航西日記4

9月1日、夜明けに港を望む。市街は山が迫り海に面している。区画は上環中環下環の三つに分かれている。家はみな石造りである。その清らかで汚れのない石は香港の山の中で採れるという。午後4時、はしけ舟を呼んで上陸する。駕籠を頼んで領事館へ行く。領事館は上環にある。坂道ははなはだ険しい。石畳に階段を作っている。領事館で晩餐する。魚膾・米飯・瓜の漬物などが饗される。10日間洋食ばかりで食べ飽きていたのでありがたい。中尉島村千雄が領事館にいて、清仏戦争の戦況を詳しく話してくれた。一緒にイギリス兵の屯舎を見に行くことを約束する。島邨は土佐の人、昔、萩原と知り合いであったという。舟に帰って宿泊する。盗難に遭うことを恐れるためである。おそらく香港の名はもとはポルトガル語の「盗賊」に由来するのだろう。清国の人がその音を今の字に当てたのである。王紫詮が言うに、山の上には泉が多く、甘く清いことは、よその土地とは異なっている。これによって香港というのではないかと。王紫詮はポルトガル語を知らないのでそのような説を言うのだ。この日、故郷に手紙を出す。寒暑針はカ氏85度。

2日、花の庭園に遊ぶ。その庭園は非常に大きくて上環にある。門に入ると緑が衣を透すようで、紅紫の花々に目がくらむようだ。サボテンの類いは驚くほど大きいものがある。檻の中に孔雀・鸚鵡・猿、鹿などを養っている。市街に足を伸ばし、坊門や看板を見る。皆その筆法はうるわしくなまめかしくたおやかである。香港のホテルで晩餐する。領事館の記室書記官が二人来て会う。一人は町田實一という人、もう一人は田邊貞雄という人。田邊もまたメンブレ号に乗ってホテルに来た者で、ドイツ語を解するので、快談して気張らしし、船に帰って寝た。

3日早朝に領事館に行く。島村とともにイギリス兵の屯舎を見ようと思ったのである。町田が言うには、昨日使いを遣わして、屯舎にいた某中佐にその意志を伝えたのだが、いまだその返事がないと。領事館で昼食をとる。にわか雨があった。

午後4時、返事が来る。行って見ることを許される。そこで駕籠を雇って療養病院に至る。時刻が遅すぎて屯舎を全部見るヒマがない。島村は理由があってこなかった。ただ丹波だけが同行した。病院は下環の南にある。規模はそれほど大きくない。下医の貝堀氏が迎えて診察室に入れてくれた。半時ほど話をしながら各区を巡覧した。実際に病兵が10人ほどいた。みんなインド人であった。200人のインド人から病にかかる比率を計算すると、100人に5人の割合である。その病は熱症が最も多い。下痢がこれに次ぐ。性病にかかるものは一人もいない。病室は三区に分かれ、区ごとに10のベッドを置く。2列に分けて2つのベッドごとに1つの窓がある。窓に上下の口がある。上が小さく下が大きい。部屋の隅には換気のための箱が設けられている。箱の側面は鎧戸に似ている。下の面に蓋があって開くことができる。部屋に麻のすだれがあり、船の中と同じである。支那人の小間使いがいて部屋の外で縄を引いてこのすだれを動かす。医者に、患者一人当たりの空気の容積を問うと、曰く、約1200立方尺であると。はなはだしく差があるわけではなさそうだ。診視治療の方法を問うが、特に言うべきこともない。その病名を名付けるのも非常におおざっぱだ。一つの病床日記があり、単に熱症と記載している。どんな熱かと問うても答えることができない。避病室があり、ベッドは2つ入っている。平病室とわずかに一つの壁で隔てられているだけだ。癩狂室は無い。発狂した兵がいたらこれを船に送るという。看護室に入ると兵卒が数人いて起立して礼をした。服装はきれいで垢に汚れた者はいない。厠を見ると普通の水洗であるが、臭気はない。廊下の一隅に濾過装置を置いている。また盥漱室がある。他には特に異なるところはない。薬局は病院と別に作られている。見終わってたまたま外科医長の末克耶烏殷氏が来て面会した。船で浮動病院というところへ行くとそれは巨大な船であった。船の中は甲板を除いて四層になっている。第一と第二層に病兵を入れている。層ごとに60台のベッドがあり、2列に分かれている。ベッド2つあたりに窓が1つあるのは療養病院と同じである。ただし、患者一人当たりの面積は療養病院の2倍ある。天井が低いためである。一番後ろの区は癩狂室であるが、ベッドが1つあるだけである。私は便器がないのをあやしんで問うてみたところ、平病のものと同じ厠があると。看護の兵卒が数人で助け合って看病している。船の中には現在病兵が50人いる。みんなイギリス人である。イギリス人1200人から病に罹る割合を計算すると100人に4人である。その病は梅毒と淋病が最も多く、熱症がこれに次ぐ。医官室、看護室、薬剤器械室、図書戯玩室、みな第一と第二層にある。浴室、便所もまたそうである。第三層は病兵の服や剣などをしまっており、下士官がこれを守っている。第四層には水を蓄えている。甲板には水兵室、厨房、役夫室がある。一隅に大きな鉄の箱が並んでいて、浄水を蓄えている。見終わり、挨拶して陸に上がる。すでに日が暮れていた。はしけ舟を呼んでフランス船楊子号に行く。同行の者たちは先にここに来ていた。荷物を収めて眠りに就いた。耶烏殷氏と面会したときに、病兵の中で足にむくみがあるものがいるかを私は問うた。脚気の有無を知りたかったからである。耶烏殷氏が言うには、はなはだ稀であると。しかしながらたまたま維新日報を読んだら、岡州の某医師の報告があって、もっぱら脚気を治療していると言っている。おそらく港にいる支那人は多くがこれを患っているのであろう。

