幾斯號入港。聞有日本客。徃見。錄其姓名如下。曰今村淸之助。曰福原允。並送陸奧宗光而歸者。曰圓中孤平。曰巖見鑑造。並商賈。晚餐後逍遥近岸。港口島嶼星羅。船燈萬點。々綴其間。盖此地麻陸一島。英人開港以扼支那印度兩海之咽喉。其盛固不待言也。有詩。聞說蠻烟埋水鄕。埔頭今見列千檣。英人應有點金術。塊鐵之頑乍放光。又日暮離舟立樹陰。隔林有寺送鯨音。兒童幾個膚如漆。蠻語啾々賣彩禽。是日發鄕書。寒暑針八十五度。

十二日。觀日出。紅輪離海。其大如盆。亦偉觀也。午前八時雨。九時發星嘉坡。舟行甚穩。

十三日。沿蘇門答蠟海濱進行。此地蘭人所領。聞其與土人戰。猶未止也。往年蘭軍攻閼珍。我林君紀在軍中。有閼珍紀行著。余會讀之熟。今對此境而想其人。憮然久之。閼珍者蘇門答蠟之都府。在其西北端。有詩云。萬里泛舟過蘇門。閼珍府城渺烟氛。憶曾林君奉明詔。奮身來從和蘭軍。由來爲醫道非易。知期愆期事紛々。况在兵馬倥傯際。措置從容建殊勳。林君生爲名閥子。氣象英邁自超群。西人手段看既透。條理井然胸裏存。歸來披圖奏天子。辯論稱旨官祿尊。自此屢閱邊陲變。君無遺策世所聞。我來慷慨遥決眦。水煙茫々罩夕曛。如今誰起紹雄志。當事醫林猶有君。嗚呼林君亦大丈夫得志者。其客死巴里洵可惜也。

十四日。入榜葛刺海。

十五日。風勁。見有魚群飛海面。碧背白腹。長尺許。

十六日。風益勁。

十七日。近錫蘭島。々英人所領。已而望椰林不知其幾十里也。有詩。印度洋波山樣大。飛魚幾隻似飛禽。今宵來近錫蘭島。十里靑烟椰樹林。午後五時望波殷徒噶兒港。

尼泪爾弗樹。不明。ニルジフ?

屋幾斯号。不明。オキシ号?

黃彈。黄皮。ワンピ。

蒲桃。プータオ。フトモモ。

山子、檳榔。ビンロウ。たばこのニコチンと同じ作用を持つアルカロイドを含むとされる。これを噛むと歯が黒く染まる。

劉穆之之金柈。劉穆之は中国の南北朝時代の人。「宋書」檳榔:

劉穆之少時,家貧,誕節嗜酒食,不修拘檢。好往妻兄家乞食,多見辱,不以為恥。其妻江嗣女,甚明識,每禁不令往。江氏后有慶會,屬勿來,穆之猶往。食畢,求檳榔,江氏兄弟戲之曰:「檳榔消食,君乃常饑,何忽須此?」妻復截發市肴饌,為其兄弟以餉穆之,自此不對穆之梳沐。及穆之為丹陽尹,將召妻兄,妻泣而稽顙以致謝。穆之曰:「本不匿怨,無所致憂!」及至醉,穆之乃令廚人以金盤貯檳榔一斛以進之。

昔貧しかった劉穆之が妻の兄の家に行って檳榔を頼んだ。檳榔は消化に良いのにいつもひもじい思いをしているおまえがなぜ檳榔を食べるのかとからかわれた。のちに劉穆之が偉くなったときお返しに檳榔を金の器に盛って出した、というような話。

星嘉坡。シンガポール。

嶺南雜記。吳震方という清朝の政治家が書いたものらしい。清朝の嶺南は広東、広西、ベトナム北部一帯を指す。

林君紀は林研海(林紀(はやしつな))。

閼珍はアチェのことと思われる。アチェ戦争はオランダがアチェ王国に侵攻した戦争。明治6 (1873)年–明治37 (1904)年。「閼珍紀行」については雑誌「鴎外」58を参照。

榜葛刺海。ベンガル海。

波殷徒噶兒。ポアン・ド・ゴール(Point de Galle)であろうと思われる。現在の地名はガル、もしくはゴール。

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