18日未明、コロンボ港に入る。シンガポールからここに至るまで1570里。港の沖に堤防を築いて大洋を隔てている。おそらく鉄道にも利用するために作られている。激しい波が堤防に打ち寄せている。10丈の高さで建てられている。白い波しぶきが乱れ飛ぶ。まことに心を動かし、魂を驚かせる光景だ。人家が赤い瓦で葺かれているのはサイゴンと同じである。はしけ舟は木をくりぬいて作っている。形は狭く小さい。ふなべりに弓なりの木を二本しばりつけて、その端にいかだをつけて、舟が傾かないようにしている。二人でこの舟を操縦している。水を運ぶ舟も来た。現地の服務者らは常に無駄口をたたいている。
午前ににわか雨。食事を終えた後に、小さな汽船に乗って上陸する。人を雇って道案内させ、街の中を巡覧する。現地人は目が大きく鼻が高い。服装はシンガポールと同じである。婦人が挿す櫛は半月の形をしている。湖があって蓮が多い。牧場には牛が数十頭いて緑の草の上で起きたり寝そべったりしている。路傍には椰子の木、ねむの木、黃麻竹が多い。ガジュマルがくねくねとまがりねじれた奇怪な形をして空を覆い日を遮っている。呉子が「谷を覆いつくす牛や羊」と言ったのはまさにこれであろう。路上で車を引く牛はみな皮に文様を焼きこんでいる。その惨状を見るといやな気分になる。博物館に入る。禽獣魚虫などがたくさん陳列されている。家のように大きな象の骨がある。また、古い道具に、剣、槍、琴、鼓、金石仏像などがある。どれも古色蒼然としている。
外へ出て桂の林を見る。木はみな小さい。一つの仏寺に入る。釈迦涅槃像がある。陶器のお盆に花を供えている。香気が堂に満ちている。僧侶の容貌は阿羅漢の像のようである。黄色い袈裟をかけて、革の靴を履いている。寺には貝多経が収められている。字はマレーの書体を用いている。
ここは仏教が隆盛した土地であり、方言の中に、旦那、伽藍、などの言葉がある。詩を作る。
鳩は林の外で鳴いて雨音が聞こえる
禅寺の扉を叩こうとして車を暫く停める
錫杖を持った僧侶が案内してくれる
いくつもの箱に入れた、畳まれた葉に記されたお経をみせてもらった
羅約兒ホテルでしばらく休憩し、午後1時に船に帰る。3時、港を離れる。夜、月が明るかった。詩を作る。
どこでここのような幽かな風物を見ることがあろうか
赤い花に緑の葉が四季を通じて生い茂っている
船はもやい綱を解いてこの地を去るが名残惜しい
清らかな月光に照らされた国の秋を去るのが心苦しい
『西遊記』によれば、おそらく月国とはインドの意味。この日、故郷に手紙を送る。寒暑計の針は75度。
19日、アラビア海に入る。
20日、航海はすこぶる穏やかである。
21日、日曜日にあたる。ヨーロッパ人客の踊りを見る。
22日、午後に風が起こるが、航海には支障ない。
23日、風はまだやまない。
24日、昼過ぎに風がやむ。晩にソコトラ島を望む。山は深く険しく、のこぎりのような形をしている。
25日、水面は蓆を敷いたように平たい。巨大な魚が波の上に浮かんでいるのを見る。
26日、アデン港に入る。セイロンからここに至るまで2135里。この港はイギリス人が開いた。紅海の入り口に位置し、海は西南に面している。この地を赤い山がとりまいている。4時、雨が少し降る。見渡す限り赤い野が広がりまったく緑はない。現地人は褐色で頭髪は黄色く枯れている。鼻に金の輪を通し、衣は半身を覆っている。アラビア語と英語交じりの言葉を話す。宗教はみなイスラム教である。現地人が来て物品を売る。ダチョウの羽が最も美しい。