4日午後、香港を出発する。港にいるうちに詩を二つ作った。

アヘン戦争当時のことはすでにはるか昔のこととなった 
時勢の移り変わりは喜びもあり憂いもある
誰が予測しただろうか、この草深い荒れ地が
イギリス人に与えられて幾万もの船を停泊させることとなろうとは
故郷へ送る手紙を書き終えると心はひどく寂しい 
重なり合った山々に霧が立ち上るのを座ったままみている
日は落ちても夕日はまだ波間に残っている
小舟がやってきて芭蕉の実を売っている

5日、海上に見るもの特になし。

6日、ベトナムの山並みを過ぎる。詩を作る。

安南の山の下に船が多く浮かび過ぎていく 
振り返り眺めているときりがない
辺りを見回して大昔の遠征のことを思う
雲のいずこに伏波将軍を弔おうか

安南とは交趾のことである。その俗は両足の親指をそれぞれ曲げて向かい合わせるのでその名がある。その說は「安南紀遊」に出る。

本文

九月初一日。天明望港。市街倚山枕海。區畫層々。分爲上環中環下環。家皆石造。皎潔若雪。石香港山中所產云。午後四時呼三版登岸。倩輿至領事署。署在上環。阪路甚峻。鋪石設級。晚餐於署。有魚膾米飯醃瓜等之饗。足以一洗十日喫洋饌之口矣。中尉島邨千雄在署。語淸佛戰况甚詳。約俱觀英兵屯舍。嶋邨土佐人。曾與萩原相識云。歸宿舟。恐盜也。盖香港之名。原出葡語。盜賊之義。淸人塡以今字。王紫詮曰。山上多泉。甘洌異常。香港之名或以是歟。紫詮不識葡語。故有此說。此日發鄕書。寒暑針八十五花度。

初二日。遊花苑。苑頗大。在上環。入門則碧翠透衣。紅紫眩目。霸王樹之類。有偉大可驚者。有檻畜孔雀鸚鵡猨鹿等。出步市街。見坊門招牌。皆筆法斌媚。晚餐於香港客舘。領事署二記室來會。曰町田實一。曰田邊貞雄。田邊亦乘綿楂勒舶來舘者。主解德國語。快談遣悶。歸宿舟。

