還暦を迎えて今更漱石とか鴎外を調べているのは個人的に調べる必要が出てきたからなのだがそれはともかくとして、鴎外に「夏目漱石論」という短い随筆があって、これで鴎外が漱石をどう思っていたかだいたいのことはわかる。随筆というよりはおそらく新聞記者か何かのインタビューで聞かれたから答えたというようなもの。漱石は何か計略や計算のようなもので売れてきたのか、漱石に対する評価は高すぎるか低すぎるか、などというあけすけな質問に対して、漱石に対する現在の評価は低すぎるので彼が今の地位にいるのは何かの企みではなく正真正銘彼の実力によるものだろう、などと言っている。鴎外はしかし漱石が書いたものをそんな真面目に読んでいるわけでもなく、通り一遍に知っているだけのようだ。漱石は金儲けに汲々としているかという質問に対して、そんな家庭の事情は知らないが、あまり金持ちになっていそうにも思えないと答えている。
漱石が小説を書き始めたのは生活の足しにするため、つまり小説を書いてそれを家計の足しにしようと思ったからに違いない(※追記「高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ」とウィキペディアにはある。また本業の気晴らしとして小説を書いたとも言われている)。新聞に掲載されるとどういうわけか非常に評判が良くてどんどん書くようになった。『吾輩は猫』も『坊っちゃん』も『草枕』も明らかにいわゆる新聞連載小説、通俗小説だ。
一方で鴎外は江戸初期から続く医者の家系であって、若い頃から漢詩も作っていて、蘭学も親から習い、ドイツ語も勉強し、非常な秀才であって、ドイツ留学から帰ってすぐに小説を書き始めたから、漱石よりも15年ほど早く本格的な作家活動を始めたわけだ。鴎外は別に売れっ子作家になろうと思ったわけではあるまい。軍医の仕事だけで十分暮らしていけた。鴎外から見れば漱石の漢詩にしても小説にしてもひよっこくらいに思っていただろうけど、漱石の小説が人気を博していて自分よりもある意味売れているのは事実として認めていただろうし、また漱石のことは紳士だと言っている。
「予が立場」というものもこれは記者に質問されたものがそのまま文章になったもののように思われるが、鴎外は世の中で誰が上で誰が下か序列を付けようとして大変迷惑しているのがわかる。この中で「少し距離のある方面で働いているのは夏目君に接近している二、三の人位のものでしょうか」と言っているのは、自分と漱石が働いている世界がかなり隔たっていることを言っている。世界が違うので比較のしようがないのに比較されて困っているともいえる。
私はといえばこれまで漱石も鴎外も愛読してこなかったくらいだから別にどちらが好きでも嫌いでもない。愛読したといえば中島敦とか小室直樹なんかのほうがずっと愛読したし、それより何より、頼山陽や本居宣長なんかを読んだ。芥川龍之介や志賀直哉なんかの短編も嫌いではない。
「なかじきり」と言う文で「叙情詩においては、和歌の形式が今の思想を容れるに足らざるを謂い、また詩(漢詩のこと)が到底アルシャイズム(archaism、懐古趣味、骨董趣味とでもいおうか)を脱しがたく、国民文学として立つ所以にあらざるを謂ったので、款を新詩社とあららぎ派に通じて国風振興を夢みた」などと言っていて、明治の人がそう思うのは仕方ないとして、アララギ派と親しくしたからには正岡子規とは親しかったはずだ。
鴎外はおそらく和歌はまったくわからなかったはずだし、大和言葉(擬古文)を操る能力もなかったと思う(それは漱石も同じだが)。漢詩に関してはずいぶん勉強してうまかったはずだが、やめてしまった。鴎外はしかし樋口一葉の小説の面白さは理解していたから、間接的にではあるが和歌や和文の面白さがわからぬ人ではなかったのだろう。ファウストの訳などみるに、どうもあれはやっつけ仕事に思える。しかし鴎外のほかまだ誰も訳していなかった時代に初めて訳してみせたのだからそれは偉いと思う。鴎外訳を下敷きにしてあまたの人がファウストを訳してみようと思わせただけでも偉いといえば偉い。何しろ鴎外は仕事が多すぎる。結局手当たり次第に手を付けて何がやりたいのかどうしたいのか本人にもわからなかったのではなかろうか。一つ一つの仕事はそんなすごくないと思うのだが、何しろ一通り読んでみるには時間がかかりすぎる。