この地には雨水を貯めておくための貯水池があって、ソロモン王が始めたものであるという。行ってみてみたいと思ったが、体調が思わしくなくはたせなかった。光明寺三郎と偶然出会う。三郎は外務書記官で、パリから帰る途中であるという。
午後6時、船出する。暑さがはなはだしい。寒暑計の針は90度。詩を作る。
万里、船は大波の間を過ぎる
旅衣には涙の跡がまだらになっている
禿山に赤い野 青草はない
故郷の山にはまったく似ていない
また、
誰かと相見て、笑って口を開くこともない
海の上に立ち込める黄色い砂埃には驚いた
体質が弱い者でなくとも耐えることはできまい
赤い日が山を焦がし海を煮ている
この日、故郷に手紙を送る。
27日から30日まで、ずっと朝から夕べまで紅海の中を行く。海底にサンゴを生じるので、紅海と呼ぶのであると世には伝えられている。あるいは両岸の土が赤いので、このような名になったともいう。この間航海はずっと安穏で、気候はいくらか涼しかった。大きな炉を出たような心地よさがあった。
本文
十八日。未明入歌倫暴港。自星嘉坡抵此千五百七十里。港澳築堤。以限大洋。葢兼作鐵道之用也。激浪觸堤。堅立十丈。白沫亂飛。洵動心驚魄之觀也。人家葺赤瓦。不殊塞棍。三版刳木造之。形狹而小。扁舷縛兩木。彎曲如弓。其端挂以浮槎。令無傾欹。二人行之。有舟來輸水。土人服事者。絮語不絕口。午前驟雨。食罷。乘小滊船上陸。雇人爲導。驅車巡覽街衢。土人睅目隆準。服裝與新港同。婦人插梳。形如半月。有湖多蓮。有牧牛塲。見牛數十頭。起臥于綠艸之上。路傍多椰樹、合歡木、黃麻竹。有榕樹。離奇古怪。參天遮日。吳子所謂可蔽滿谷之牛羊者卽此。路上挽車之牛。皆烙皮成文。慘狀可厭。入博物局。所列禽獸魚蟲甚多。有象骨大如屋。又古器中有劔、槍、琴、鼓及金石佛像。皆古色蒼然。既出。見桂林。樹皆矮小。入一佛寺。有釋迦涅槃像。陶盤供華。香氣溢堂。僧貌如阿羅漢像。挂黃袈裟。穿革鞋。寺藏貝多經。字用巫來由體。此地釋迦隆興之所。方言中猶有檀那伽藍等之語云。有詩。鳩啼林外雨淋鈴。爲扣禪扉車暫停。挂錫有僧引吾去。幾函疊葉認遺經。小憩於羅約兒客舘。午後一時歸舟。三時離港。夜月明。有詩。風物何邊似箇幽。紅花綠葉四時稠。扁舟解去多遺恨。蓽負淸光月國秋。盖印度者月國之義。說出西域記。此日發鄕書。寒暑針七十五度。
十九日。入阿刺伯海。
二十日。舟行頗穩。
二十一日。當日曜日。觀歐客歌舞。
二十二日午後。風起。而不至苦船。
二十三日。風未歇。
二十四日。至午風歇。晚望速哥多喇嶋。山骨㟏岈。作鋸齒狀。
二十五日。水平若席。觀巨魚浮波上。
二十六日。至亞丁港。自錫蘭抵此二千百三十五里。港英人所開。紅海之咽喉也。西南面海。赭山繞焉。四時少雨。滿目赤野。不見寸綠。土人褐色。頭髮黃枯。鼻穿金環。衣掩半身。操亞刺伯音。雜以英語。所奉皆囘敎也。土人來賣貨物。駝鳥羽最美。聞此地有貯水池。以貯天水。速爾門王所創。欲徃觀而不果。以有微恙也。邂逅光明寺三郞。三郞爲外務書記官。自巴里歸者。午後六時開行。熱甚。寒暑針九十度。有詩。萬里船過駭浪間。征衫來此淚成斑。童山赤野無靑草。豈有風光似故山。又誰得相看笑口開。堪驚波上泛黃埃。雖非蒲柳何能耐。赤日焦山煑海來。此日發鄕書。
二十七日至三十日。皆早暮行紅海中。世傳水底生珊瑚。故名。或云。兩岸赭土。所似有此名也。此間舟行安穩。氣候漸北漸冷。有出洪爐中之快。
註
歌倫暴。コロンボ。
吳子所謂「可蔽滿谷之牛羊」者卽此。「呉子」の兵法書のことを言っているのだろうが、不明。
貝多経。貝多は貝多羅葉の略。貝葉とも。椰子の葉に書かれた仏教の経典。
羅約兒ホテル、不明。Mount Lavinia Hotel か?
速爾門王。ソロモン王。
開行。港を出ることだろうか。以下そのように訳す。