初三日早。至領事署。欲與嶋村俱觀英兵屯舍也。町田曰。昨遺使吿意於在舍中佐某。未得其答書。午餐於署。驟雨。午後四時答書至。許徃觀。乃倩輿至停歇病院。以時已晚。不暇遍觀屯舍也。嶋村有故不行。唯丹波同行。院在下環之南。規模不甚宏大。下醫貝屈氏迎入診室。交語半晌。已而巡覽各區。現有病兵十人。皆印度種。以其全員二百。算其罹病比例。則爲百之五。其病熱症最多。下利次之。絕無染花柳病者。病室三區。每區置十牀。分爲二列。每二牀一窓。々有上下口。上小下大。室隅別設換氣方筐。々之側面。似我鎧戶。下面有盖可開闔。室垂麻簾。與舟中同。有支那奴在室外引索動之。問醫每人所領之空氣容積。曰約千二百立法尺。似不甚差者。問診視治療之法。無復足言者。其命病名甚疎。有一病牀日誌。單記熱症。問何熱。不能答也。有避病室。可容二牀。與平病室。僅隔一壁。無癲狂室。有兵發狂。送諸舟中云。入看護室。有卒數人。起立作禮。服裝鮮美。無垢汚者。見厠。尋常水圊耳。然無臭穢氣。廊之一隅。置漉水器。又有盥嗽室。無他異。藥局則別築之。觀畢。偶外科醫長末克耶烏殷氏來接。飛艇至浮動病院。則一巨舶也。舶內除艙板之外。分爲四層。第一二層病兵居之。每層置六十牀。分爲二列。每二牀一窓。與停歇病院同。唯一人所領之面積則倍之。以縱尺小也。最尾一區。爲癲狂室。亦置一臥床耳。余恠無便器問之。曰圊與平病者同之。看護卒數人扶掖而上。舶內現有病兵五十人。皆英人。今以其全員千二百。算其罹病比例。則爲百之四。其病則黴之與淋爲最多。熱症次之。毉官室、看護室、藥劑器械室、圖書戲玩室。皆在第一二層之間。浴室厠圊亦然。第三層藏病兵衣劔等。有下士守之。第四層貯水。艙板則有水兵室。有割烹室。有役夫室。一隅排列巨鐵函。以貯淨水。觀畢。辭別上岸。則日已旰矣。呼三版至佛舶揚子號。同行諸子皆先徒在此。安頓行李就眠。余之接耶烏殷氏也。問病兵中有腿脚水腫者否。驗脚氣之有無也。耶烏殷氏曰。甚稀。然偶讀維新日報。有岡州醫某吿文。謂專治脚氣。盖支那人在港者多患之。

初四日。午時。發香港。在港間有詩二首。開釁當年事悠々。滄桑之變喜還愁。誰圖莽草荒烟地。附與英人泊萬船。家書艸罷意凄然。坐見層巒烟霧起。日落餘光猶在波。扁舟來賣芭蕉子。

初五日。海上無所見。

初六日。過安南山下。有詩。安南山下蘯船過。顧望不堪應接多。囘首遠征千古事。烟雲何處吊伏波。安南則交趾。其俗兩足大趾。交曲相向。故取名。說出安南紀遊。

三版は三板、あるいは舢舨。小型船のことであろう。長崎でもサンパンと呼んでいた。

輿とは、神輿のように担ぐものではあるまい。駕籠か、あるいは人力車のことではないか。とりあえず駕籠と訳しておいた。

上環中環下環。西から東へ並ぶ。下環は今の湾仔(ワンチャイ)

清仏戦争は明治17 (1884)年と明治18 (1885)年に起きた。フランスによるインドシナ侵攻はアヘン戦争が起きた1840年頃から始まり、ベトナムに対する宗主権を巡り、1884年8月中旬、和平交渉は決裂、清国とフランスの間で戦争が勃発した。

岡州、かつて広東省にあった地名。

伏波将軍は馬援。後漢の光武帝によってベトナムに派遣されこの地で病没した。

交趾とは、中国がベトナムに置いた郡。

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